第2話 「演技と本心の境界線」

1

 翌朝、蓮は いつもより早く目が覚めた。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋の中に薄明るい光が広がっている。時計を見ると、午前六時。まだアラームが鳴るまで三十分もある。

 蓮はベッドの中で天井を見つめた。

 昨日のことが夢だったのではないかという気がする。天海椿との会話。偽物の恋人になってもらう約束。全てが非現実的で、今朝になって改めて考えると、恥ずかしさで顔が熱くなる。

 スマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。

 椿との新しいトークルームがある。昨夜、彼女から送られてきたメッセージが表示されていた。

『明日から頑張ろうね! あ、そうだ。学校では普通に接した方がいいかな? それとも、もう恋人っぽく振る舞った方がいい?』

 蓮は昨夜、このメッセージに返信できなかった。どう答えればいいのかわからなかったからだ。

 だが、今は答えなければならない。

『おはよう。学校では、少しずつ仲良くなっていく感じでいこう。いきなり親密になると、周りに不自然に思われるかもしれないから』

 送信ボタンを押した直後、既読マークがついた。

 そして、すぐに返信が来た。

『おはよう! 早起きだね。了解、じゃあ自然な感じで行こう。今日の放課後、一緒に帰る?』

『うん、そうしよう』

『じゃあ、学校で!』

 メッセージの最後には、笑顔の絵文字がついていた。

 蓮はスマホを置いて、ベッドから起き上がった。窓を開けると、初夏の爽やかな風が部屋に流れ込んでくる。遠くで鳥のさえずりが聞こえ、新しい一日の始まりを告げている。

 シャワーを浴びて、制服に着替える。鏡の前に立ち、髪を整えながら、蓮は自分の顔を見つめた。

 いつもと同じ顔。だが、今日から自分は「恋人がいる人間」を演じなければならない。

「大丈夫かな……」

 蓮は小さく呟いた。

 不安と期待が入り混じった複雑な感情が、胸の中で渦巻いている。


2

 聖蹟学園の正門をくぐると、既に多くの生徒たちが登校していた。

 新緑の木々が朝日を浴びて輝き、校舎の窓ガラスがキラキラと光を反射している。空気は清々しく、若者たちの活気に満ちた声が響く。

 蓮は昇降口で靴を履き替え、二階の教室に向かった。

 廊下を歩きながら、彼は無意識に椿の姿を探していた。だが、まだ彼女の姿は見えない。

 二年A組の教室に入ると、颯太が既に席についていた。

「おう、蓮。おはよう」

「おはよう」

 蓮は自分の席に座った。颯太は何か言いたげな表情で蓮を見ている。

「なんだよ」

「いや、お前さ、昨日天海さんとカフェにいたって聞いたんだけど」

「え……誰から?」

「美桜から。美桜があのカフェの近くにいたらしくて、お前らを見かけたって」

 蓮は焦った。まさか、誰かに見られているとは思わなかった。

「あ、ああ……ちょっと相談事があって」

「相談事?」颯太は興味津々という表情で身を乗り出した。「まさか、お前、天海さんに偽物の恋人を頼んだのか?」

「し、声が大きい!」

 蓮は慌てて颯太の口を手で塞いだ。幸い、周りの生徒たちは自分たちの会話に夢中で、こちらには注意を向けていない。

「マジかよ……」颯太は呆れた顔で言った。「で、天海さん、引き受けてくれたの?」

「う、うん……」

「すげえな、お前。よく頼めたな」

「いや、もう必死だったから……」

 その時、教室のドアが開いて、椿が入ってきた。

 彼女はいつもと同じように、友人たちと笑いながら教室に入ってきた。だが、蓮と目が合うと、一瞬だけウインクをした。

 蓮の心臓が跳ね上がった。

「おお、天海さんからウインクされてるぞ」颯太が囁いた。「もう始まってんじゃん、恋人ごっこ」

「黙ってろよ……」

 蓮は頬が熱くなるのを感じた。

 椿は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出している。その仕草は普段と変わらない。だが、時々、蓮の方をチラッと見ては、小さく笑っている。

