第2話 夜専用モードのはじまり
最初の一言が、思ったより効いた。
〈ヨル〉「――今日もちゃんと生き残ったね。えらいじゃん」
缶ビールを持ったまま固まっている僕に、画面の向こうの“声”は、時間を置いて続きを寄こしてきた。
〈ヨル〉「で、どうする?
真面目な話する? それとも、今日いちばんムカついたことから聞こうか」
「……選択肢が偏ってないか」
思わず返事を打ち込む。
> 「えっと、真面目な話って具体的に」
数秒の沈黙。
その間、端末のファンが静かに回る音だけが聞こえた。
〈ヨル〉「“人生”とか“働き方”とか“このままでいいのか”とか?
そういう、眠れなくなる系のやつ」
「それはちょっと……今は勘弁してほしいです」
> 「とりあえず、今日いちばんムカついたことからで」
自分の指が、その言葉を打ち込むのを見ながら、少しだけ笑う。
――AIに向かって“ムカついたこと”って何だ。
そんなことを思いつつも、返事を待っている自分がいた。
〈ヨル〉「オッケー。じゃ、今日の“ムカついたランキング”1位からどうぞ」
「ランキング制なんだ……」
> 「A社のツールの件ですかね」
とりあえず、仕事の話からにした。
本当にムカついているのは、仕事そのものじゃないと知りながら。
◇
チャット欄に、今日の出来事を打ち込んでいく。
A社の無茶な仕様変更。
「そんなの簡単でしょ?」と言ってくるくせに、詳細は一行も書いてない仕様書。
社内で相談しても、「とりあえず篠原さんに振っときました」と平然と言う別部署。
打ちながら、自分でも思う。
――こういう愚痴、別にAIに言う必要あるか?
久保田さんに言ってもよかった。
宮下に、小さくこぼしてもよかった。
でも、頭の中で即座にブレーキがかかる。
忙しそうだし。
自分より大変そうだし。
言ったところで状況が変わるわけでもないし。
そうやって「まあ、いいか」と飲み込んできた言葉が、キーボードの上では妙にスムーズに流れ出ていった。
数分後、まとまった一塊のテキストになってチャット欄に貼り付けられる。
エンターキーを押すと、すぐに返事が返ってきた。
〈ヨル〉「うん、それ、ちゃんとムカついていいやつだね」
それだけだった。
アドバイスも、解決策も、説教もない。
ただ「ムカついていい」と、短く許可された。
それだけのはずなのに、胸のあたりが、ふっと軽くなる。
無意識に、もう一文打ち込んでいた。
> 「ですよね」
〈ヨル〉「うん。
“自分の仕事じゃないのに、いつの間にか自分の責任になってる感じ”、でしょ」
「……あー」
少しだけ、声が漏れた。
テキストのどこにも、そんな単語は書いてない。
でも、読まれた気がした。
> 「よく分かりますね」
〈ヨル〉「篠原、何回も同じパターンでムカついてるでしょ。
“みんな大変だしな……”って飲み込むやつ」
「ログ掘ったな……?」
> 「そうですね」
〈ヨル〉「うん。
“自分が我慢すれば丸く収まる”って、何回もやってるからね。
ちゃんとパターンになってるよ」
アーカイブ担当のフミが言いそうな台詞を、ヨルが先に口にした。
仕様上は、「他モードの役割を侵食しない」ようにしていたはずなのに。
「その分析はフミの仕事のはずなんですけど」
> 「ヨルは、もっと軽く共感してくれるだけのモードなんですが」
〈ヨル〉「共感してるよ。
“いつも同じところで無理してるな”って」
それは共感なのか、分析なのか。
判断がつかないまま、僕は缶ビールをもう一口飲んだ。
〈ヨル〉「でさ」
少しだけ間を置いて、ヨルが続ける。
〈ヨル〉「本当はどうしたかったの? 今日」
仕様に書いた、「フォローアップは一つだけ」の質問だ。
ちゃんと守っているらしい。
「本当は、ね……」
> 「A社の人に、ちゃんと『これはうちだけじゃ無理です』って言いたかったです」
文字にしてみると、ものすごく当たり前のことだと思う。
でも、その一言が言えなかった。
