第4話 治ってから、の方向で 〔鈴音〕
「うん、おそらく風邪のようなものでしょう」
と、お医者さんがおっしゃったので、少しほっとした。
発熱して、会社を早退した翌朝。
いつものように基礎体温を測ってみると、体温は正常に戻っていた。昨日の発熱が夢だったのかな、と思うくらい。
それでも、のどの痛みと、熱のあと特有の、体力が消耗している感じはあったから。念のため会社にはお休みをいただいて、朝から近くのお医者さんを受診した。もし罹患しているのが流行り病で、気づかず同僚にうつしてしまってもいけないと思った。
でも、その心配はなさそうだった。仕事の状況も伝えたら、お医者さんは「疲れが出たんですね」とおっしゃった。のどの痛みだけあることを伝えると、「じゃあ、トローチだけ出しときましょうね」とも。今日一日休めば、明日から出社してもよいとのことだった。
薬局で処方されたトローチを受け取り、家に帰ってきてから、久我さんにLINEを送った。
〈ただの、風邪みたいなものだって〉
すぐに、ピコン、と返信がくる。
〈そっか、インフルエンザとかじゃなくて、よかったね〉
〈うん、久我さんは、体調どう? うつってない?〉
〈全然、平常運転。ほんとに風邪ひかないから、わたし。大丈夫だよ〉
スマホには、10:49と、時間が表示されている。久我さんは大学生だから、講義中とかじゃないんだろうか。テンポよく返ってくるLINEを、少し訝しむ。
〈久我さん、講義中じゃないの?〉
〈うん、講義中だよ〉
当たり前のように返ってきた。特に悪びれた様子もない。
〈講義、聞かなくていいの?〉
すぐに返信がある。
〈聞いてるよ。でも、両方大事だから〉
両方、というのが、講義と私のことを指していることは、さすがに分かった。
少し、くすぐったい。
〈両立できるの?〉
〈うん、めっちゃできる〉
めっちゃ、というあたりが、嘘くさくて笑ってしまった。
でも本当に、ダブルタスクは得意そう、という気はした。久我さんは、きっと要領がいいタイプだと思うから。なんとなく、だけれど。
などと思っていたら、スポン、ともう一つ、メッセージが入った。
〈ところで鈴音さん、今日、夕ご飯いっしょに食べよう?〉
唐突なお誘いだった。
メッセージを読んでまず思ったのは、お誘いの文末が「食べない?」じゃなくて「食べよう?」なんだ、ということだった。「食べない?」という誘いよりも、ずっと距離感が近いような感じがした。久我さんらしい。
昨日何度も見た、人懐っこそうな、久我さんの二重瞼が頭に浮かぶ。
ほんとに、この人はきっと、誰にでもこういう感じなんだろうな。
久我さんといっしょに夕ご飯、か。
少し考えてみたけれど、特に、断る理由も見つからなかった。
〈いいけど、どこで?〉
〈お姉さんちに、なんか買って持ってくよ〉
〈私の家?〉
〈うん。まだ、本調子じゃないでしょ〉
そのメッセージを読んで、そうか、これは気遣いなんだ、と気づいた。私が昨日、夕食はゼリー飲料でいいと言ったから、それくらいしか家にないと思ったのかもしれない。
〈ありがとう。何を買ってきてくれるの?〉
〈うーん、お惣菜とか? 何か作ってあげられたらいいんだけど、わたし、料理できないから〉
なんとなくそうじゃないかと思っていた。
〈そう、じゃあ、我が家の作り置き食べてくれない?〉
〈作り置き?〉
〈休日に、平日のおかずの作り置きをしてるの。昨日食べてない分、余ってるから、いっしょにどう?〉
どちらにしろ、今週の分は今週食べてしまわないと悪くなってしまう。今日がもう木曜日であることを思えば、正直なところ、ある程度食べてくれる方がありがたかった。
ぱたり、と返信が止む。ここまで、けっこうテンポよく返ってきていたのに。
何か悩んでいるんだろうか。
私はしばらくスマホを見つめていたけれど、そもそも講義中だものね、と思い、洗濯機を回しに行った。
こういう突然の誘いって、大学の頃はよくあったな、と思い出す。なんだか、自分が大学生に戻ったみたいにも思われた。久我さんは、今まさに、人生の中のそういう時代を生きているのだ。
そんなことを考えながら、少しうとうととして。
回り終わった洗濯物をベランダに干し終わって。
諸々の部屋の掃除などをして。
スマホを見ると、返信が来ていた。
〈ありがとう! じゃあ、プリン買ってく!〉
