第35話 「私は間違ってない」ひとりきりの岩壁。肉体感覚に背いた末に起きた事件の件


 ――数日後の昼休憩。

 ゴールデンウィークの中日なかびということもあって、教室内はどことなくだらけた空気に包まれていた。

 鋭理はひとり、教室の窓から外を眺めていた。


「相沢と喧嘩をしたのか、鋭理?」


 ふと、湊が声をかけてきた。「別に喧嘩じゃない」と、鋭理は振り返らずに答える。


「えーりん、最近はこーへーくんを避けてるよね? ずっと難しい顔してる」

「もしかして鋭理さん、私のときみたいに航平君とトラブルになったのですか? だとしたら、心配です」


 湊の隣には、暦深と福音もいた。

 鋭理の胸がちりっと痛む。


「よかったら話を聞くぞ、鋭理。少なくとも、話せば気持ちは楽になるだろう」


 湊の言葉に、暦深たちも頷いていた。

 振り返った鋭理は、心配そうにこちらを見ている湊たち3人の顔を見た。

 それから、ちらと教室の端に目を向ける。

 スマホ片手に、航平が鋭理の方をちらちらと伺っていた。最近は学校でもろくに話さない。休みの日に一緒にどこかへ行くことも、もうない。


「鋭理?」

「えーりん?」

「鋭理さん?」


 再び視線を湊たちに戻す。

 彼ら3人の間には、自然な距離感があった。まるで、ずっと昔から互いを知っているような、気安い空気を感じる。


(私は……おかしい)


 そのとき鋭理は、言葉にできない疎外感を味わった。いつもの怜悧な思考では処理しきれない感情だったのだ。頭も、心も、霧に包まれた山道のように見通せない。


 鋭理は無言のまま、湊の手を取った。両手で、彼の手の温かさを感じる。そして、祈るように問いかけた。


「なあ、ミナト。私たちは親友だよな」

「ああ。そうだ」

「親友とは――肉体感覚の共有だよな。今、私とお前がこの手で繋がっているように」


 湊の視線を感じる。なぜか鋭理は、顔を上げることができなかった。

 やがて、とても真剣な声音で湊は答えた。


「俺は、絆だと思う」

「……!」

「肉体だけじゃない。心も繋がっているのが親友の姿のはずだ。鋭理、今のお前は肉体の繋がりだけにすがりすぎていないか?」


 刺さった。

 耳から胸へ、頭へ、心へ、湊の言葉は深く刺さった。

 鋭理は強く湊の手を握りしめた。彼女の握力なら、相手が痛がって当然なのだが、湊はじっとさせるがままだった。


 湊は、鋭理を思って敢えて正直に告げたのだろう。

 その誠実さが、今の鋭理には滑落と同じくらい怖かった。


「ちょっと、みーくん。ちょっと言葉が強いってば。えーりん泣いちゃうでしょ――って」

「鋭理さん、本当に泣いてる……?」


 仲裁に入った暦深たちが、驚いたように鋭理の顔を伺う。一番驚いているのは鋭理だった。


(不合理だ。不条理だ。理解不能だ。なぜ、涙腺が緩む? これくらいのことで。これくらいの、ことで……)


 自分が信じていたことを、湊からたしなめられた。

 自分は特別な繋がりを得たと思っていたのに、湊の隣には暦深や福音がいることを知った。


 まるで、デスゾーンでザイルを失ったクライマーのような気持ちになった。

 驚愕と、恐怖と、絶望である。

 これらの圧倒的な感情を前に、冷静沈着だった鋭理は考えることを放棄した。


「……早退する」

「鋭理」

「えーりん!?」

「鋭理さん!?」

「私は、間違ってない」


 捨て台詞のように告げると、鋭理は自分の机から鞄を手に取った。そのまま踵を返す。


 そこに立ち塞がったのは、航平だった。


「ほら見ろ、鋭理。俺が言ったとおりだろ。天宮と付き合ってたら、ろくなことにならない――」

「どいてくれ。今はお前の声なんて聞きたくない」

「なっ!? おい、せっかく声をかけてやったのに、それはないだろ!? 前みたいに話そうぜ、なあ!」


 ――誰のせいでこうなったと思っている!


