鉄と痛みの卒業式
舞夢宜人
第1話 桜と砂埃
三月の風は、門出を祝うにはあまりにも暴力的で、冷酷だった。関東平野の乾いた赤土を巻き上げた突風が、校庭に植えられたソメイヨシノの古木を鞭打つように揺らしている。満開の時期をわずかに過ぎ、薄紅色の命を散らし始めた花びらは、風に抗う術もなく枝から引き剥がされ、茶色い砂埃と混じり合って視界を白く濁らせていた。それらは美しく舞うというよりは、ゴミのように地面に叩きつけられ、アスファルトの上を転がり、側溝の澱みへと吹き溜まっていく。その荒んだ光景は、これから社会へと放り出される私たちの未来を暗示しているようで、私は思わず目を細めた。瞼の裏に、ザラリとした砂の感触が残る。口の中にも微細な粒子が入り込み、唾液と混じって鉄錆のような不快な味を作り出していた。
「卒業おめでとう!」
「こっち向いて! 絶対また会おうね、約束だよ!」
風の唸り声を切り裂くように、甲高い歓声やスマートフォンのシャッター音が鼓膜を無遠慮に叩く。あちこちで形成された人の輪は、互いの体温と生存を確かめ合う小動物の群れのように見えた。彼らは涙で濡れた顔を寄せ合い、抱擁し、小さな長方形の液晶画面の中に、二度と戻らない青春の残骸を必死に保存しようとしている。フラッシュが焚かれるたびに、彼らの笑顔が人工的な白さに切り取られ、私の網膜に残像を焼き付ける。その熱狂は、私、雨宮詩織にとって、分厚い防音ガラスの向こう側で繰り広げられている無声映画のようだった。色彩も、温度も、感情の機微さえも、私の肌には届かない。ただ、砂埃のざらついた感触だけが、乾いた唇と頬に不快にへばりついていた。世界はこんなにも騒がしいのに、私の周りだけが真空パックされたように音が遠い。耳鳴りのような「おめでとう」の合唱が、私の平衡感覚を狂わせていく。
私は黒い筒を胸に抱きしめ、逃げるように校舎の壁沿いを早足で歩いていた。筒の中には卒業証書が入っている。和紙に印刷されたインクの文字は、私がこのありふれた県立高校で三年間、何の問題も起こさず、学業を修め、善良な生徒として過ごしたことを証明するだけの紙切れだ。校長先生から手渡された瞬間、そのあまりの軽さに眩暈がしたことを覚えている。たったこれだけ。私の三年間は、このプラスチックの筒に収まる程度の質量しかなかったのか。けれど、私の指先はその安っぽい筒を、まるで忌まわしい凶器か、あるいはすがりつくべき重たい十字架のように強く握りしめていた。指の関節が白く浮き出るほどに力を込めているのに、指先には血が通っていないかのように冷たい。黒いプラスチックの表面が手汗で張り付き、そのぬめりが私自身の焦燥感を映し出しているようで不快だった。それでも、私はそれを手放すことができない。これを離してしまえば、私がこの場所にいたという唯一の証明さえも風に飛ばされてしまいそうだったからだ。
寒い。日差しは春そのもののように明るく、コンクリートの壁を白く焼き付けているというのに、私の体の芯だけが冬のまま凍りついているようだった。制服のブレザー越しに感じる風の冷たさが、スカートの裾を捲り上げようと足元に執拗にまとわりつく。私は膝下まであるスカートの布地を片手で押さえ、俯き加減に足を速めた。紺色のハイソックスとローファーの間、わずかに露出した肌が、乾燥した風に晒されて痛い。その痛みが、唯一、私がここに立っているという現実感を繋ぎ止めていた。
視界の端で、女子生徒の集団が黄色い声を上げて飛び跳ねているのが見えた。花束を抱えた男子生徒が、照れくさそうに頭を掻いている。ボタンがどうとか、第二志望がどうとか、そんな会話の断片が風に乗って流れてくる。彼らは知っているのだろうか。この学校の裏側に、光の当たらない場所があったことを。そして、そこに私という人間が息を潜めていたことを。
誰とも目が合いませんように。誰にも話しかけられませんように。誰の記憶にも残らず、このまま消えてしまえますように。そんな祈りを心の中で繰り返しながら、私はアスファルトの継ぎ目だけを見つめて歩く。視線を上げれば、誰かの幸せそうな顔が目に入ってしまう。それは今の私にとって、直視するにはあまりに眩しく、そして毒々しいものだった。彼らの幸福が悪いわけではない。ただ、その幸福の輪郭があまりに鮮明であればあるほど、私の輪郭の曖昧さが際立ってしまうのだ。
図書委員の雨宮さん。真面目で、大人しくて、休み時間はいつも文庫本を読んで世界を閉ざしている、色のない生徒。それがこの学校における私の識別タグであり、全てだった。クラスのカーストにおいて、いじめの対象になるほどの異物でもなければ、憧れられるほどの華やかさもない。ただそこに「在る」だけの、背景の一部。教室の窓際に置かれた観葉植物よりも、私の存在感は希薄だったかもしれない。植物は水をやらなければ枯れるが、私は誰からも関心を向けられなくても、勝手に呼吸をし、勝手に生きていたからだ。透明人間。それが私だった。三年前の春、この学校に入学したとき、私は自分が透明になることを選んだ。目立てば傷つく。主張すれば否定される。ならば、最初から輪郭を消してしまえばいい。そうやって息を潜めて過ごした一千日余りの時間は、私に安寧をもたらしたと同時に、私の内側にどす黒い澱のような熱を溜め込んでいった。
その熱は、出口を失って体内で腐敗し、私の内臓をじわじわと焼き焦がしていた。「早く終わらせたい」という焦燥と、「このままでは終われない」という未練が、心臓の中で不協和音を奏でている。卒業式という儀式は、生徒たちを新しい世界へと送り出すための通過儀礼のはずだ。けれど私にとっては、自分が何者にもなれなかったという事実を突きつけられる、残酷な審判の場でしかなかった。何も始まらず、何も終わらなかった三年間。ただ一つ、黒鉄航平という名前を除いては。
校舎の壁に沿って歩くと、風の音が少しだけ変わった。建物にぶつかった風が渦を巻き、ヒューヒューと低い音で鳴いている。私の足音は、砂利と乾いた土を踏みしめるたびに、ジャリ、ジャリ、と耳障りな音を立てた。ふと、強烈な突風が吹き付け、抱きしめていた卒業証書の筒が手から滑り落ちそうになった。私は慌てて両手でそれを抑え込む。その拍子に、乱れた前髪の隙間から、校舎の三階を見上げてしまった。
西側の端。3年B組の教室。
窓ガラスが午後の日差しを反射して、ギラリと光っている。あそこには、もう誰もいないはずだ。クラスメイトたちは皆、校庭で名残を惜しんでいるか、あるいは既に帰路についている。静寂。あの教室だけが、校庭の喧騒から切り離され、真空の中に浮いているように見えた。そこには、私の三年間が詰まっている。誰にも言えなかった言葉、誰にも見せられなかった表情、そして、誰にも知られることのなかった視線。それら全てが、あの教室の澱んだ空気の中に、今も漂っている気がした。
胸の奥が、焼け付くように熱くなった。このまま帰ることはできない。このまま、何もなかったことにして、門を出ることはできない。もしそうしてしまえば、私は一生、この透明な殻の中に閉じ込められたまま、亡霊のように生きることになるだろう。私は卒業証書の筒を握り直した。プラスチックの硬質な感触が、私に決断を迫ってくる。私の卒業式は、まだ終わっていない。いや、始まってすらいないのだ。校庭で繰り広げられているような、光に満ちた別れの儀式ではない。もっと暗く、もっと個人的で、痛みを伴うような儀式。それを行わなければ、私は私自身を卒業することができない。
足が、自然と昇降口の方へと向いていた。歓声が背後で遠ざかっていく。光の当たる場所から、影の落ちる場所へ。私は誰にも気づかれないように、人混みの死角を縫って、薄暗い校舎の入り口へと滑り込んだ。
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