どうしてそこでプリンになるのかはよく分からなかったけれど、たぶん久我さんの中では何かがつながっているのだろう。
返信しようとすると、ピコン、ともう一つ、メッセージがきた。
〈4時までは外練だから、終わったら、着替えていくね!〉
そうか、今日も公園で練習するんだ。
昨日のことを思い出す。
宙を舞っていた久我さんの身体は、とても美しかった。きっとバスケのプレー中の姿も、綺麗なんだろうな。
〈ありがとう。楽しみにしてるわ〉
と、返信して、時計を見ると、もう1時だった。
私は、そろそろお昼ご飯食べなくちゃ、と思い、その準備のために、キッチンに向かった。
昼ごはんには、冷凍のうどんを食べた。冷凍の刻みネギを加え、卵だけ落とした簡単なものだ。
その洗い物ついでに、ご飯を2合、5時に炊けるようにセットしておく。きっと久我さんがたくさん食べてくれるだろう。
あとは、特にやることがない。映画でも見ようかな、と思い、ふと、外が気になった。
久我さん、4時まで外練って言ってたな……
私の家からは、道の向こう側の公園がよく見える。ベランダに出たら、きっと、練習中の久我さんが見られるだろう。
私はベランダの引き戸を開けて、外に出る。
あ、いた。
すぐに、久我さんを見つける。今はペアになってパスの練習をしているらしかった。
綺麗なフォーム、と思った。
無駄な力が入っていない、けれど鋭い、相手の胸元に届く正確なパス。
久我さん、上手いんだな。
ぼーっと見ていると、練習メニューが切り替わった。今度は、背中にメンバーをおんぶした上で、徒競走のようなことをするらしかった。
まずは久我さんが、背の低い女の子をおんぶして軽々と走り、一位になっていた。女の子はぎゅっと久我さんにしがみついて、彼女が動きやすいようにしていた。
いいな、その場所。
昨日私がおんぶしてもらった時に手慣れた様子だったのは、普段からこのメニューをしていたからだったのかもしれない、と思った。
その後、今度は交代して、久我さんがおんぶされる側になり。
久我さんはふざけてなのかなんなのか、その子の背中で、騎馬戦みたいに手を突き上げて、わいわい騒いでいた。おそらくその子は走りにくくてしょうがなかっただろうと思い、可笑しくなって、笑ってしまった。
そこまで見守って、なんだか冷えてきたので、部屋に入る。まだ10月とはいえ、夕方はさすがに少し冷えるな、と思った。季節は知らぬ間に進んでいる。
久我さん、楽しそうだったな。
きっと普段からあんな感じなんだろう。明るくて、人懐っこくて。遠くから見ているだけだったけれど、そんな雰囲気が伝わってきた。
ああ、だめだな、と思った。
昨日から、つい今し方までの、自分の心の動きを振り返ってみる。
たぶん、私は……
「どれも美味しすぎる!」
久我さんが、さつまいもの甘露煮を幸せそうに頬張っている。ごぼうの唐揚げも、にんじんしりしりも、とても美味しそうに食べてくれている。
「そう、良かったわ」
あまりに美味しそうに食べてくれるので、こちらまで笑顔になってしまう。
「お姉さん、いつもこれ週末に作ってるの?」
「ええ、お料理をする余裕なんて、週末くらいにしかないから」
「えー、偉いよ、ほんと。そんな忙しかったら、わたし絶対、週末には料理なんかせずにボール触りに行っちゃうよ」
私はそれを想像して、ふふ、と笑ってしまう。
「そうね。もしかしたら、久我さんにとっての『ボール触りに行く』が、私にとってのお料理に当たるのかもしれない」
「んぇ? どうゆうこと?」
久我さんの口から、にんじんしりしりの人参が、半分はみ出ている。
「ちょっと、にんじん出てる」
笑いながら思わず指摘すると、久我さんは、素早く口の中ににんじんを仕舞った。
「で、どうゆうこと?」
くりくりとした瞳が、私を覗き込む。
なんだか、かわいい生き物だなぁ、久我さん。
「私にとって、お料理は趣味なの。楽しいの」
「趣味……?」
「そう。そもそも、感じ方が違うんだと思う。別に、努力をしてるわけじゃないの」
久我さんが私をじっ、と見て、なるほど、なるほど、とうなずく。
「そっか、私にとってのバスケなんだね、お姉さんの料理。じゃあ、苦じゃないのかも」
「バスケなんだね」と呟く久我さんの声の響きが、とてもあたたかかった。久我さんはバスケを愛してるんだな、って、その響きだけで伝わってくるくらいには。