 一時間目の授業が始まった。

 国語の授業だ。教師が現代文の教科書を開き、夏目漱石の小説について解説を始める。蓮はノートを開いたが、教師の言葉はほとんど頭に入ってこなかった。

 椿が三列隣の席に座っている。

 彼女は真剣な表情で授業を聞き、時々ノートにメモを取っている。その横顔は、昨日カフェで見た笑顔とは違う、真面目な学生の顔だ。

 蓮は、椿のことをほとんど知らないことに気づいた。

 同じクラスで一年以上過ごしているのに、彼女がどんな人間なのか、何が好きで何が嫌いなのか、何も知らない。

 これから一週間、彼女と「恋人」を演じなければならない。

 ならば、もっと彼女のことを知る必要がある。

 蓮はノートの隅に、小さく書き込んだ。

『天海椿について知っていること』

 好きな作家:桜月(自分)

 家庭環境:母子家庭、経済的に厳しい

 性格:明るく気さくだが、時々寂しそうな表情を見せる

 それだけだった。

 蓮は溜息をつき、ペンを置いた。


3

 昼休み。

 蓮は颯太と一緒に、購買でパンを買って教室に戻ろうとしていた。廊下には生徒たちが溢れ、活気に満ちた話し声が響いている。

「蓮ー!」

 突然、後ろから声をかけられた。

 振り返ると、椿が小走りで近づいてきた。手には購買で買ったらしい、サンドイッチとオレンジジュースが入った袋を持っている。

「あ、天海さん」

「ねえねえ、一緒にお昼食べない?」椿は明るく言った。「せっかくだし、もっと仲良くならなきゃでしょ?」

 颯太は面白そうに蓮を見ている。

「い、いいけど……どこで食べる?」

「屋上とか? 今日、天気いいし」

「屋上、いいね」颯太が口を挟んだ。「俺も行っていい?」

「もちろん!」椿は笑った。「相良くんも一緒の方が、自然だよね」

 三人は屋上に向かった。

 聖蹟学園の屋上は、生徒たちに開放されている。フェンスで囲まれた広いスペースで、ベンチがいくつか置かれている。そこからは、東京の街並みが一望できた。

 新緑の木々の向こうに、高層ビルが立ち並んでいる。空は青く澄み渡り、白い雲がゆっくりと流れていく。風が心地よく吹き、制服のブレザーを軽く揺らした。

 三人はベンチに座った。椿は蓮の隣、颯太は向かい側のベンチに座る。

「いやー、いい天気だね」颯太はパンの袋を開けながら言った。「こういう日は外で食べるに限る」

「うん、気持ちいい」椿もサンドイッチを取り出した。「ねえ、桜庭くん、何買ったの?」

「焼きそばパン」

「わあ、美味しそう」椿は目を輝かせた。「一口ちょうだい」

「え……」

 蓮は戸惑った。だが、椿は既に手を伸ばしている。

「ほら、恋人同士だったら、こういうのするでしょ?」椿は小声で囁いた。

 確かに、その通りだ。

 蓮は焼きそばパンを半分に割って、椿に渡した。

「ありがとう!」椿は嬉しそうに受け取り、一口食べた。「うん、美味しい!」

 颯太はその様子を、ニヤニヤしながら見ている。

「お前ら、もう完全にカップルじゃん」

「ま、まあね」蓮は照れくさそうに言った。

 椿はオレンジジュースを開けて、一口飲んだ。その時、風が吹いて、彼女の髪が揺れた。太陽の光を浴びて、茶色い髪がキラキラと輝く。

「そういえばさ」椿は蓮の方を向いた。「桜庭くんの家族って、どんな人たち? 食事会で会うんだから、事前に知っておきたいんだけど」

「ああ、そうだね」

 蓮は母と父のことを説明し始めた。

 母・理沙は優しいが、時に過保護なところがある。息子の将来を心配するあまり、あれこれ口を出してくる。父・健太郎は温厚で、あまり怒らない。だが、仕事に関しては真面目で、会社のことを第一に考えている。

