第19話 追憶

商店街の通りは、すっかり暗くなり、

シャッターの下りた店の前を、冷たい風が抜けていく。


千尋と華は、並んで歩いていた。

言葉は、まだ少ない。


二人が足を止めたのは、

商店街にある、年季の入った建物だった。


看板は外され、

入口には、まだ綺麗な「立入禁止」の札が立っている。


「……ここ」


千尋が、立ち止まって言った。


「ここ、銭湯ですよね?」


「うん、あけぼの湯。

 去年まで、やってたんだけどね」


ガラス越しに見える番台。

壁に貼られた入浴料金表。


「父ね……

 よく、ここに来てたの」


千尋は、華の横顔を見る。


「黒川電装の従業員さんたちを連れてね」


華は、小さく笑った。


「造船所の仕事って、油と機械と汗の匂いでしょ。

 急に大口の注文が入った時は、

 残業で遅くまで、みんな仕事をするでしょ。


 だから、みんなでお風呂に入って綺麗にして、

 うまい飯を食って、

 家に帰って寝るだけでいいようにって。


 お湯代まで全部払ってね。

 父、こういうのにうるさくて」


千尋は、はっとした。


「まさか……」


「うん。

 まず、みんなでここで風呂」


華は、番台の向こうを見つめた。


「体をきれいにして、

 温泉で疲れを癒して、

 頭を空っぽにして、

 『明日もがんばるぞぉ――』

 とか言いながら、

 みんなで舶灯館に行くのよ」


千尋の胸が、きゅっと鳴る。


「板長さんの料理?」


「そう。板長の料理。

 当時はまだ新人の料理人でね。

 京都かどこかの店で修行して、

 こっちに帰ってきたところだった」


華は、少し間を置いて続けた。


「父はね、よく言ってた。

 『いい仕事には、年齢や経験だけじゃなく、

 魂がこもっとる』ってね」


少し懐かしむように、続ける。


「時々ね、

 板長と若い従業員が酔っ払って、

 些細なことで喧嘩してさ。

 よく、うちの父と

 千尋さんのお父さんが、

 笑いながら止めてたよ」


千尋は、息を呑んだ。


(……そんな話、知らなかった)


華は、ふっと目を細めた。


「父は、家ではあんまり笑わなかったけど……

 あの席では、よく笑ってた」


風が、銭湯の扉を軽く鳴らした。


「千尋さんが、生まれる前の話だけどね」


華は、ゆっくりと言った。


「その数年後、

 うちの会社が厳しくなったとき、

 真っ先に声をかけてくれたのが――」


「……千尋さんのご両親」


「『華ちゃん、よかったら、うちを手伝って』って。

 『居場所は、まだあるよ』って」


千尋の視界が、滲んだ。


(……知らなかった)


「私、あの時……

 助けてもらったのに」


華の声が、わずかに震える。


「逃げて。怒って。拗ねちゃって。

 今日まで、ちゃんとお礼も言えてなかった」


「……本当に、ごめんなさい」


千尋は、足を止めた。


「……いえ」


華を見る。


「華さんが、今までここにいてくれたこと。

 私の支えになってくれたこと。

 ちゃんとお礼も言わずに、

 ただ銀行に言われるまま、よく考えずに……」


華は、驚いたように千尋を見る。


「それだけで十分よ。

 それに……あの子の方が、

 私より、いくぶん立派ね」


しばらく、二人は黙って立っていた。


商店街の奥で、

誰かがシャッターを下ろす音が響く。


「……瑠夏」


華が、低く呟いた。


「きっと、この場所に来てる気がする」


千尋は、頷いた。


「灯火ステップの……ステージ」


ステージには、誰もいなかった。

その端に、壊れたペンライトが、そっと置いてある。


「……これ」


千尋はしゃがみ込み、指先で拾い上げた。

透明なケースに、細かな傷。

中の豆電球には、もう灯りがない。


「この間……踊ったときのだと思います」


千尋の声が、少し掠れた。


華は、そのペンライトを見つめたまま、動かなかった。

胸の奥で、何かが静かに崩れていく音がした。


その時だった。


千尋が、ステージの下に伸びる細い足跡に気づいた。

砂埃の上に、かすかに残る靴の跡。


「……華さん」


千尋が、静かに言った。


「こっちです」


足跡は、ステージの裏を回り、

商店街の奥――海の方へと続いている。


華は、何も言わずに頷いた。

ただ一度、ペンライトに視線を落とし、

そっとポケットに入れる。


「……瑠夏」


歩き出しながら、華が言った。


「どこにいるの?」


千尋も、並んで歩き出す。

二人の背中を、街灯の光が追いかけていた。


消えかけた灯りを、

もう一度つなぐために。


―― 第19話 了 ――

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