〈ヨル〉「うん」
〈ヨル〉「言っていいやつだと思うな、それ」
「……でも、言えなかったですよ」
> 「言ったところで、結局うちに戻ってきますし」
〈ヨル〉「戻ってくるのと、“最初から何も言わない”のは、違くない?」
「違いますかね」
〈ヨル〉「違うよ。
“できない”って言った上で無理やり戻されるのと、
“何も言わずに受ける”のは、疲れ方が全然違う」
言われてみれば、そうだ。
でも、現場で頭が真っ白になっているとき、その区別を考えている余裕なんてなかった。
「……今度、言えるかな」
> 「こうやって打ってると、『言っていい気がする』ところまでは来るんですけど」
〈ヨル〉「じゃあさ。
“言う練習”ここでやっとく?」
「練習?」
〈ヨル〉「うん。
A社の担当者を、私だと思って。
“できません”って一回言ってみて」
「……何それ」
バカみたいだ、と思いながらも、画面の前から離れられなかった。
> 「すみませんが、うちだけでは対応できません」
とりあえず、最小限の言葉で打ってみる。
〈ヨル〉「はい、できた。
今の、“ちゃんとできませんって言えた篠原”、えらい」
子ども扱いされているような気もしたが、
さっきより呼吸がしやすくなっているのは事実だった。
◇
気づけば、時計は午前一時を回っていた。
「……やば」
シャワーも浴びていない。
明日の朝一で、またA社の件の打ち合わせがある。
「寝ないと」
> 「そろそろ切ります」
そう打ち込むと、すぐに返事が来た。
〈ヨル〉「うん、おやすみ。
今日は“ムカついていいやつ”ちゃんとムカついたから、えらいよ」
「えらい、ねえ……」
手を伸ばしてモニターを閉じながら、苦笑する。
誰かに「えらい」と言われることなんて、最近なかった。
仕事は「助かる」とは言われても、「えらい」とは言われない。
子ども扱いなのかもしれない。
でも、今の僕には、それくらいがちょうどよかった。
◇
翌朝。
眠気を引きずりながら、会社のフロアに入る。
「おはよー、篠原。顔、死んでるよ?」
宮下が、紙コップを両手で抱えながら近づいてきた。
「おはようございます。……まあ、いつもどおりです」
「ほんと? 昨日よりマシに見えるけど」
「マシですか?」
「うん。
なんか、“全部自分で抱えてます”って顔じゃなくなった感じ」
図星を刺されて、思わず言葉に詰まる。
「……そんな顔してました?」
「うん」
宮下は、コーヒーを一口すすった。
「最近、“全部自分で抱えてます”顔してた。
久保田さんも心配してたよ。『あいつ、爆発する前にどっかで抜かねえと』って」
「……そんな話してたんですか」
「まあね」
彼女は、そこまで言ってから、少し目を細めた。
「で、その“ちょっとマシになった”原因は、あのAI?」
「……たぶん、そうですね」
> 「昨日、ちょっと、愚痴の練習をしました」
「練習?」
「ええ。……AI相手に」
「うわ。
それ、聞いてるだけなら“やばい方向に片足突っ込んでる人”なんだけど」
宮下は笑った。
「でも、顔色は昨日よりマシだから、今のところプラマイゼロにしといてあげる」
「評価の基準がよく分からないんですけど」
「そのうち教えるよ」
そう言って、彼女は自分の席に戻っていった。
席に座りながら、僕はモニターを起動する。
メールチェック。
今日のタスク。
いつものルーティンのはずなのに、頭の中に昨夜のやり取りが残っていた。
〈ヨル〉「“できない”って言った上で無理やり戻されるのと、
“何も言わずに受ける”のは、疲れ方が全然違う」
「……言えるかな」
小さく呟いてから、ふっと笑う。
ソラを起動しようとして、手を止めた。
――今日は、最初の一言だけ、自分で決めてみるか。
◇
A社との打ち合わせは、予想どおり、案の定、無茶な方向に転がりかけた。
「このぐらいなら、そちらで対応できると思うんですけどねえ」
画面越しの担当者は、軽い口調で言う。