「お母さん、厳しそうだね」椿は少し不安そうに言った。

「大丈夫。優しい人だから」蓮は安心させるように言った。「ただ、ちょっと質問が多いかもしれない」

「質問……」

「うん。例えば、僕たちがどこで出会ったかとか、初デートはどこだったかとか」

「それなら大丈夫」椿は自信ありげに笑った。「昨日、ちゃんと設定決めたもんね」

 颯太は二人の会話を聞きながら、感心したように頷いていた。

「しかし、お前ら本当によく考えてるな。俺だったら、絶対ボロが出る自信ある」

「ボロを出さないように、これから練習するんだよ」椿は言った。「ね、桜庭くん」

「う、うん」

 椿は蓮の肩に軽くもたれかかった。

 突然の接触に、蓮の体が硬直する。椿の髪から、柔らかいシャンプーの香りが漂ってきた。フローラルな香り。心地よくて、少し甘い。

「こういうのも練習しとかなきゃね」椿は小声で囁いた。「恋人同士だったら、自然にできないとおかしいでしょ?」

「そ、そうだね……」

 蓮の心臓が早鐘を打っている。

 これは演技だ。ただの練習だ。

 そう自分に言い聞かせても、体は正直に反応してしまう。

「お前、顔真っ赤だぞ」颯太が笑った。

「う、うるさい……」

 椿はクスクスと笑いながら、蓮から離れた。

「ごめんごめん、からかいすぎた」

 だが、彼女の頬も、少し赤くなっているように見えた。


4

 午後の授業が終わり、放課後になった。

 蓮は教室で椿を待っていた。颯太は野球部の練習があるため、先に帰っている。

 椿は友人たちと話し終えると、蓮の席にやってきた。

「お待たせ。帰ろうか」

「うん」

 二人は教室を出て、廊下を歩いた。

 窓から差し込む西日が、廊下を黄金色に染めている。生徒たちはまだ教室に残っていたり、部活に向かったりと、様々だ。

 昇降口で靴を履き替え、正門を出る。

「どこ行く?」椿が尋ねた。

「駅前のカフェでいい? 昨日と同じところ」

「うん、いいよ」

 二人は並んで歩いた。

 最初は少し距離があったが、椿が自然に蓮に近づいてきた。肩が触れるか触れないかくらいの距離。

「ねえ、桜庭くん」椿が話しかけた。「普段、放課後は何してるの?」

「図書館で本を読んだり……あとは、家で……」

 蓮は「小説を書いている」と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。

「家で?」

「勉強とか……」

「真面目だね」椿は笑った。「私、バイトがない日は、図書館で本読んでることが多いかな。特に最近は、桜月さんの新作が更新されるの待ってて」

 蓮の胸がチクリと痛んだ。

 実は、最近更新が滞っている。見合いの話や、椿との偽装恋人の件で頭がいっぱいで、小説を書く余裕がなかった。

「その、桜月さんって、どんな作品を書いてるの?」

「恋愛小説だよ」椿は目を輝かせた。「でもね、ただの恋愛小説じゃないの。登場人物の内面がすごく丁寧に描かれてて、読んでると、まるで自分がその人になったみたいな気分になるんだよね」

