第二章「蜜月」
指定された取引場所は、都市の再開発から取り残された古い雑居ビルの一室だった。カビと安物の
私は眉をひそめながら、ブローカーの男にアタッシュケースを渡した。中身は現金。この手の取引に足のつく電子マネーは使わない。
「へへ、いい買い物ですよ旦那。このガキ、親が蒸発してからずっと一人で仕事をしてたみたいでね」
ブローカーの卑屈な笑い声を無視して、私は部屋の隅に目をやった。
そこに、彼女――アリスはいた。本名ではないだろう。だが、今の私にはその記号だけで十分だった。
薄汚れた白いワンピース。手足には包帯が幾重にも巻かれ、そこから滲む赤黒いシミが、彼女の生きた時間の過酷さを物語っていた。彼女は体育座りをしたまま、虚空を見つめていた。私の存在に気づいているのかさえ怪しい。まるで、糸の切れたマリオネットだ。
「立てるか?」
私が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。焦点の定まらない瞳。色素の薄い茶色の瞳孔が、爬虫類のように収縮する。私は膝をつき、彼女の頬に触れた。冷たい。陶器のような冷たさだ。
「……いた、いの?」
彼女の唇が微かに動いた。掠れた、小さな声だった。私は首を横に振る。
「いいや。私は君を傷つけないよ」
私はポケットから携帯用の共鳴器を取り出し、彼女のこめかみと自分のこめかみに装着した。瞬間、電流のような痺れが私の中を駆け巡る。
――ズキリ。ズキリ。
ああ、これだ。肋骨のヒビが呼吸のたびに軋む音。古傷が雨の気配を感じて疼く感覚。空腹で胃壁が擦れ合う灼熱感。それらが、交響曲のように私の脳内で鳴り響く。
サンプルよりも遥かに鮮烈で、それでいて静謐だ。彼女はこんな轟音を身体の中に飼いながら、表情ひとつ変えずに座っていたのか。
「美しい」
思わず漏れた言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げた。私は共鳴器を外し、彼女の体を軽々と抱き上げた。
「行こう、アリス。ここにはもう用はない」
「……どこへ?」
「私の家だ。もう誰も君を殴らないし、君から痛みを奪おうとするハイエナもいない」
私は彼女の耳元で、甘い毒のように囁いた。
「君の痛みは、全て私が引き受けよう」
それは、究極の独占宣言だった。
私の邸宅に連れ帰ったその日から、奇妙な同居生活が始まった。
私は彼女に、城のような個室を与えた。壁は防音仕様、家具はすべて角のない特注品。転んでも怪我をしないよう、床には厚手の絨毯を敷き詰めた。私の知らないところで、新たな痛みが生まれるのを防ぐために。
彼女の身体は、まさに宝の山だった。風呂に入れ、薄汚れた包帯を解く時が、私にとっての至福の時間だった。背中には火傷の跡。二の腕には無数の切り傷。足の爪はいくつか剥がれかけている。
私はそれらを丁寧に洗浄し、最高級の軟膏を塗り、新しいガーゼで覆った。
「痛くないかい?」
ガーゼを当てる指先に力を込めながら聞くと、アリスは小さく首を横に振る。
「……ハルトさんが触ると、痛くない気がする」
それは錯覚だ。私がしているのは治療ではない。保存修復だ。古美術品のカビを取り除くように、私は彼女の痛みの鮮度を管理しているに過ぎない。だが、アリスにとってそれは初めて触れる優しさだったようだ。
彼女は日に日に、私に懐いていった。
食事は、流動食から始めた。彼女の胃腸は弱りきっていて、固形物を受け付けなかったからだ。私はスプーンで少しずつスープを流し込む。彼女がそれを飲み込み、胃に落ちていく微かな重みと違和感を、私は共鳴器越しに楽しんだ。消化器官が活動する、生命の律動。その微細な苦痛さえも、私にとってはデザートだった。
「ハルトさん、どうしてこんなに良くしてくれるの?」
ある夜、私の膝元で共鳴器を装着したまま、アリスが尋ねてきた。彼女の顔色は、ここに来た時よりずっと良くなっていた。頬には僅かに赤みが差し、瞳には光が宿り始めている。私は彼女のさらさらとした髪を撫でながら、微笑んだ。
「君が大切だからだよ、アリス。君は私の……特別だからね」
後半の言葉を、彼女はどう受け取っただろうか。アリスは私の手に頬を擦り寄せ、幸福そうに目を閉じた。
「嬉しい。……私、生まれて初めて、生きててよかったって思った」
その言葉を聞いた瞬間、私の舌の上に、ピリリとした雑味が走った。
――幸福。温かく、甘ったるく、そして退屈な味。
私は眉をひそめたが、すぐに表情を戻した。
まだいい。今はまだ、彼女の体には過去の傷という資産が残っている。古傷の痛み、幻肢痛、天候の変化による神経痛。それらを味わうだけで、今のところは十分だ。
だが、私は知っていた。傷はいずれ癒える。幸福は痛みを麻痺させる。この平穏な日々が、私の食糧を少しずつ、しかし確実に腐らせていることを。
眠りに落ちたアリスの寝顔を見下ろしながら、私は焦燥感にも似た渇きを覚えた。この最高のヴィンテージワインが、ただの
私は彼女の手首に残る、古いリストカットの跡を指でなぞった。
まだ、間に合う。彼女はまだ、こちらの世界の住人ではない。硝子の飼育箱の中で、私は静かに次の晩餐に思いを馳せた。
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