第39話 灯りの外側
蓮は、気がつけば浜辺を歩いていた。
どこへ行くつもりだったのか、自分でも分からない。
ただ、舶灯館から離れたかった。
砂を踏むたび、靴の中に冷たい感触が入り込む。
冬の海は、音だけがやけに近い。
波が寄せては返すたび、胸の奥までさらわれる気がした。
(まただ)
帝都商事を辞めると決めた時と、同じだ。
俺はいつも、何かが重くなると一度距離を取る。
逃げたわけじゃない。
頭を冷やして、冷静になるためだ。
そんな言い訳を、自分に与える。
千尋の言うことは分かっていた。
焦るのも、決断するのも、全部正しい。
それなのに、何も出せなかった。
代案も、希望も、言葉も。
「理屈が正しければ、それでいいんでしょ」
その言葉が、頭から離れない。
答えのない理屈だけが、胸に残る。
波打ち際を離れ、細い坂道を上る。
気づけば、古い家並みの中に入り込んでいた。
木の塀。小さな庭。見覚えのある表札。
(……板長の家だ)
足が止まる。
引き返そうとした、そのとき。
「誰や」
低く、落ち着いた声がした。
縁側に、板長が座っていた。
膝に湯呑み。
海を見ている背中。
「……すみません」
蓮は反射的に頭を下げた。
「通りがかりで……」
「嘘つけ」
板長は、笑いもしなかった。
「そんな顔で、通りがかる奴はおらん」
言葉を失う。
逃げたこと。
何もできなかったこと。
また同じ選択をしたこと。
全部、顔に出ていたのだろう。
「座れ」
短く言われ、縁側に腰を下ろす。
海風が、二人の間を抜けた。
「何かあったんか」
「……はい」
蓮は、簡単に経緯を説明した。
「そうか」
それだけ言って、板長は湯呑みを口に運ぶ。
「何も、できませんでした」
蓮は絞り出すように言った。
「焦るなって言うことしかできなくて、
解決策も、慰めの言葉も、出なくて……」
沈黙。
板長は、海を見たまま言った。
「解決策なんて、最初からいらん」
蓮が顔を上げる。
「何かを“決める”のは、あいつの役目や」
「……じゃあ、俺は——」
「そばにいろ」
即答だった。
「それだけで、何が変わるんですか」
板長は、ようやくこちらを見た。
「何も変わらん」
静かに続ける。
「でもな。逃げなかった、って事実だけは残る」
胸の奥が、ひりついた。
「人はな、失敗より、
“一人だった時間”を一番引きずる生き物なんや」
板長は立ち上がり、縁側の灯りに手を伸ばす。
ぱちん、と小さな音。
橙色の光が灯る。
「灯りってのはな、明るくするためやない」
背中越しに言った。
「“ここに誰かおる”って知らせるためや」
蓮は、その言葉をただ受け取った。
答えはなかった。
それでも——
(戻らなきゃ)
逃げる理由だけは、消えていた。
舶灯館の坂を上りきったところで、蓮は足を止めた。
玄関の外灯がつくる橙色の輪の、その少し外側に、
制服姿の少女が立っている。
斉木瑠夏だった。
両手をポケットに入れ、
ガラス越しに中を見つめている。
背中だけが、灯りに縁取られていた。
「……瑠夏ちゃん?」
声をかけると、肩がわずかに揺れる。
「……蓮さん」
振り返った顔は、どこか硬い。
「どうしたの、こんなところで」
瑠夏は答えず、視線を館内へ戻した。
「……来てます。人」
その一言で、蓮も気づいた。
帳場の奥に立つ、千尋。
その向かいに、見覚えのある横顔。
黒瀬麻耶。
黒髪。
背筋の通った姿勢。
前と変わらない、あの距離の取り方。
(……黒瀬?)
