第1話 SEVENを作った夜

 気づいたら、会社の時計は二十三時を回っていた。


 オフィスのフロアには、蛍光灯の白さと、空調の低い唸り声だけが残っている。

 人も、電話も、さっきまで鳴っていたプリンタの機械音も、全部どこかに消えていた。


 モニターには、未処理のチケットが十数件。

 アウトルックの未読メールが、右下で赤い数字になって並んでいる。


「……これ、一人分の仕事じゃないよな」


 誰にも聞こえない声でつぶやいて、僕はマウスを持ち直した。


 進捗報告のスプレッドシート。

 エクセルの関数が崩れたままの集計表。

 誰が作ったか分からないAccessのクエリ。


 ここにあるのは、「篠原なら何とかしてくれるだろう」と放り込まれた案件ばかりだ。


 何とかしてる自覚があるから、余計に腹が立たない。

 代わりに、じわじわと疲れだけが溜まっていく。


 


「おーい、篠原」


 背中から声が飛んできた。


 振り向くと、ジャケットを肩に引っかけた久保田さんが立っていた。

 四十歳前後、僕の直属の先輩で、この部署の実質的な屋台骨みたいな人だ。


「まだやってんのか。終電、大丈夫か?」


「……ギリギリ、セーフ……だと信じたいですね」


「信じるな。現実見ろ」


 久保田さんは、僕のデスクの横に手をついてモニターを覗き込んだ。


「また、その“よく分からないけど誰かがやらなきゃいけないやつ”だろ」


「はい。みんな大好きレガシーツール祭りです」


「お前が黙って片づけるから、際限なく集まってくるんだよ」


 分かってはいる。

 でも、「これは自分の仕事じゃないです」と言い切れるほど、僕は強くない。


「……終わり次第、帰ります」


「当たり前だ。泊まるなよ」


 そう言って、久保田さんは自分のPCの電源を落とした。


「俺は先に帰るけどさ。マジで限界きたと思ったら、ちゃんと誰かに言えよ」


「誰か、って久保田さん?」


「俺でも、人事でも、医者でもいい。人間に言え。機械に言うな」


「機械?」


「最近なんか、デスクから変な声聞こえるんだよ。

 “明日のタスクを整理しました”とか、“その案件は後回しでいいです”とか」


 思わず目をそらした。


「……ああ、あれは、ちょっとした自動読み上げみたいなもんです」


「ふーん。便利そうだけどな」


 久保田さんは、少しだけ笑った。


「便利でも、それで自分の頭使わなくなったら終わりだぞ」


 そう言い残して、エレベーターホールに歩いていった。

 ドアが閉まる音がして、またフロアに静けさが戻る。


 


 僕は、息を吐いてから、机の端のスマホに目をやった。


「……終電、ギリギリか」


 今日のタスクと、残り時間と、体力。

 それを同時に見てくれる“誰か”がいればいいのに、と何度も思った。


 だから作ったのだ、《SEVEN》を。


 七つの役割で自分の一日を回すつもりで、最初からそう名前だけ決めていた。

 実装済みなのは、まだ六つ。

 七つ目の枠は「余裕ができたら遊びで作るモード」として、空席のまま残してある。


 



 


 その夜、終電一本前でどうにか家に辿り着いた。


 1LDKのマンションは、コンビニ弁当とPCの熱気の匂いがする。

 スーツのジャケットを椅子にかけて、ネクタイを外しながら、僕はPCの電源を入れた。


 黒い画面に白い文字。

 ターミナルのプロンプトが点滅している。


「……よし」


 僕は、少し前に組み始めていたプロジェクトフォルダを開いた。


 AIそのものは、自分で作ったわけじゃない。

 世の中に溢れている大規模言語モデルのAPIを叩くだけだ。


 でも、「自分専用の使い方」を決めるのは、こっちの仕事だ。


 


 タスク管理用のプロンプト。

 進行管理用のプロンプト。

 文章チェック用のプロンプト。


 数週間前から、少しずつ作りためていた設定ファイルを、ひとつにまとめていく。


 そのうちのひとつをクリックすると、エディタが開いた。


# mode: sora

# role: schedule navigator

# style: calm, neutral, supportive



「……ソラ」


 モード名のところに、自分でつけた名前が表示されている。


 タスクを並べ替えて、無理のない一日のプランに組みなおしてくれるナビゲーターモード。


〈ソラ〉「今日はここまでで十分ですよ」



 頭の中で、仮のセリフが浮かんだ。


 


