第2話 開かれた扉

 サイレンの音は、もはや遠くの幻聴ではなかった。それは、タクミのアパートの真下で、けたたましく鳴り響いている。赤と青の光が、遮光カーテンの隙間から漏れ、薄暗い部屋の壁を不規則に照らした。

 タクミは手に持った不気味なオブジェを凝視したまま、凍りついていた。脳内では、ゲームで致命的なミスを犯したときに流れる、あの警告音が鳴り響いているかのようだ。

「まさか……逮捕フラグ!?」

 彼の口から漏れた言葉は、現実の緊迫感とはかけ離れた、ゲーム脳特有の思考だった。だが、彼の背中に走る冷たい汗は、紛れもない現実の恐怖を物語っている。

 その時、玄関のドアが激しく叩かれた。

 バン!バン!バン!

 まるで、巨大なゴブリンロードが襲来したかのような、荒々しい音だ。

「警察だ! ドアを開けろ!」

 野太い男の声が、アパート中に響き渡る。

 タクミは息を呑んだ。ゲームなら、ここでアイテムを駆使して隠れるか、スキルを使って逃走を図る。だが、これは現実だ。彼のステータスは「無職」、装備は「スウェット」、スキルは「ゲーム攻略」しかない。

「おい、中にいるのは分かってるぞ! 開けないなら、こじ開ける!」

 猶予はない。タクミは、震える手でオブジェを床に落とし、両手を上げた。まるでゲームで「降参」のコマンドを選んだかのように。

「は、はい……開けます、開けますから!」

 ドアチェーンを外す音が、やけに大きく響く。ガチャリ、と鍵が回る音。

 ドアを開けた瞬間、眩しい光がタクミの目を射抜いた。数人の男たちが、一斉に部屋になだれ込んでくる。彼らは皆、紺色の制服に身を包み、鋭い眼光でタクミを睨みつけていた。

「佐藤タクミだな? お前を、先日発生した連続猟奇殺人事件の殺人容疑で逮捕する!」

 その言葉の直後、逮捕を告げた年嵩の男が、タクミの足元に転がったオブジェに目を留めた。

「これだ!」

 低い声が響くと同時に、数人の鑑識らしき人間が白い手袋をはめて部屋になだれ込み、オブジェの周囲に立ち入る。

「誤配なんです! 俺、何もやってない! 知らないんですよ!」

 タクミはあっという間に手錠をかけられた。必死に叫ぶが、彼の言葉は誰にも届かない。冷たい金属の感触が、手首に食い込む。

「おい、この部屋の状況を見ろ!」

 そう叫んだのは、若手の刑事だった。浅黒い肌に、短く刈り込んだ髪。いかにも体育会系といった風貌だ。彼の視線は、積み上げられたカップ麺の空容器と、エナジードリンクの空き缶の山に向けられていた。

「こんな部屋で、こんなもん持ってて、シラを切る気か! 被害者の身体損壊に使われた凶器と一致するって、鑑識から報告もあったんだぞ!」

 若手刑事――浅野は、感情的にタクミを問い詰める。しかし、タクミはただただ狼狽するばかりで、的確な反論ができない。ゲームなら、こういう時は冷静に状況を分析し、最適な選択肢を選ぶのだが、現実のパニック状態では、ただ言葉が空回りするだけだった。

 その時、一人のベテラン刑事が、静かにタクミの前に立った。

 彼の名は木下。眉間に深い皺が刻まれ、その目は全てを見透かすかのように鋭い。浅野の感情的な態度とは対照的に、木下は一切の動揺を見せず、ただタクミの顔をじっと見つめていた。

「佐藤タクミ。お前、ずっとこの部屋にいるのか?」

 木下の声は低く、しかし有無を言わせぬ響きがあった。

「え、ええ……まあ、ほとんど……」

 タクミはどもりながら答える。彼の視線は、無意識のうちにモニターへと向かった。そこには、一時停止されたゲーム画面が、呆然と映し出されている。

 木下は、タクミの視線の先を追った。そして、部屋全体を見回す。複数のモニター、積み上げられたPC、大量のゲームソフトや攻略本、そして壁一面に貼られたネットニュースのプリントアウト。それらは、世間を騒がせる事件に関するものだけでなく、テクノロジー、犯罪心理、都市伝説など、多岐にわたるジャンルの情報が雑多に並べられていた。

「ほう……」

 木下の口から、かすかに感嘆の声が漏れた。浅野は、部屋の汚さに顔をしかめているが、木下の目は、その混沌とした情報空間の奥に、何か特別なものを見出しているかのようだった。

「こんなに情報集めて、何をしてるんだ?」

 木下の問いに、タクミは戸惑った。ゲームの攻略、あるいは単なる暇つぶし、とでも答えるべきか。だが、彼の頭には、事件の凶器に酷似したオブジェが誤配で届いたという、あまりにも奇妙な現実が重くのしかかっていた。

「……別に、何も。ただ、ネットを見ていただけです」

 タクミはしどろもどろに答える。

「そうか」

 木下はそれ以上は追及しなかった。だが、その瞳の奥には、確かな探求の光が宿っていた。

 鑑識作業が進む中、タクミは警察官に腕を引かれ、部屋を出るよう促された。玄関に向かう途中、彼は再びモニターに目をやった。ゲーム画面の中の、迷宮の奥深くで佇むアバター。

 彼自身の現実は、今、まさに未知の「ダンジョン」へと足を踏み入れようとしていた。

 ドアが閉まる寸前、木下刑事の声が聞こえた。

「……お前、面白いな」

 その言葉は、タクミにとって、ゲームの「メインクエスト開始」を告げる、不穏なSEのように響いた。

 薄暗い部屋から、現実の光が満ちる廊下へ。

 佐藤タクミの、最悪の「ゲーム」が、今、始まった。

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