されこうべ蓮

珠邑ミト

1.黄金の沼


 ぽん。

 ぽん、ぽんぽん。


 初夏のことだった。

 砕いた玻璃はりをアメジストになすり付けたような夜空の下、瑠璃紺の外套マントを羽織ったひとりの旅人が歩いていた。旅人は、男性だった。彼は、そのささやかな破裂音を聞きながら、黄金色の沼のほとりを歩んでいた。

 ふいに、さらり、しゃなりと鈴の音を響かせながら、輝ける精霊が彼の目の前を通りすぎた。音は精霊の笑い声だった。彼はおもむろに歩みを止め、フードをおろした。短く切った銀の髪が、やわらかな夜風にゆらされて、彼の頬をなぶった。精霊はそのまま森の奥へと姿を晦ました。


 ぽん。

 ぽん、ぽんぽん。


 彼は、精霊の行方を追った目を、次に黄金色の沼へと移した。

 沼は、今を盛りと蓮の花をいくつもいくつも抱え込んでいる。そして、彼の目がその内のひとつに向いた。

 薄紅色と淡黄色のグラデーションでできた、こっくりとした蓮華がほとんどのなか、ただひとつ、ほんのりとした明かりを放つ、銀の蕾があった。金の沼に浮かぶ銀の蓮華の蕾であれば、人目を引いても無理はない。

 背後の森から、さらり、しゃなりと音がする。精霊の笑い声だ。鈴のような笑い声だ。彼は少しだけ振り返った。

 どす黒い影が、いくつもいくつも、樹間に湧いて、うごめいている。

 彼は視線を銀の蕾へ戻した。ふるふると光の粒が、花弁の隙間から零れ出ている。もう間もなく開花するのだろう。水の匂いが濃くなってきた。一雨くるかも知れない。

 と、

 ぷつり。

 銀の蕾の一番外側の花弁が一枚、ほどけた。

 ぷつ、ぷつ、ぽ。ぽぽん。

 瞬く間に開き切った蕾の中から、「ふぅ」と音にもならぬ吐息が聞こえた。彼はゆっくりと一度瞬いて、それから、じっと目をすがめた。

 ぬるりと、黒い束がひとつ、開いた花弁の隙間から零れ落ちるようにして、細い茎にそうように、垂れた。

 銀の仄かに光る、開いた蓮華の内に、乙女の首がひとつ、入っていた。


 *


 銀の蓮華の中にあった乙女の顔は、たいそう美しかった。鴉の濡れ羽色をした髪は、たっぷりと豊かで、だからこそ開花と共に零れて垂れたのだった。髪の先端は黄金の沼に触れている。金の水面を突き破った黒髪は、沼の内でゆらゆらと歪んでいた。

 乙女の首は、眠っているようだった。血色のよい頬と、珊瑚色の唇から、彼女に生気があることを見て取れる。長い睫毛も黒々として、柳の眉も嫋やかだ。

 彼は、呆けたように乙女の首を見つめた。背後の森から、さらり、しゃなりと音がするのも、もう気にならなかった。黒い影はきっと彼のことを見ているだろう。その意味はわからないが、そんなことも、もうどうでもよかった。

 それほどまでに、乙女の首は美しかった。

 彼は外套マントの内側に隠した鞄の内をさぐり、ノートと筆記具を取り出した。それから、その場に腰を下ろして乙女の首を描き取った。彼の絵は、たいそう精密だった。最初それは赤茶色の線画だった。しかし彼は色彩も加えたいと考えた。それでおもむろに立ち上がり、彼の持ち物のなかで唯一水がすくえる木の椀をもって黄金の沼に近付き、沼の水を掬い取った。

 とたん、彼の木の椀は黄金に染まった。彼が驚いていると、また背後から、さらり、しゃなりと笑い声がする。指先に違和感をおぼえて、彼は椀をつかんでいる自分の手を見た。彼の指先もまた黄金に染まっていた。

 彼は驚き、慌てて椀の中に張った沼の水を捨てた。その拍子に彼は尻もちをついた。辺りに黄金の水が飛び散り、沼のほとりの草にとどまらず、彼の外套マントや、彼の鼻に、黄金を飛び散らせた。

 さらり、しゃなりと嗤い声が彼の耳に幾重にもかさなり、潜り込む。黄金に染まった手を外套の裾でぬぐっても、その色は皮膚に染みついて取れる気配がない。

 彼は慌てて逃げ出した。しかし、森の中で蠢いていた黒い影が、彼を取り逃がすことはない。彼はもう黄金に染まってしまったのだから。ずるずると地を這い、あるいは樹間に紛れて彼の跡を追う。さらり、しゃなりと。黄金の味を追って。

 黄金の沼の中、銀の蓮華の中で乙女の首は夢を見ている。花開いたばかりの、美しい乙女の夢は、果たしてどんなものなのだろうか。

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