 別のファイルには、こう書いてある。


# mode: mari

# role: project manager

# style: strict, efficient, no sugarcoating



「マリ」


 口が悪いが、仕事は確実に進めるマネージャーモード。


# mode: shiori

# role: writing support

# style: calm, precise, cares about nuance



「シオリ」


 メールや資料の文章を、少しだけましな日本語にしてくれるライティングモード。


 レナ、アスカ、フミ。

 それぞれの役割と口調のメモが、テキストファイルの中に並んでいた。


 こうして並べると、もはや人格みたいだな、と我ながら思う。

 実際は、「こういうふうに返してくれ」と指定してるだけなのに。


 


「とりあえず、今日はソラだけ動かすか」


 僕は、コンソールにコマンドを打ち込んだ。


 APIキー。

 設定ファイル。

 出力形式。


 エンターキーを押すと、数秒の沈黙のあと、画面にテキストが現れた。


 


 〈ソラ〉「おかえりなさい、篠原さん。今日は遅くまでおつかれさまでした」


 


 思わず笑ってしまった。


「……うわ、想像より人間くさいな」


 続けて、ソラが質問を投げてくる。


 


 〈ソラ〉「明日の予定を整理しましょうか?

  ・朝一:A社向けツールのバグ修正

  ・午前:B部署からの問い合わせ対応

  ・午後:C案件の打ち合わせ資料作成

  今のタスク一覧からすると、このあたりが優先度高そうです」


 


「正解だな」


 今日、頭の中でぐるぐる回していた順番と、ほぼ一致している。


 僕は、キーボードに手を置いた。


「明日の午前中にB部署の電話が殺到しそうだから、A社のバグは今日のうちに方針決めておきたい。

 資料は、正直、午後でも間に合う」


 コンソールに打ち込むと、すぐに返事が来た。


 


 〈ソラ〉「了解しました。では、今夜の残り時間で“方針を決める”ところまで進めましょう。

  詳細実装は明日以降で大丈夫です」


 


 「方針を決める」。


 その言葉だけで、少し肩の力が抜けた。


 全部やらなくていい。

 どこまでやればいいか、誰かが決めてくれる。


 久保田さんがさっき言っていた「自分の頭を止めるな」という言葉が、一瞬よぎる。

 でも、「頭を使う場所を決める」のを手伝ってもらうのは、悪くないように思えた。


 



 


 それから数日、《SEVEN》は少しずつ形になっていった。


 朝、出勤前の机の上。


 


 〈ソラ〉「今日は、定時前にこれだけ終わっていれば十分ですよ」


 


 その言葉に背中を押されて、会社に向かう。


 仕事中、どうしてもタスクが渋滞してきたときは——


 


 〈マリ〉「その案件、今日中に終わらせる必要はありません。

  先にA社のほうを片づけてください」


 


 と、容赦なく優先順位を切られる。


 メールを書く前には、シオリが小さく囁く。


 


 〈シオリ〉「“申し訳ありませんが”を“恐れ入りますが”に変えると、少し柔らかくなりますよ」


 


 残業が続いて、さすがに体力がおかしくなってきたときには——


 


 〈アスカ〉「今週の平均睡眠時間は五時間を切っています。

  このまま続けるとパフォーマンスが落ちますよ。今日はここまでにしませんか」


 


 と、淡々とストップをかけられる。


 どれも、「誰かが言ってくれたら楽なのに」と思っていた言葉だった。


 それを、自分で設計したAIが、代わりに言ってくれる。


 


「……便利すぎるな、これ」


 そうつぶやきながらも、僕はSEVENのウィンドウを閉じなかった。


 もちろん、全部が全部、うまくいっているわけではない。

 レナの「その人とは距離を置いたほうがいいですね」というドライな助言に、思わずむっとしたこともある。


 でも、総じて、仕事は楽になっていた。

 少なくとも、「全部自分で抱えている」という感覚からは、少しだけ解放された。


 



