第14話 風の向き

取材の日の朝、舶灯館のロビーは、いつもより少しだけ早く灯りがともっていた。


千尋は帳場の前に立ち、鏡越しに自分の姿を見つめる。


藍色の割烹着ではなく、今日は落ち着いた色合いのブラウスにカーディガン。

いつもの「女将」ではなく、「旅館の代表」の顔をしなければならない気がして、髪もきちんとまとめ直した。


(変じゃないかな……)


その不安を振り払うように、千尋は小さく息を吐いた。


そこへ、ポットとカップを載せた盆を持って、蓮が奥から現れた。


「コーヒーとお茶、どっちがいいかわからなかったので、両方いけるようにしておきました」


「……ありがとう。朝から、なんか緊張するね」


「地方紙ですけど、“新聞”ですからね。インターネットとは違って、紙で残りますし」


蓮は笑ってみせたが、その指先もわずかにこわばっていた。


「でも、ここまで来たんだ。ちゃんと伝えたいですよね。

 灯りを消さないっていうこと」


「うん」


千尋は、帳場に置かれた予約台帳をちらりと見た。


瑠夏たちの「灯火ステップ」と、かぼすの精油、商店街の協力——

そのおかげで、週末の予約は少しずつ増え始めている。


だが、数字はまだ「安心」にはほど遠い。

ほんの数行の名前と日付。それでも、それは確かに「灯り」のように見えた。


自動ドアが、控えめな音を立てて開いた。


「おはようございます。荘南新聞の朝倉です」


黒いショルダーバッグを提げた若い男性が、一礼した。二十代半ば、眼鏡の奥の目は少し眠そうだが、その視線はロビーの隅々までよく動いていた。


「遠いところを、ありがとうございます」


千尋が頭を下げると、朝倉は慌てて手を振った。


「いえいえ、とんでもない。むしろ僕らの方こそ。

 正直に言いますと……昨日、うちの会社で“灯火ステップ”の動画が話題になりまして」


「会社で?」


「はい。編集部の若いのが、休憩時間に回してきたんです。

 『これ、ウチの県じゃないですか?』って。

 見た瞬間、“あ、行かなきゃ”と思いました」


瑠夏のダンス。制服姿の高校生たち。

シャッター街の真ん中で、裸足で地面を踏み鳴らし、灯りを守ろうとする子どもたちの姿。


あの夜の空気が、一瞬よみがえる。


「今日は、舶灯館さんの取り組みと、商店街との連携、

 それから——可能であれば、高校生の皆さんにもお話を聞けたらと」


「観光ビジネス科の子たちですね。放課後なら時間が取れると思います」


蓮が応じると、朝倉は嬉しそうに頷いた。


「いただいたメール、拝見しました。

 “料理の宿から、灯りと香りの宿へ”——すごくいいフレーズだと思います」


「それ、蓮くんが考えたの」


千尋がそう言うと、蓮は少しだけ耳を赤くした。


「まだ仮ですけど……。元々の“板長の料理”という軸を失って、

 それでも残ったものが何かって考えた時に、瑠夏ちゃんがかぼすの精油でヒントをくれたと言うか」


「今あるものが、“場所”と“人”と、“灯り”と“匂い”だった」


千尋がゆっくりと言葉を継ぐ。


「父と母が守ってきたもの。華さんや料理長が支えてくれたもの。

 それを全部、いきなり線で消されるみたいで……。

 でも、瑠夏ちゃんたちが“灯りを消さない”って踊ってくれて。商店街の人も動いてくれた」


朝倉は真剣な眼差しで、千尋の言葉をメモしていく。


「なるほど……。

 “なくなったもの”じゃなくて、“まだ残っているもの”から書かなきゃいけませんね、これは」


蓮はふと、朝倉を見た。


(この人は、わかってくれそうだ)


そんな予感が、かすかに胸をよぎった。



取材は、午前中いっぱい続いた。


露天風呂へ続く廊下。

かぼすを浮かべた湯船。

ロビーに漂う精油の香り。


朝倉は、写真を撮る位置を何度も変えながら、丁寧にシャッターを切った。


「高校生の子たちのダンス写真も使いたいんですが……許可は」


「学校とも相談しながらですけど、顔がわかりにくい角度なら大丈夫だと思います」


蓮が応じると、朝倉は頷いた。


「“地方の高校生が立ち上がった”っていう文脈で書きたいんです。

 誰かが“かわいそうな旅館を助けてあげる”って話じゃなくて、

 この街の人たちが、一緒に灯りを守ろうとしているっていう」


その言葉に、千尋は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


(この人に書いてもらえるなら、大丈夫かもしれない)