蓮は息を止めた。
なぜ、ここに。
玄関へ向かう。
扉に手をかけた、その瞬間——
中で椅子が引かれる音。
同時に、麻耶が立ち上がる。
玄関で、すれ違う。
一瞬、視線が合う。
麻耶の目が、ほんのわずかに細くなる。
驚きでも、戸惑いでもない。
「見つけた」というだけの目。
唇の端が、静かに持ち上がる。
冷たい笑み。
蓮が声を出す前に、
麻耶は何も言わず外へ出た。
香水の残り香だけが、玄関に留まる。
扉が閉まる音が、やけに重かった。
帳場には、千尋だけが残っている。
「……今の」
蓮が言いかけると、
千尋は視線を落としたまま答えた。
「帝都ファイナンシャルアドバイザリーの、
黒瀬麻耶さん」
そう言ったが、蓮を見なかった。
手元の書類を揃え、角をきっちりと合わせる。
それは、いつもの癖だった。
「耐震診断、お願いしたから」
それだけ言って、奥へ引っ込む。
蓮に、横にいてほしかった。
その言葉だけは、言われないまま残った。
夕方の空は、港から離れるにつれて色を失っていった。
黒瀬麻耶は、迷いなく歩いていた。
ヒールの音が、一定のリズムで歩道に落ちる。
速くもなく、遅くもない。
瑠夏は、探偵ドラマの尾行シーンを思い浮かべながら、
慎重に跡をつけた。
つけようと思ったわけじゃない。
すれ違いざまに見せた、あの笑みが、
どうしても引っかかったのだ。
(……あの人は、いったい何者?)
瑠夏探偵は、少し距離を取りすぎて、何度か立ち止まった。
制服のまま市街地を歩くのは、思った以上に目立つ。
信号が赤になるたび、心臓の音が大きくなる。
市役所が見えてきた。
白い外壁。
夕暮れの空に浮かぶ、無機質な建物。
ロータリーに、低いエンジン音が滑り込んできた。
黒い高級車だった。
黒瀬麻耶は、迷わず後部座席のドアを開けた。
その瞬間、
フロントガラスに、街灯の光が反射する。
一瞬だけ、
後部座席に座るもうひとりの影が映り込んだ。
スーツ。
白いシャツ。
その男は、外を見ていなかった。
ドアが閉まる。
重たい音。
信号が変わる。
車が一斉に流れ出す。
尾灯が、ゆっくりと遠ざかる。
(……嘘)
最初から決まっていた速度だった。
(……知らないふりは、できない)
市役所の白い壁を見上げながら、
瑠夏は唇を噛んだ。
何も掴めていない。
でも——
(これは、旅館の問題じゃない)
(街ごと、見られてる)
そう思った瞬間、
胸の奥に、初めて“怖さ”が、
はっきりした形で現れた。
今日は、ここまでだ。
追えない。
でも、自分は確かに見た。
——それだけは、消えなかった。
飛行場へつながる高速道路。
車内は、外の音をほとんど遮断していた。
タイヤが路面を噛む感触だけが、わずかに伝わってくる。
「こちらに、いらっしゃってたんですね」
黒瀬麻耶が言った。
声は丁寧で、よく整っている。
「ちょっと、市議にね」
男は窓の外を見たまま答える。
街灯が、フロントガラスの端を滑っていった。
「舶灯館はどうだ?」
「……順調です」
ほんの一拍。
「氷川さんが、我々に耐震診断を依頼するそうです。 業者は、こちらで手配します」
「そうか」
短い返事。
「どうせ、壊す建物だ」
評価も感情もない声だった。
「その辺は、君がうまくやりなさい」
麻耶は、一瞬だけ視線を落とした。
「最近、上が経費についてうるさくてね」
軽い調子だったが、断れない空気があった。
その言葉に、麻耶は答えなかった。
ただ、ほんのわずかに——
黙って、うなずいた。
「来月には、オーナーが日本に来るそうだ。
それまでに、よろしく頼むよ」
「かしこまりました。」
はっきりとした口調だった。
車は、交差点を抜けると速度を上げた。
窓の外で、港町の灯りが、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
やがて、遠くの街の灯りはバックミラーの中に沈み、
黒い車は、そのまま町を離れて空港へ向かって走った。
―― 第39話 了 ――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます