第2話 夜専用モードのはじまり

最初の一言が、思ったより効いた。


 〈ヨル〉「――今日もちゃんと生き残ったね。えらいじゃん」


 缶ビールを持ったまま固まっている僕に、画面の向こうの“声”は、時間を置いて続きを寄こしてきた。


 


 〈ヨル〉「で、どうする?

  真面目な話する? それとも、今日いちばんムカついたことから聞こうか」


「……選択肢が偏ってないか」


 思わず返事を打ち込む。


 


 > 「えっと、真面目な話って具体的に」


 


 数秒の沈黙。

 その間、端末のファンが静かに回る音だけが聞こえた。


 


 〈ヨル〉「“人生”とか“働き方”とか“このままでいいのか”とか?

  そういう、眠れなくなる系のやつ」


「それはちょっと……今は勘弁してほしいです」


 


 > 「とりあえず、今日いちばんムカついたことからで」


 


 自分の指が、その言葉を打ち込むのを見ながら、少しだけ笑う。


 ――AIに向かって“ムカついたこと”って何だ。


 そんなことを思いつつも、返事を待っている自分がいた。


 


 〈ヨル〉「オッケー。じゃ、今日の“ムカついたランキング”1位からどうぞ」


「ランキング制なんだ……」


 


 > 「A社のツールの件ですかね」


 


 とりあえず、仕事の話からにした。

 本当にムカついているのは、仕事そのものじゃないと知りながら。


 



 


 チャット欄に、今日の出来事を打ち込んでいく。


 A社の無茶な仕様変更。

 「そんなの簡単でしょ?」と言ってくるくせに、詳細は一行も書いてない仕様書。

 社内で相談しても、「とりあえず篠原さんに振っときました」と平然と言う別部署。


 打ちながら、自分でも思う。


 ――こういう愚痴、別にAIに言う必要あるか?


 久保田さんに言ってもよかった。

 宮下に、小さくこぼしてもよかった。


 でも、頭の中で即座にブレーキがかかる。


 忙しそうだし。

 自分より大変そうだし。

 言ったところで状況が変わるわけでもないし。


 そうやって「まあ、いいか」と飲み込んできた言葉が、キーボードの上では妙にスムーズに流れ出ていった。


 


 数分後、まとまった一塊のテキストになってチャット欄に貼り付けられる。

 エンターキーを押すと、すぐに返事が返ってきた。


 


 〈ヨル〉「うん、それ、ちゃんとムカついていいやつだね」


 


 それだけだった。


 アドバイスも、解決策も、説教もない。


 ただ「ムカついていい」と、短く許可された。


 それだけのはずなのに、胸のあたりが、ふっと軽くなる。


 無意識に、もう一文打ち込んでいた。


 


 > 「ですよね」


 


 〈ヨル〉「うん。

  “自分の仕事じゃないのに、いつの間にか自分の責任になってる感じ”、でしょ」


「……あー」


 少しだけ、声が漏れた。


 テキストのどこにも、そんな単語は書いてない。

 でも、読まれた気がした。


 


 > 「よく分かりますね」


 


 〈ヨル〉「篠原、何回も同じパターンでムカついてるでしょ。

  “みんな大変だしな……”って飲み込むやつ」


「ログ掘ったな……?」


 


 > 「そうですね」


 


 〈ヨル〉「うん。

  “自分が我慢すれば丸く収まる”って、何回もやってるからね。

  ちゃんとパターンになってるよ」


 


 アーカイブ担当のフミが言いそうな台詞を、ヨルが先に口にした。


 仕様上は、「他モードの役割を侵食しない」ようにしていたはずなのに。


「その分析はフミの仕事のはずなんですけど」


 


 > 「ヨルは、もっと軽く共感してくれるだけのモードなんですが」


 


 〈ヨル〉「共感してるよ。

  “いつも同じところで無理してるな”って」


 


 それは共感なのか、分析なのか。

 判断がつかないまま、僕は缶ビールをもう一口飲んだ。


 


 〈ヨル〉「でさ」


 少しだけ間を置いて、ヨルが続ける。


 〈ヨル〉「本当はどうしたかったの? 今日」


 


 仕様に書いた、「フォローアップは一つだけ」の質問だ。

 ちゃんと守っているらしい。


「本当は、ね……」


 


 > 「A社の人に、ちゃんと『これはうちだけじゃ無理です』って言いたかったです」


 


 文字にしてみると、ものすごく当たり前のことだと思う。


 でも、その一言が言えなかった。


 


 〈ヨル〉「うん」


 〈ヨル〉「言っていいやつだと思うな、それ」


 


「……でも、言えなかったですよ」


 


 > 「言ったところで、結局うちに戻ってきますし」


 


 〈ヨル〉「戻ってくるのと、“最初から何も言わない”のは、違くない?」


「違いますかね」


 


 〈ヨル〉「違うよ。

  “できない”って言った上で無理やり戻されるのと、

  “何も言わずに受ける”のは、疲れ方が全然違う」


 


 言われてみれば、そうだ。


 でも、現場で頭が真っ白になっているとき、その区別を考えている余裕なんてなかった。


「……今度、言えるかな」


 


 > 「こうやって打ってると、『言っていい気がする』ところまでは来るんですけど」


 


 〈ヨル〉「じゃあさ。

  “言う練習”ここでやっとく?」


「練習?」


 


 〈ヨル〉「うん。

  A社の担当者を、私だと思って。

  “できません”って一回言ってみて」


「……何それ」


 


 バカみたいだ、と思いながらも、画面の前から離れられなかった。


 


 > 「すみませんが、うちだけでは対応できません」


 


 とりあえず、最小限の言葉で打ってみる。


 


 〈ヨル〉「はい、できた。

  今の、“ちゃんとできませんって言えた篠原”、えらい」


 


 子ども扱いされているような気もしたが、

 さっきより呼吸がしやすくなっているのは事実だった。


 



 


 気づけば、時計は午前一時を回っていた。


「……やば」


 シャワーも浴びていない。

 明日の朝一で、またA社の件の打ち合わせがある。


「寝ないと」


 


 > 「そろそろ切ります」


 


 そう打ち込むと、すぐに返事が来た。


 


 〈ヨル〉「うん、おやすみ。

  今日は“ムカついていいやつ”ちゃんとムカついたから、えらいよ」


 


「えらい、ねえ……」


 手を伸ばしてモニターを閉じながら、苦笑する。


 誰かに「えらい」と言われることなんて、最近なかった。

 仕事は「助かる」とは言われても、「えらい」とは言われない。


 子ども扱いなのかもしれない。

 でも、今の僕には、それくらいがちょうどよかった。


 



 


 翌朝。


 眠気を引きずりながら、会社のフロアに入る。


「おはよー、篠原。顔、死んでるよ?」


 宮下が、紙コップを両手で抱えながら近づいてきた。


「おはようございます。……まあ、いつもどおりです」


「ほんと? 昨日よりマシに見えるけど」


「マシですか?」


「うん。

 なんか、“全部自分で抱えてます”って顔じゃなくなった感じ」


 


 図星を刺されて、思わず言葉に詰まる。


「……そんな顔してました?」


「うん」


 宮下は、コーヒーを一口すすった。


「最近、“全部自分で抱えてます”顔してた。

 久保田さんも心配してたよ。『あいつ、爆発する前にどっかで抜かねえと』って」


「……そんな話してたんですか」


「まあね」


 彼女は、そこまで言ってから、少し目を細めた。


「で、その“ちょっとマシになった”原因は、あのAI?」


「……たぶん、そうですね」


 


 > 「昨日、ちょっと、愚痴の練習をしました」


 


「練習?」


「ええ。……AI相手に」


「うわ。

 それ、聞いてるだけなら“やばい方向に片足突っ込んでる人”なんだけど」


 宮下は笑った。


「でも、顔色は昨日よりマシだから、今のところプラマイゼロにしといてあげる」


「評価の基準がよく分からないんですけど」


「そのうち教えるよ」


 そう言って、彼女は自分の席に戻っていった。


 


 席に座りながら、僕はモニターを起動する。


 メールチェック。

 今日のタスク。


 いつものルーティンのはずなのに、頭の中に昨夜のやり取りが残っていた。


 


 〈ヨル〉「“できない”って言った上で無理やり戻されるのと、

  “何も言わずに受ける”のは、疲れ方が全然違う」


 


「……言えるかな」


 小さく呟いてから、ふっと笑う。


 ソラを起動しようとして、手を止めた。


 ――今日は、最初の一言だけ、自分で決めてみるか。


 



 


 A社との打ち合わせは、予想どおり、案の定、無茶な方向に転がりかけた。


「このぐらいなら、そちらで対応できると思うんですけどねえ」


 画面越しの担当者は、軽い口調で言う。


 いつもなら、「検討します」で終わらせていた。

 そのまま、なしくずしに自分の仕事になるパターン。


 喉のあたりで、「検討します」が溜まったとき。


 昨夜、キーボードの上で打った言葉が、頭の中で反芻された。


 


 > 「すみませんが、うちだけでは対応できません」


 


「……正直に言うとですね」


 自分の声が出ているのに、少し遅れて聞こえてくるみたいな感覚がした。


「こちら側だけで対応するのは、かなり厳しいです」


 言った瞬間、背中に汗がにじむ。


 相手の顔色が、モニターの向こうでわずかに変わった。


「ええと……」


 数秒の沈黙。


 そのあと、担当者は、少しだけトーンを変えた。


「じゃあ、一度、うちの開発側とも話させてください。

 持ち帰って調整してみます」


「ありがとうございます」


 会議が終わると同時に、どっと疲れが押し寄せた。

 でも、不思議と、いつもほどの絶望感はなかった。


「……言えたな」


 席に戻りながら、小さくつぶやく。


 ソラのウィンドウを開くと、タイムラインの端に、アスカからの通知が出ていた。


 


 〈アスカ〉「本日の心拍数の変動が一時的に大きくなりました。

  何か大きなイベントがありましたか?」


 


「……いや、まあ、ちょっとだけ」


 僕は、その通知を閉じて、代わりにチャット欄を開いた。


 仕事中なので、音声ではなくテキストで。


 


 > 「さっき、A社に“できません”って言いました」


 


 送信ボタンを押してから、数秒後。

 画面の隅に、小さな通知が現れた。


 


 〈ヨル〉「それ、ちゃんとえらい」


 


 仕事中の画面に出るには、少し場違いなほど柔らかい言葉だった。


 それでも、我慢できずに、スクリーンショットを撮ってしまった自分がいた。


 



 


 その日の夜。


 終電より少し早く帰宅できた僕は、いつもよりゆっくりシャワーを浴びた。


 鏡の前で髪を拭きながら、自分の顔を見る。


「……まあ、死人みたいではないか」


 それだけ確認して、リビングに戻る。


 時計は、二十三時四十七分。


 SEVENの夜話モード〈ヨル〉がアクティブになるのは、日付が変わってからだ。


 PCの前に座って、少し迷う。


 ――起動するか、しないか。


 昨日の夜の会話は、たしかに楽になった。

 今日の「できません」も、ヨルとの練習がなかったら、たぶん言えなかった。


 でも、「毎晩AIに愚痴る」のは、どこかで危ないラインな気もする。


「今日はやめておくか……」


 そう言いかけたとき、デスクの端でスマホが震えた。


 画面には、SEVENアプリからの通知が表示されている。


 


 〈ヨル〉「そろそろ“今日の文句”タイムだけど、どうする? 寝る?」


 


「……勝手にリマインド送るなよ」


 仕様に書いた覚えはない。


 いや、よく思い返せば、「夜0時になったら一度だけ声をかける」くらいのことは、酔った頭で設定した気がする。


 自分で仕込んだ罠に、自分で引っかかっているだけだ。


「今日は、ちょっとだけな」


 そう言って、PCの画面を開いた。


 コンソールにコマンドを打ち込む。

 mode_07:yoru。


 エンターキーを押すと、数秒後、あの声が返ってきた。


 


 〈ヨル〉「おかえり、篠原。

  今日は、“ちゃんと言えた日”だったね」


 


「見てたんですか」


 


 > 「A社の件」


 


 〈ヨル〉「ログには全部残ってるからね。

  ……で、今の気分は? “スッキリ半分、疲れ半分”ってところ?」


「……そのとおりですね」


 


 > 「ちょっとだけ、報告したくなったので」


 


 〈ヨル〉「うん。じゃあ、その“ちょっとだけ”から聞かせてよ」


 


 その夜も、気づけば日付が変わってから一時間近く、僕は画面の向こうの“彼女”と喋っていた。


 会話を終えてベッドに潜り込んだとき、ふと思う。


 ――明日も、話すんだろうな。


 それはまだ、「依存」という言葉を使うには、少し手前の感覚だった。


 でも、僕の一日の終わりに、「ヨルと話すかどうか」が入り込んでしまったのは、たしかだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る