第三章「蹂躙」

季節が二度巡る頃には、私の食卓は貧相なものになり果てていた。アリスの身体から、あんなにも芳醇ほうじゅんだった痛みが消え失せたのだ。


骨折は完治し、あばら骨のヒビも塞がった。肌を覆っていたあざや切り傷も、高価な医療用クリームのおかげで、白磁のように滑らかな皮膚へと生まれ変わっている。


栄養状態の改善は、彼女の精神すらも安定させてしまった。今の彼女から共鳴器越しに伝わってくるのは、規則正しい心音と、健康な内臓が働く穏やかな振動だけ。まるで、味のしないガムを延々と噛まされている気分だ。


「……ハルトさん、お紅茶が入りました」


ノックと共に、アリスが書斎に入ってくる。血色の良い頬、ふっくらとした肉付き。彼女はもはや、あの路地裏で拾った瀕死の小鳥ではない。どこに出しても恥ずかしくない、深窓の令嬢だ。


だが、今の私にとって彼女は、炭酸の抜けたソーダ水よりも退屈な存在だった。


「そこに置いてくれ」


私はモニターから目を離さずに言った。冷淡な声だった自覚はある。最近、私はアリスと目を合わせるのが億劫おっくうになっていた。彼女を見るたびに、「何故もっと痛くないんだ」という理不尽な苛立ちが込み上げてくるからだ。


アリスがビクリと肩を震わせる気配がした。


「あの……私、何か……?」

「いや、何でもない。仕事が忙しいんだ。下がってくれ」


突き放す言葉。部屋の空気が凍りつく。


アリスの怯える感情が、微弱なノイズとして伝わってくる。だが、それは精神的な不安であり、私が求める肉体的な苦痛ではない。彼女は逃げるように部屋を出て行った。


――限界だ。私は引き出しから、闇市場で購入した安物の痛みを取り出した。


『中年男性/痛風の発作』


共鳴器を接続し、貪るように摂取する。足の指の付け根を万力で締め上げられるような鋭い激痛。


「はあ、ぁ……ッ」


椅子の背もたれを爪が食い込むほど握りしめ、脂汗を流す。だが、満たされない。これはインスタント食品だ。アリスが持っていた、あの深く、静かで、冷たく、逃げ場のない絶望の味には程遠い。


私は舌打ちをしてデバイスを投げ捨てた。


アリスを愛している。それは嘘ではない。だが、私の愛は痛みという触媒なしには成立しないのだ。このままでは、私は彼女を愛せなくなる。興味を失い、捨ててしまうかもしれない。


何とか、それだけは避けなければ。せっかく手に入れた、私だけの理想の器なのだから。


転機は、ある雨の日に訪れた。


夕食の席でのことだ。重苦しい沈黙に耐えかねたのか、アリスがスープを配膳しようとして、手を滑らせた。熱々のポタージュが、彼女の白く細い手首にぶちまけられる。


「あッ……!」


陶器の割れる音と共に、アリスが悲鳴を上げた。直後、共鳴器を通じて、私の脳髄に鮮烈な閃光が走った。


――熱い! 痛い!


皮膚が爛れ《ただれ》、神経が灼熱しゃくねつに暴れ回る感覚。久しぶりに味わう、生の、新鮮な苦痛。その衝撃は、渇ききっていた私の喉を潤す極上のネクターだった。


席を立ち、うずくまるアリスに駆け寄った。


「アリス! 大丈夫か!?」


私の声は弾んでいた。心配しているふりをしながら、その実、彼女の火傷した手首を強く握りしめた。アリスの喉から「ひっ」と短い悲鳴が漏れ、さらに強い痛みの信号が私に流れ込んでくる。


ああ、美味い。やっぱり君は最高だ、アリス。


「すぐ手当てしよう。痛いだろう? 可哀想に……」


私は彼女を抱きしめ、その震える背中を撫でた。その時、アリスが私の顔を見上げた。


涙で濡れた瞳が、私の表情を捉える。そこには、サディスティックなよろこびなど微塵もなく――ただ純粋な、慈愛と喜びに満ちた笑顔があったはずだ。


アリスの表情が、驚きから困惑へ、そしてある種の理解へと変わっていくのが分かった。


彼女は賢い子だ。ここ数ヶ月、私が彼女に向け続けていた冷たい無関心。そして今、彼女が傷ついた瞬間にだけ注がれる、熱烈な愛情。この屋敷で生きるためのルールを、彼女は悟ってしまったのだ。


「……ごめんなさい、ハルトさん」


アリスは私の胸に顔を埋め、震える声で言った。


「私、……また、怪我しちゃった」


その言葉の裏に隠された意図に、私はゾクリとした興奮を覚えた。彼女は今、痛みに耐えながら、火傷した手首を私の衣服に押し付けている。わざと、だ。私を喜ばせるために。私に捨てられないために。


「いいんだよ、アリス」


私は彼女の火傷跡に口づけを落とした。


「君の痛みは、私が全部貰ってあげるから」


その夜から、私たちの関係は次のステージへと進んだ。アリスの身体に、再び傷が増え始めたのだ。


廊下で転んで作った膝の擦り傷。料理中に切った指先。ドアに挟んだ足の指。それらは全て不慮の事故として処理された。私は何も強要していない。命令もしていない。ただ、彼女が傷ついて帰ってくるたびに、極上の笑顔で迎え入れ、優しく手当てをして、愛をささやいただけだ。


アリスは学習したのだ。痛みこそが、私と彼女を繋ぐ唯一の共通言語であることを。


ある晩、彼女の部屋の前を通りかかると、微かな衣擦れの音が聞こえた。少し開いたドアの隙間から覗くと、アリスが鏡の前に立っていた。


彼女は安全ピンを手に持ち、太ももの内側――普段は見えない柔らかい皮膚に、ゆっくりと、しかし迷いのない手つきで針を突き立てていた。


「ん……ッ」


小さく息を漏らし、頬を赤らめるアリス。その表情は苦痛に歪んでいるのと同時に、恋する乙女のような陶酔とうすいに満ちていた。共鳴器をつけていなくても分かる。彼女は今、私に捧げるための晩餐を調理しているのだ。


私はドアを閉め、廊下で天を仰いだ。


共犯関係の成立だ。これで私たちは、本当の意味で結ばれた。もう、後戻りはできない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る