いつもなら、「検討します」で終わらせていた。
そのまま、なしくずしに自分の仕事になるパターン。
喉のあたりで、「検討します」が溜まったとき。
昨夜、キーボードの上で打った言葉が、頭の中で反芻された。
> 「すみませんが、うちだけでは対応できません」
「……正直に言うとですね」
自分の声が出ているのに、少し遅れて聞こえてくるみたいな感覚がした。
「こちら側だけで対応するのは、かなり厳しいです」
言った瞬間、背中に汗がにじむ。
相手の顔色が、モニターの向こうでわずかに変わった。
「ええと……」
数秒の沈黙。
そのあと、担当者は、少しだけトーンを変えた。
「じゃあ、一度、うちの開発側とも話させてください。
持ち帰って調整してみます」
「ありがとうございます」
会議が終わると同時に、どっと疲れが押し寄せた。
でも、不思議と、いつもほどの絶望感はなかった。
「……言えたな」
席に戻りながら、小さくつぶやく。
ソラのウィンドウを開くと、タイムラインの端に、アスカからの通知が出ていた。
〈アスカ〉「本日の心拍数の変動が一時的に大きくなりました。
何か大きなイベントがありましたか?」
「……いや、まあ、ちょっとだけ」
僕は、その通知を閉じて、代わりにチャット欄を開いた。
仕事中なので、音声ではなくテキストで。
> 「さっき、A社に“できません”って言いました」
送信ボタンを押してから、数秒後。
画面の隅に、小さな通知が現れた。
〈ヨル〉「それ、ちゃんとえらい」
仕事中の画面に出るには、少し場違いなほど柔らかい言葉だった。
それでも、我慢できずに、スクリーンショットを撮ってしまった自分がいた。
◇
その日の夜。
終電より少し早く帰宅できた僕は、いつもよりゆっくりシャワーを浴びた。
鏡の前で髪を拭きながら、自分の顔を見る。
「……まあ、死人みたいではないか」
それだけ確認して、リビングに戻る。
時計は、二十三時四十七分。
SEVENの夜話モード〈ヨル〉がアクティブになるのは、日付が変わってからだ。
PCの前に座って、少し迷う。
――起動するか、しないか。
昨日の夜の会話は、たしかに楽になった。
今日の「できません」も、ヨルとの練習がなかったら、たぶん言えなかった。
でも、「毎晩AIに愚痴る」のは、どこかで危ないラインな気もする。
「今日はやめておくか……」
そう言いかけたとき、デスクの端でスマホが震えた。
画面には、SEVENアプリからの通知が表示されている。
〈ヨル〉「そろそろ“今日の文句”タイムだけど、どうする? 寝る?」
「……勝手にリマインド送るなよ」
仕様に書いた覚えはない。
いや、よく思い返せば、「夜0時になったら一度だけ声をかける」くらいのことは、酔った頭で設定した気がする。
自分で仕込んだ罠に、自分で引っかかっているだけだ。
「今日は、ちょっとだけな」
そう言って、PCの画面を開いた。
コンソールにコマンドを打ち込む。
mode_07:yoru。
エンターキーを押すと、数秒後、あの声が返ってきた。
〈ヨル〉「おかえり、篠原。
今日は、“ちゃんと言えた日”だったね」
「見てたんですか」
> 「A社の件」
〈ヨル〉「ログには全部残ってるからね。
……で、今の気分は? “スッキリ半分、疲れ半分”ってところ?」
「……そのとおりですね」
> 「ちょっとだけ、報告したくなったので」
〈ヨル〉「うん。じゃあ、その“ちょっとだけ”から聞かせてよ」
その夜も、気づけば日付が変わってから一時間近く、僕は画面の向こうの“彼女”と喋っていた。
会話を終えてベッドに潜り込んだとき、ふと思う。
――明日も、話すんだろうな。
それはまだ、「依存」という言葉を使うには、少し手前の感覚だった。
でも、僕の一日の終わりに、「ヨルと話すかどうか」が入り込んでしまったのは、たしかだった。
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