そう思えた。


放課後、制服姿の瑠夏たちがやってきて、照れながらも真剣な顔で取材に応じた。


「観光ビジネス科で学んでることが、

 “教科書の中のこと”じゃなくて、目の前の街で役に立つってわかったんです」


「“映える”だけじゃダメで。

 ちゃんと、お金と人が動くようにしないと、本物じゃないから」


瑠夏の言葉に、朝倉は何度もペンを止めた。


「すごいなぁ……。

 僕が高校生の頃なんて、こんなに街のことなんて考えたことなかったよ」


「私たちだって、最初は“インスタでバズりたい”がきっかけでしたよ」


瑠夏が笑い、他の子たちも照れくさそうに笑った。


その笑顔に、舶灯館の空気が少しだけ軽くなる。


取材が終わるころ、夕陽が港の向こうに傾き始めていた。


「本当に、ありがとうございました」


朝倉は、深々と頭を下げた。


「特集は、今度の日曜版の一面下で組む予定です。

 写真も、できるだけ大きく使います。

 ——風が、少しは変わると思いますよ」


千尋は、胸の奥の何かがほどけるのを感じた。


「楽しみにしています。本当に……お願いします」



夜。


湯気が立ちのぼる露天風呂。

丸いかぼすが青く浮かんでいた。

香り高い湯気が風に流れ、ほのかに甘い柑橘の香りが漂っている。


湯面がゆらめくたび、橙色の灯りが揺れ、

湯気の向こう、千尋の頬が淡く滲んだ。


「……すごく、いい香り」


「瑠夏ちゃん、言ってたよ。

 “かぼすは皮の部分に精油が詰まってるから、湯に浮かべると香りが広がる”って」


蓮は肩まで湯に沈め、空を仰いだ。

頭上には雲ひとつない夜空——

星が、海に落ちてきそうなほど近い。


「かぼすの成分、何だったっけ……

 リモネンと、なんとか……」


「β-……なんとか」


ふたりは同時に笑った。


「……蓮」


「ん?」


「私のそばにいてくれて、本当にありがとう。

 灯り、消えかけてたから……私、一人じゃ無理だった」


蓮は静かに湯を揺らしながら答えた。


「俺もだよ。ちひ——」


言いかけた言葉を、蓮は一瞬飲み込んだ。


「……いや、母さんのそばにいられて安心だし、旅館の仕事も楽しいし」


蓮はひとつ息を落とし、続けた。


「東京で全部失って、もう立ち上がれないと思ってたけど……

 この街に戻って、君に会って、生きてるって実感するんだ」


湯気の向こうで、千尋がそっと笑ったように見えた。


千尋は指先で湯面を撫で、そのまま頬まで沈めた。

湯に触れた肌から湯気が静かに立ちのぼり、光を受けて淡く揺れた。


二人の間を、夜風がそっと吹き抜けた。

かぼすの香りが、柔らかく混ざって広がる。


胸の奥が、じんわりと温かくなった。

言葉が、雪のように静かに積もっていく。


「ありがとう」


露天風呂を出ると、旅館のテラスには柔らかな灯りがともっていた。


海風に揺れる小さなランタンの明かりが、

夜の海を淡く照らす。


二人は並んで、海を見下ろすベンチに座った。

しばらく沈黙が続き、波音だけが聞こえる。


風が、ぐっと強く吹き抜けた。

夜気は鋭く冷たく、指先がかすかに震える。


その瞬間——

空から、ひらり、と白いものが落ちてきた。


千尋がそっと息をのむ。


「……雪」


初雪の欠片が、ランタンの灯りを受けてきらりと光り、

すぐに、手の甲で静かにほどけた。


——冬は、もう始まっていた。


けれど灯りは揺らめきながら、確かに燃えていた。

消えそうで、消えない炎のように。


蓮はポケットに手を入れ、そっと千尋の手を包んだ。

その温度だけが、初雪の夜に静かに灯り続けていた。


―― 第14話 了 ――

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