 鋭理は苛立ちのまま、航平を押しのけた。ろくに鍛えていない彼はバランスを崩し、その場に尻餅をついた。

「いってぇ」と呟く航平を顧みることなく、鋭理は足早に教室を出た。


 イライラする。

 身体を動かさないと、落ち着かない。


 瑞穂学園のフロンティア棟では、各部活のためにトレーニングルームが開放されている。そこに足を向けようとして、やめた。


 今は誰とも顔を合わせたくない。


 鋭理は生徒たちの流れに逆らい、学校を出る。

 そして制服姿のまま、駅からバスに乗る。向かったのは空蝉の岩壁だった。

 以前、湊とともに難ルートを攻略した場所である。鋭理にとって、もっとも思い入れの深いポイントだった。


(なぜ、私は飛び出してしまったのだろう。これではミナトやコヨミたちから逃げているみたいじゃないか)


 バスに揺られながら、窓の外をぼんやり眺める。深緑の鮮やかさは、本来、鋭理の好む光景だった。しかし今は、少しも気持ちが盛り上がらない。


 鋭理は自分の首筋に指先を当て、脈を測る。いつもより少し速い。呼吸も浅くなっていることに気付く。なのに、胸の奥はひんやりと冷たい。

 明らかに、いつもと違う。身体が鋭理のものではなくなっているみたいだった。


 こういうとき、どうすればいいのか――鋭理は思いつかなかった。だから身体の赴くままに、ここまで来た。これは自分の身体が望んでいることだと、鋭理は思うことにした。


 ちらり、と疑念が頭をよぎる。

 この行動は、本当に私の身体が望んでいることなのか?

 むしろ、私の肉体は必死に拒否しているのではないか? だから鼓動は速く、呼吸は浅く、体表面は少し熱っぽいのでは。

 私は、私が一番大事にしてきた肉体感覚を無視しようとしている……?


(……集中できない。頭の中がぐちゃぐちゃだ)


 やがて、目的のバス停に到着する。

 心配げな運転手を無視し、鋭理は黙々と山道を歩き出した。


 登山靴を履いていない分、靴裏から直に凹凸を感じる。


「敢えて普通のシューズで歩くのもいいものだな。なあ、ミナト――」


 振り返る。当然、そこに親友の姿はない。


「何をやっているんだ、私は」


 それでも引き返すことなく、鋭理は歩き続けた。


 やがて、空蝉の岩壁にたどり着く。

 クライミングシューズは常に鞄の中に入れてある。鞄を置き、クライミングシューズを履いただけの状態で、鋭理は岩壁に取り付いた。

 ザイル無しでの危険なチャレンジ。鋭理は雑念を消せないまま、ひたすら上を目指す。


 途中、湊や暦深、福音の顔がちらついた。首を振って、彼らの顔を振り払う。


 やがて、途中の岩棚の上に到着した。

 いつもより腕に疲労が溜まるのが早い。わずかに震える指先が、「引き返せ」と告げているようだった。


「私は、間違ってない」


 自らに言い聞かせ、鋭理は岩壁に向き直る。

 目の前には『空蝉の爪痕』の巨大な割れ目が広がっている。


 迷いを振り払うように、岩に手を伸ばした。

 息苦しかった。肉体の苦痛が雑念を塗りつぶしてくれるだろうと信じて、鋭理は登って、登り続けた。


(極限まで肉体を追い込めば、雑念はきっと汗と一緒に排出される。もう一度、このルートを攻略できれば、私は私を取り戻せるはずだ。きっと……!)


 しかし、ルート攻略を成し遂げたあのときのような高揚感は、まったく湧いてこなかった。


 岩壁が、いつもより大きく感じる。


 ろくな準備もせず、支える人間もおらず、心に迷いを抱えたまま挑む鋭理に対し、岩壁は、無情な裁きを下した。


「しまっ――!?」


 ――滑落。


 数メートル下の岩棚に、鋭理は叩き付けられる。

 以前は湊が救ってくれた。だが、今回は誰もいない。


 全身を貫く痛みに、鋭理は動けない。

 致命傷は避けられた。意識はある。大きな出血もない。

 しかし。


(……足が)


 こんな有様では、とうてい自力での下山は不可能だ。

 滑落したとき、スマホもどこかに落としてしまったらしい。ポケットを探る手は虚しく空振りした。


 鋭理は、自分の愚かさに自嘲した。


(この痛みは、肉体感覚を無視した私の落ち度。こんな無様な姿をさらして、助けを呼ぶなんておこがましい。私は、私ひとりでこの苦痛を受け止めるべきだ。それが……肉体感覚を唯一の真実とする私のやるべきこと)


 痛みで逆に意識がはっきりする。

 すると、脳裏に湊の顔が浮かんできた。バスの中では頭の中がぐちゃぐちゃになっていたのに、今ははっきりと親友の顔が見える。


 鋭理は、無性に寂しくなった。

 うずくまったまま、目尻に涙を浮かべて、彼女は呟いた。


「ミナトぉ……」

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