第19話 ノーチラスとタイタニック④
海底二万里。
有名な作品だ。地上を憎み海底世界をこよなく愛するちょっと怪しいネモ船長と共に、生物学者のアロナックス一同が半ば捕虜のような形で「ノーチラス号」に乗って冒険するSF。
舞台は常に海の中、終始どこか違和感のある暗い雰囲気で進む話は、最後にノーチラス号からの脱出で幕を下ろす。
「ノーチラスは……ちょっとあまりにもファンタジーですかね。襲われたくないですし……言葉も通じないんでしたっけ、他の乗組員と」
「まぁでもあれって原作では乗りたくてノーチラスに乗った訳でもないし!私と乗るなら喜び勇んで乗って欲しいけど!けれども!」
暗い道を進みながら、瑚夏さんは明るく返事する。
勇んで乗らなきゃいけないのか。
いや確かに、物語の続きを考えれば、勇気がなければノーチラスになんて乗れないな。
「確か襲われて捕まったとかなんとか」
だめだ、あんまり詳しくは覚えてない。
「そうそう、こんな感じに」
トンネルを抜けて離していた手が再び確保される。
『海底二万里』原作では、主人公一行が乗っていた船が謎の生物と思われていたノーチラス号に襲われる。
ふぅ、と短く息を吐く。
もう、もう今日は諦めてもいいんじゃないだろうか。別に誰かに見られているわけでもない。
「この水族館から出るまでは放さないから」
ほら、瑚夏さんもこう言ってることだしさ。
「どこのネモ船長なんですか」
力を抜くと、逆に強く握りしめられる。
春先にしては冷たい手。
「とうとう観念した?」
「それって主人公が悪役に言うタイプの言葉じゃないですか」
「……立野くんのこと、悪役だとは思ってないよ?」
悪役だったらロミオにはならんだろうに。
まぁ自分が主人公(ロミオ)だなんて、おこがましくて思えないが。
「そりゃそうですよ、まだ話すようになって一週間とかなのに悪役認定されてたらやってらんないですよ」
そう応えて、俺は瑚夏ゆりという名の波に身体を任せた。
◆ ◇ ◆ ◇
次に俺たちが訪れたのは小型の……と言っても家で見ればとんでもなく大きいんだろうが、円柱型の水槽が立ち並ぶエリアだった。
「おっきなのも迫力あっていいけど、こういう小さめなのもかわいい〜お家に欲しい!」
とてとてっと最寄りの水槽に近付く瑚夏さん。
その可愛らしい仕草は普段バリバリ働いているOLだとは到底思えない。
ゆっくり辺りを見回しながら自分も水槽に近付いた。
手を張りつけて彼女が見ていたのはクラゲ。
海の月とはよく言ったもので、青白い半球がふわふわと浮かんでいた。
「クラゲっていいですよね、ゆったりしてて」
口をついて出たのは目の前を漂う半球への羨望。
期日にも追われないし、契約書確定の直前に営業課から仕様変更を言われることもない。
「ほんとにね」
ほんの少しだけ生まれる沈黙。
でもそれは決して居心地の悪いものではなくて。
静寂を是とする水族館ではむしろ、とても好ましいように思えた……なんて考えるのは、都合が良すぎだろうか。
「あーあ、次生まれ変わるならクラゲがいいなぁ。毎日ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗らなくていいし、何より」
瑚夏さんは視線をこちらに向けて、どこか諦めたような笑みを浮かべる。
やめてくれよ、そんな顔されたら真剣に聞かなきゃいけないじゃないか。
「自由だもんね」
高速で飛んできた矢に心を射抜かれる。
誰かを演じることなく、素でいられる自分の方が。
水槽のライトを乱反射するクラゲを眺める。
ふわふわと宛もなく漂う彼らが。
「ちょっと好きになれたかもしれません」
ぽつりと溢れる言葉はまるで水滴。
ころころと転がって、地面に広がる。
「……えっ……私のことを?」
ハッと息を飲む音。
どんな妄想してるんだ、この先輩は。
「いえ、クラゲのことが」
「なーんだ。ダメだよ立野くん、女性にそんなこと言ったら……勘違いする人もいるんだから」
天に向けられる人差し指。
「そのまま勘違いしてくれたら、人生薔薇色になるかもしれないのに」
「そんな恋愛私が海の底に沈めてあげる」
「えぇ……突然辛辣じゃないですか」
「理由は想像にお任せするわ」
ぷいっと顔を逸らして、彼女は部屋の奥へと進んでいく、俺の手を握りしめたまま。
引っ張られる身体。クラゲとは正反対じゃねぇか、この世は不自由だ。
……勘違いするのはこっちだろうが。
そう叫びたいのをぐっと堪えた俺には、なにかご褒美があってもいいと思う。
◎◎◎
こんにちは、七転です、
クラゲ、いいですよね。
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