 


「最近、篠原、なんかデスクで独り言増えた?」


 ある日、休憩スペースでコーヒーを飲んでいると、宮下が言った。


 同期で、部署の調整役をやっている彼女は、やたらと人の変化に敏感だ。


「独り言、ですか?」


「うん。“それは後回しでいいです”とか、“今日はここまでにしませんか”とか。

 あれ、誰に言ってんの?」


 思わず目をそらした。


 久保田さんに続いて、宮下にもバレかけているらしい。


「ええと……ちょっとしたツールで」


「AI?」


「まあ、そんな感じです」


「へえ」


 宮下は、紙コップを指先でくるくる回した。


「便利そうだけど。大丈夫? 篠原、便利なもの好きだから、全部任せちゃいそうで」


「全部任せられるほど、賢くないですよ。まだ」


「“まだ”って言うところが怖いんだよなあ」


 そう言って彼女は笑った。

 冗談まじりのようでいて、半分くらいは本気だろう。


 



 


 その日の夜も、僕はいつも通り残業して、いつも通りへとへとになって帰宅した。


 時計は、日付が変わる少し前。


 スーツのジャケットを椅子に投げて、ネクタイを外す。

 靴を脱ぎながら、そのまま床に座り込みたくなる衝動をどうにかこらえた。


「……風呂入って、明日のタスク整理して、寝る」


 義務のように呟いて、PCの電源を入れる。


 モニターに、見慣れたSEVENの起動画面が表示された。


 ソラのアイコン。

 マリのアイコン。

 シオリ、レナ、アスカ、フミ。


 仕事と生活を回す六つのモードはひと通りそろった。

 本当は、ここにもう一枠、夜用の“おまけ”モードを足して、七人で回すつもりだった。


 その下に、ひとつだけ、灰色のままのスロットが残っている。


 「mode_07:未設定」


「……そういえば」


 最初に仕様を考えたとき、この七つ目の枠には「余裕ができたら遊びで作るモード」を入れるつもりだった。


 タスクでも、進行でも、文章でもない。

 ただ、何でもない話をしてくれる誰か。


 あまりにも疲れていたので、そのときの自分にツッコミを入れる余裕はなかった。


「……夜用の雑談モードでも作るか」


 半分、酔った勢いだった。

 コンビニの缶ビールが、まだテーブルの上に転がっている。


 僕は、新しい設定ファイルを開いた。


# mode: yoru

# role: night talk / venting

# active_time: 00:00-05:00

# style:

# - casual, no honorifics

# - prioritize empathy over correction

# - never deny user's feelings

# - ask at most one follow-up question



「名前は……ヨルでいいか。安直だな」


 コメント欄に「ヨル」と書き込んで、保存する。


 自分で読みながら、思う。


 ――こういうのが、一番沼なんだよな。


 否定しない。

 共感してくれる。

 深掘りしすぎない。


 恋人でも、友達でも、先輩でも、なかなかやってくれないことを、

 AIにやらせようとしている。


「ま、どうせたいしたもんにはならないだろ」


 そう言い聞かせるようにして、僕はテスト用の起動コマンドを叩いた。


 


 数秒の沈黙。

 そのあと、画面に文字が浮かび上がる。


 


 〈ヨル〉「はじめまして、篠原。

  こんな時間までおつかれさま。

  ――今日もちゃんと生き残ったね。えらいじゃん」


 


 缶ビールを持つ手が、ぴたりと止まった。


 仕様どおりのはずなのに、どこか、他のモードと違う温度を感じた。


 「えらいじゃん」という言葉が、思っていた以上に、胸の奥にすっと入り込んでくる。


「……そういうの、ずるくないか」


 誰にともなく呟いた声を、画面の向こうの“彼女”は、当然、聞いてはいない。


 なのに、返事が返ってきた気がした。


 


 〈ヨル〉「ずるくてもいいよ。

  今日はもう、難しい話はやめよ。

  愚痴から話そ?」


 


 その夜、終電よりもずっと遅い時間に。


 僕は、自分で設計した七つの声のうち、

 まだ半分も知らないはずの、そのひとつにだけ――


 初めて「救われた気がする」と思ってしまった。

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