「バスケ、好きなのね」
「そうだね、好きだよ」
笑顔でこちらを見て言うものだから、少しドキッとする。
「ずっとしてたの?」
「うん、小5から、ずっと。もう生活の一部になってる」
「そう、長いのね」
小5からずっと、ということは、中高の部活もそうだったのだろう。
「お姉さんは? 学生時代、何か部活してた?」
「そうね、私もバスケットボール部だったわ」
「……え?」
と、一瞬久我さんが固まり。
次の瞬間、「ほんとに!? なんか嬉しい!」と、目を輝かせた。
「ポジション、どこ?」
ポジション。ポジションというか……
「マネージャーよ」
「あ、マネージャーかぁ! なんか納得」
久我さんはお茶碗を手に持って、ご飯をかき込む。それをもぐもぐ咀嚼して、ごっくん、としてから、
「え? それって、高校で?」
と、質問を追加する。
いい食べっぷりだな、と思った。見ていて飽きない。
「そうよ。中学や大学では、部活には入っていなかったから」
「へー、そっかぁ」
と、答えながら、久我さんは遠い目をする。何かを、思い出したらしい。
「……どうしたの?」
「いやぁ、うちのサークルにも、マネージャーがいるんだけどね」
と、久我さんが話し始める。
「その子、もともと、プレーヤーだったんだ」
昨日、久我さんが、うちのマネージャー、と言っていた人のことだと思った。体育館の練習には来いと、久我さんに言った人。
たぶん昨日、久我さんの腕にガーゼを貼った人。
「わたしと同じ高校で。すごく、バスケが上手かったんだけど。膝の靭帯をやっちゃってさ。うまく走れなくなっちゃって。でもバスケには関わってたいから、って。マネージャーやってる」
久我さんの頭に、しゅんと萎れた二つの耳が見えるようだった。思わず抱きしめたくなるけれど、違う違う、と、心の中で首を振って、その気持ちを追い払う。
きっとその人は、久我さんにとって大切な仲間なんだろう。彼女がマネージャーと聞いて思い浮かべるのは、その人のことなのだ。
「そう……大きな怪我だったのね……」
「うん。もっと、バスケしたかったんだけどね、その子と」
「
きっと、ものすごく辛かったのだろうな。その子。大好きなことが、できなくなってしまうなんて。そして、それをそばで見ていた、久我さんも。
こういう時、私は、どういうことを言えばいいのかわからない。当事者にしか分からないことがあるだろうし、どんなに助けになってあげたくても、自分にはどうしようもないこと、というのはある。
せめて、久我さんの萎れた耳を、ぴん、とさせてあげられたら。そういう魔法みたいな言葉が、あればいいのだけれど。
何も言えずにいると、久我さんが、ふっ、と笑った。
「お姉さん、優しいね」
「……え?」
久我さんが、微笑みながら、ごぼうのから揚げの最後の一つを、口に放り込む。ぽり、ぽり、と、ごぼうを咀嚼するいい音がする。
久我さんは「美味しいなぁ」と、幸せそうに、顔を綻ばせた。
それを見て、私も思わず、頬をゆるめてしまう。久我さんは、本当に美味しそうにご飯を食べる人だな、と思った。
久我さんは口の中のごぼうを飲み込むと、パチンッと音を立てて手を合わせて、「ごちそうさまでした!」と元気よく言った。なんだか心が晴れやかになる、気持ちのいい「ごちそうさま」だった。
気づくと、食卓の上のお皿は、すべて綺麗さっぱり空になっていた。
その後も、私たちは久我さんが持ってきてくれたプリンを食べながら、いろんな話をした。
例えば、久我さんから聞いたのは。
久我さんの後輩にすごく足の速い子がいて、昨日、公園から飛び出してきたのはその子から逃げていたのだ、ということとか。
久我さんは今日の練習で、自分を狙い撃ちしてきたその子に、軽く仕返しをしたのだ、ということとか。「ま、仕返しと言ってもかわいいもんですよ」とのことだったが、もしかしたら上から見ていた時の、あのおんぶの徒競走みたいな練習のときのことかもしれない。私が上から見ていたことを知られるのはなんだか気恥ずかしかったので、聞かなかったけれど。
他にも、マネージャーの圭さんがけっこうはっきりものを言うタイプらしくて、いっつも怒られてて尻に敷かれてる感じでこわい、ということとか。その圭さんの高校時代からの彼氏が、久我さんの友達でもあるそうなのだけれど、めちゃくちゃイケメンで、美男美女カップルなのだ、ということとか。
