第44話 座礁

泉川温泉郷最大級のホテルのひとつ、いずみがわ温泉本館。

客室三百、宴会場五つ、大浴場三か所を備え、高度経済成長期から急拡張を続けてきたその姿は、まるで大海原を走る巨大客船のようだった。

だが——その船には、もう舵がなかった。


帝都は、明確な条件を提示していた。

温泉権ごと一括買収。既存建物は解体。高級リゾートとして建て替え。

帝都にとっても、初めての「不動産の証券化による資金調達案件」だった。


だが、オーナーの霧生は首を縦に振らなかった。

「まだやれる。団体客も、すぐ戻る」


老朽化した配管、耐震の問題、人件費の高騰、団体旅行依存の集客構造。

すべてを分かった上で、彼は自力再建を選んだ。

「壊すのは、いつでもできる」——それが、霧生恒一の判断だった。


結果は、新聞記事に残っている。

客足は戻らず、改修費用は膨らみ、銀行は追加融資を渋った。

急激に拡張した巨大ホテルは方向を失ったまま川沿いに取り残され、舵のない客船は、静かに、しかし確実に——座礁した。


翌朝。

蓮は、川の向こう岸に佇む巨大な廃墟と化したホテルを訪れた。

蒼ヶ崎に戻る前に、自分の目に焼き付けておくためだ。

フェンスはあるが、すでに誰も管理していない。

錆びた鎖が風に揺れている。建物は、思っていたよりもはるかに大きかった。

かつては華やかな笑い声が響いたであろう温泉旅館。

今そこにあるのは、静寂と錆だけだ。


外壁の看板は半分が剥がれ、残った文字だけが意味を失ったまま宙に浮いている。

冬の光が、歪んだ窓ガラスを淡く照らしていた。

「いずみがわ温泉本館」——その名が、木製の看板にかろうじて残っている。

文字は色褪せ、朽ちた釘が幾重にも折れ曲がっていた。


入口の廊下には崩れ落ちた天井の破片が散乱し、無数の落書きが壁一面に刻まれている。

かつて宴会場だったはずの部屋には、埃をかぶった宴会メニューの紙片が残り、「どーんとビールを飲んで、カニでも食べましょう」という言葉だけが、色褪せた字体で虚しく踊っていた。


奥へ進むと、かつて混浴だったという巨大な温泉プール跡がある。

濁った水も、泡立つ歓声も、もうない。

割れたタイルの裂け目からかすかに雑草が伸び、枯れた草木だけが、そこに息づいていた。

湯煙と笑い声が交じり合った場所は、今や、静かな廃墟の底のようだった。


雨漏りしたロビーの床は腐食し、歩くたびに、ぎしりと軋む。

倒れた照明器具と家具の残骸の中に、いつの年代かも分からない麻雀牌が転がっている。それを見た瞬間、かつて人々が囲んだ温もりの輪の記憶が、静かに消えていった。


そして——外の廃屋街と対照的に、対岸の現役ホテル群が太陽の光を浴びて瞬いている。

新旧が並ぶその景色は、廃墟の闇をいっそう深いものにしていた。


かつてここで働いた人々の足音は、もうない。

ただ風だけが、冷たく、迷路のような廃墟の奥へと、音もなく吹き抜けていく。


帰り道、駅へ向かう途中で、一軒の土産物店が目に留まった。

木の引き戸、色褪せた暖簾。ガラスケースの中には、もう流行らない饅頭と、湯の花の袋。

千尋に、何か買って帰ろうと思った。


戸を開けると、鈴が鳴る。

「いらっしゃい」


店主は、七十を少し過ぎたくらいの女だった。腰は曲がっているが、声はよく通る。

「観光ですか」

「ええ、まあ……」


蓮は曖昧に答え、棚を眺めた。

店主は、ふと窓の外を見て、独り言のように言った。

「昔はねぇ、団体旅行ですごかったのよ」

懐かしむでもなく、淡々と。

「バスが何台も並んでね。駅前から、この店の前まで、人が途切れなかった」


蓮は、何気なく聞いた。

「……あの、大きなホテルが営業してた頃ですか」


店主は、頷いた。

「ああ、いずみがわ温泉本館」


一拍置いて、声を少し落とす。

「でも、あのホテルがね……潰れてね」


蓮は、息を殺した。

「社長さん、霧生さんでしたっけ。失踪したって聞きましたけど」


「……あんた、よく知ってるね」

「まあ、本当のところは分からないけどね」


店主は、蓮の顔をちらりと見てから、話を続けた。

「残されたのは、奥さんと、子どもだった」


一瞬、記憶を探るように目を伏せ、そして、ぽつりと。

「娘さんでね。名前は……確か、まやちゃん、だったかしら」


蓮の指が、わずかに止まった。

「小学校六年生でね。転校しなきゃならなくて、うちのせがれも同じクラスでね」


店主は何事もなかったように饅頭の箱を整え、言った。

「……世の中、そういうこともあるわね」


蓮は、しばらく言葉を探したが、結局、何も言えなかった。

会計を済ませ、包みを受け取る。

「ありがとうございました」

「気をつけて」


外に出ると、川の音が戻ってきた。

——まや。

名前だけが、頭の中で静かに反響する。

偶然か。それとも——。


蓮は包みを持ち直し、駅へ向かって歩き出した。

泉川は、昨日と同じ速さで、何事もなかったように流れていた。


―― 第44話 了 ――

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