鶴ヶ島崇神譚 ―祓い士 夕凪の覚醒―

のら

第1話 私の生足、祟りのかげり、引きずり込まれる、水の底


 足元から、冷たいものが這い上がってきた。


「……え?」


 視線を落とす。

 拝殿の石段の下、雨も降っていないのに、石の隙間がじっとりと濡れていた。

 じわじわと水が滲み出している。


 ――いや違う。これは、水の影だ。


 光の角度のせいなんかじゃない。

 石の上に、黒い水たまりが広がっていく。

 私の足元めがけて。


「――っ」


 身体が先に動いた。

 一歩、二歩、後ろに下がる。


 バシャッ。


 目線を落とす。

 そこにはもう水たまりが出来ている。


 黒い水がはねて、形を変える。

 細長く、伸びて、指のように分かれて――。


 「女性の手」の形になった。


 石段の上に、ぬらぬらとした黒い水の手が這い上がってくる。

 そして、私の足首に食い込む。――冷たい。焼けるように冷たい。


「――っ!」


 悲鳴が出ない。喉が張り付いて動かない。

 引きずり込まれる。底へ。暗くて冷たい、水の底へ。


『鈴だ、鈴を鳴らせ』


 頭の中に、男の声が割り込んできた。

 聞いたことのない声。

 顔を上げる余裕なんてない。

 でも、その声だけが命綱だと本能が告げていた。

 私は必死に手を伸ばし――。


 ◇◇◇


「……っ!」


 ガバッと布団を跳ねのけて起き上がると、いつもの私の部屋だった。

 全身にじっとりと嫌な汗をかき、あごから垂れた汗が胸元へと沈んだ。

 鮮明な夢の映像に、心臓は早鐘を打っていた。


「……なに今の……、夢?」


 窓の外からは、いつものチュンチュンという鳥の声。

 私は大きく息を吐いて、額の汗を拭った。

 

 最悪の目覚めだ。

 

 足首には、まだ冷たい指で掴まれたような感触がこびりついている。


 これが、私の「忘れられない一日」の始まりだった。


          ◇

 ◇◇◇


 朝の光徳神社こうとくじんじゃは、世界でいちばん空気が澄んでいる――らしい。

 

 私の父、三ツ木みつぎ 篤信あつのぶが一時期、神社に来た人、みんなに言ってた言葉だ。

 ウチの神社は大型トラックも通るような交差点の角、騒音と排気ガスが立ち込める、三~四メートルの高台の上の森の中にある。

 普通に考えたら、そんな立地の自虐ネタだと思われそうだけど、境内に立ってみると、これが意外と間違っていないから不思議だ。

 

 長い参道の先に、石造りの鳥居がひとつ。正面には重たそうな屋根を載せた拝殿。

 さらに奥に本殿と、その周りに幾つかの小さな社と石祠。

 ぶっちゃけ、ウチの神社は「神様たちのシェアハウス」だ。

 そして、ぐるりと囲むのは「野鳥の森」と名付けられた社叢林しゃそうりん

 朝はいつも、鳥の鳴き声で賑やかに始まる。


 毎朝、五時に起きて、境内の掃除をする。

 なんとなく、規則正しい生活をしようと、やり始めた事が日課となり、今では、やらないと一日が始まらないくらいの習慣にはなってる。

 光徳は合祀ごうしされたお社が多いので、全てのおやしろを回り切ると、ちょうど一時間くらいで掃除は終わる。

 

 これが私のいつも通り。


 そして、掃除が終わる頃に朝ごはんのいい匂いがしてくるのも、いつものことだ。


「おーい、夕凪ゆうな。ごはんだぞー」


「はーい、今行くー」


 三ツ木家は父子世帯ではあるけど、父の料理好きもあって、分担制でご飯を作る。

 しかも、年々腕を上げて、私より上手なメニューもあって、少し悔しい。


 

「夕凪はそろそろ先の事考えてんのか?」


 父が唐突にこんなことを言い出すのは、昨日、学校から配られた進路相談の案内のせいだ。 


「あー……、考えてなくもないけど、まだ具体的にはね」


 正直、何がしたいとか、何になりたいとかが思いつかない。こう言ってしまうとネガティブに聞こえてしまうけど、そうじゃない。

 正確には、この『神社を継ぐ』以外で、やりたいことが特にない。と言うのが正しい。


「そうか。やりたいことがあるなら、その道へ進めばいいし、無いなら進学してから考えてもいいんじゃないか?」


「お父さんさ、私に何か気を使ってる?『神社を継ぐ』の選択肢をあえて外してるように聞こえるよ?」


「いやいや、そんなつもりは無いけど、やっぱ親としては子供には広い世界を羽ばたいて欲しいものなんだよ」


 父はそう言うが本音じゃないことは分かってる。


「じゃ、羽ばたいて帰ってこなくてもいい?」


「それは嫌だ。毎日朝晩電話するし、既読スルーしたら、神社閉めて会いに行く」


「重いよ! メンヘラの彼女か!」


 

 愛されてるのは分かるが、父の愛し方が時折バグる。


「ま、――ちゃんと考えとくよ」

 

 でも、正直なところ、跡継ぎ案は結構真面目に考えてる。

 早朝の朝もやの雰囲気も、夏祭りやお正月のあわただしさも、静まり返った夜の雰囲気も、もう既に私の一部になっているし、そういう日常は、ちゃんと好きだ。

 ただあるのは、私の人生、それでいいのかなって迷いだけ。


 結局、便利な言葉「考えてる」で、今日も終わる。


「さて、そろそろ、行ってくるね」


 パタパタと小走りで流しに食器を片付け、出かける準備を始める。


「ああ、もうこんな時間か、いってらっしゃい」


 父の言葉を背に境内に出る。

 

 澄み切った空気を目いっぱい吸い込み、大きく背伸びをした。

 社務所の裏手にある鳥居を抜けたほうが県道へすぐ出れるけど、正面側の鳥居できちんと挨拶してから出入りするのも、私のいつもの朝。



 鳥居をくぐろうと思ったときに、誰かの視線を感じた。

 あたりを見まわしても誰かいるわけでもない。

 

 境内が妙に静まった気がした。

 

 ふと、隅っこに目線がいく。


 ――小さな石祠


 それは鳥居脇に存在感なく座していた。


 境内には合祀されてきた石祠がたくさんある。

 だけど、なぜか、今日は、この祠が目についた。

 なんというか、目が合ったような感覚がそこにはあった。

 背筋に、小さく氷水を流し込まれたみたいな感覚も走る。


「こんなところにあったっけ?」


 合祀につぐ合祀で、ウチは神様だらけだから、一柱くらい増えてても分からない。


「んん~??」

 掘られた文字も古く、また部分的に欠けたり、苔むしていて判読できない。


「……あ、やば!こんなことしてる場合じゃなかった!」


 いつものように私は鳥居を抜けて、小さく会釈してから学校へと向かった。





 光徳の下り坂を夕凪が自転車で駆け下りていく、その横顔を高台のコンクリートブロックの上に座り込み、サンダル履きの足をブラブラさせながら夕凪を見送る男の姿がそこにはあった。

 

「あー、湿り気が増してんなぁ。こりゃ今日あたり何か起きそうな気がするわ」

 夕凪が視界から消えると、男は立ち上がり、空を眺めていた。


「こりゃ今日は残業確定か? 面倒くせぇ……」

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