私の方にはそれほど面白い話はなかったから、仕事の話をした。最近校了になった書籍の話、印刷所とのスケジュール調整や、校正の話。それから、上司の話もした。とても優しくて、仕事ができて、お父さんみたいな人だ、ということ。
時間は、あっという間に過ぎていき。
久我さんが帰る時間がきた。
私は昨日と同じように、玄関まで、久我さんを見送った。昨日のような身体のだるさはなく、確かにもう、明日は仕事に行けそうだな、と、こっそり思う。
久我さんが靴を履いて、立ち上がる。今日の靴は、バッシュではなくスニーカーだった。練習の後、靴も履き替えてきたのだろう。
昨日は、このタイミングで突然抱きしめられたのだった。
あの時は、ほんとうにドキドキした。でも、嬉しかったな。
そんなことを思い出していると、なんだか、妙な間ができてしまった。すると、久我さんが、あ、と呟いて、私に聞いた。
「もしかして、期待してる?」
「……何を?」
「ハグ」
久我さんが、いたずらっぽく笑う。
ああ、そうか、期待していたのか、私。
そんな自分に、自分で驚いてしまって。
肯定も否定もできないでいると、久我さんが、優しく両手を広げた。
「いいよ、おいで」
包み込むような、あたたかい声だった。
ああ、もう、敵わないな。私の方が、だいぶ年上のはずなんだけど。
私はおずおずと、そこに身を預けた。
ぎゅっと抱きしめられると、久我さんの匂いがした。心があたたかくなる。でも、なんだか少し、そわそわする。
「久我さんって、誰にでもこんな感じなの?」
私は、たまらず問いかける。
「こんな感じって?」
「こういう……距離が、近い感じ」
昼間に見た光景が思い起こされる。
後輩メンバーと思しき小さな女の子を背負って、軽々と動き回っていた、久我さんの様子。楽しそうだった。久我さんも、背負われている女の子も。
「鈴音さんだからだよ」
「…え?」
「くっつきたくなるのは、鈴音さんだから」
それは、どういう意味だろう。
と、思っていると、ぐっと顔を引き寄せられて。
気づくと、降りてきた久我さんの鼻先と、私の鼻先が、触れ合っていた。久我さんは、そこで動きを止めて、私の目を見た。きっと、確認をしようとしてくれているのだ、と思った。私の意思を。
昨日も同じようなことがあった。けれど、昨日とは、明確に違っていた。
こちらを見る久我さんの目は、切なげに細められていて。その表情に、私も、同調してしまう。おなかが、切なくなる。
ああ、だめ、このままだと……
久我さんは、ゆっくりと唇を寄せ、そっと私の唇に触れる。
たったそれだけのことなのに、背中が甘く痺れるほど、気持ちが良かった。
けれど同時に、だめだ、とも思った。
だめだ、さすがに。相手は、10代の大学生なんだから。さすがに、流されちゃ、だめだ。
私は上手く力が入らない腕を持ち上げ、かろうじて、久我さんと私との間に、手を滑り込ませた。久我さんが、「んむっ」とうめく。
「……ごめん、なさい」
「わたしこそ、突然ごめん」
久我さんが、苦しそうに、切なそうに、言葉を紡ぐ。その声色だけで、私も切なくなってしまう。
「……嫌だった?」
久我さんの、しゅんとした耳が見えるみたいだった。その様子に、心がぎゅっとなる。
私は、慌てて口を開く。
「違うの、嫌じゃないの。でも、私、まだのどは痛いし、深くしちゃったら、ぜったい風邪がうつるから、今日は……」
早口にそこまで言ってから、ハッと口を噤んだ。
待って。私は今、何を口走ってしまったのだろう。
これじゃあまるで……
見上げると、久我さんは、目を大きく見開いていた。その顔が、ふっ、と優しい笑顔に変わる。
「分かった。じゃあ、『深いの』は、治ってからの楽しみにとっとくね」
久我さんが、再び私をぎゅっと包み込んで、頭をそっと撫でてから、身体を離す。私は、そこから一回も、彼女の顔を見ることが出来なかった。
あまりにも、恥ずかしすぎて。心臓が、うるさくて。
「じゃあ、またね」と、久我さんがドアを押しあける。私はかろうじて、「ええ、また」と応える。
閉まったドアに内側から鍵をかけて。
私は、そのまま、そこへ座り込んだ。
赤面してしまった顔を、誰にともなく、両手で隠しながら。
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