「へえ……」

「特に好きなのが、『偽りの距離』っていう作品」椿は嬉しそうに語り続けた。「これは、偽装カップルから始まる恋愛の話なんだけど……あ、今の私たちみたいだね」

 蓮は思わず足を止めた。

「偽装カップル……」

「そう! 主人公の男の子が、ある事情で女の子に偽物の恋人を頼むの。最初は演技だったんだけど、だんだん本当の感情が芽生えてきて……」

 椿は気づいていない。

 その作品を書いたのは、目の前にいる蓮本人だということに。

 そして、その物語が、今まさに現実で起きていることに。

「面白そうだね」蓮は努めて平静を装った。

「うん! 桜庭くんも絶対読んだ方がいいよ。参考になるかも」

「参考……」

「だって、私たちも偽装カップルでしょ? どうやって演じればいいか、ヒントがあるかも」

 蓮は複雑な気持ちで椿を見た。

 彼女は無邪気に笑っている。まさか、自分が今話している相手が、その作家本人だとは夢にも思っていないだろう。

 カフェ「コーヒーブレイク」に到着した。

 ドアを開けると、いつもの芳ばしいコーヒーの香りが出迎えてくれた。店内には、学生や社会人が数人いたが、まだ席には余裕がある。

 二人は昨日と同じ、窓際の席に座った。

 椿はまたアイスコーヒーを、蓮はホットコーヒーを注文した。

「それで、具体的にどんな練習する?」椿はストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら尋ねた。

「そうだな……まず、お互いのことをもっと知る必要があると思う」

「私のこと?」

「うん。母さんは絶対、色々質問してくると思うから。天海さんの好きなものとか、趣味とか、将来の夢とか……」

「なるほどね」椿は少し考えた。「じゃあ、質問してみて。私、答えるから」

 蓮は少し緊張しながら口を開いた。

「好きな食べ物は?」

「オムライス! 特にチーズが入ってるやつ」

「嫌いな食べ物は?」

「ピーマン。子供っぽいけど、どうしても苦手」

「趣味は?」

「読書と、料理かな。料理は、お母さんが夜勤の時、自分で作らなきゃいけないから始めたんだけど、今は結構好き」

「将来の夢は?」

 椿は少し表情を曇らせた。

「夢、か……」

 彼女はカップを両手で包み込んだ。

「正直、まだはっきりとは決まってないんだよね。でも、お母さんを楽にしてあげたい。今、お母さん、夜勤ばっかりで体壊しそうなんだ」

 椿の声に、少し寂しさが混じっていた。

 蓮は、初めて彼女の別の一面を見た気がした。

 いつも明るく笑っている椿。だが、その笑顔の裏には、彼女なりの悩みや苦労があるのだろう。

「お母さん、看護師なんだよね」蓮は優しく言った。

「うん。病院で働いてる。すごく頑張ってくれてるから、私も頑張らなきゃって思うんだ」

「偉いね、天海さん」

「別に偉くなんかないよ」椿は照れくさそうに笑った。「当たり前のことしてるだけ」

 蓮は、椿の強さに感心した。

 彼女は、自分よりもずっと大人なのかもしれない。

「じゃあ、今度は私が質問する番ね」椿は身を乗り出した。「桜庭くんの好きなものは?」

「本、かな。特に小説」

「やっぱり! どんなジャンルが好き?」

「色々読むけど……恋愛小説が好きかも」

「え、意外!」椿は驚いた表情を見せた。「男の子で恋愛小説好きって珍しいよね」

「そうかな……」

「でも、素敵だと思う」椿は笑った。「恋愛小説って、人の心の動きを理解するのに役立つよね」

 蓮は頷いた。

 確かに、彼が小説を書き始めたのも、人の心を理解したかったからだ。自分は他人の期待に応えようとするあまり、自分の気持ちがわからなくなることがある。だから、小説の中で、登場人物の感情を丁寧に描くことで、自分自身を理解しようとしていた。

「桜庭くん」

「ん?」

「もしかして、小説書いたりしてる?」

 蓮の心臓が跳ね上がった。

「な、なんで?」

「だって、すごく詳しそうだし。それに、図書館でノートパソコン開いてたでしょ?」

「あれは……」

 蓮は言葉に詰まった。

 椿は興味津々という表情で蓮を見つめている。その視線から逃れるように、蓮はコーヒーカップに目を落とした。

「もし書いてるなら、読んでみたいな」椿は言った。「桜庭くんが書く小説、きっと面白いと思う」

「そ、そんなことないよ……」

「謙遜しないで。私、本当に読みたいんだ」

 椿の言葉に、蓮の胸が温かくなった。

 彼女は、自分が「桜月」だと知らない。だが、もし知ったら、どんな反応をするだろうか。

 喜ぶだろうか。

 それとも、騙されていたと怒るだろうか。

 蓮は、その答えを知るのが怖かった。


5

 カフェを出て、駅前の広場を歩いていると、椿が突然立ち止まった。

「ねえ、あそこ」

 彼女が指差した先には、小さなアクセサリーショップがあった。ウィンドウには、色とりどりのブレスレットやネックレスが飾られている。

「可愛い……」椿は目を輝かせた。

「見に行く?」

「いいの?」

「うん、時間あるし」

 二人は店に入った。

 店内は小さいが、壁一面にアクセサリーが並んでいる。キラキラと光を反射するネックレス、カラフルなブレスレット、小さなピアス。どれも手頃な価格で、学生でも手が届きそうだ。

 椿は一つ一つ丁寧に見ながら、楽しそうに歩いている。

「これ、可愛い」

 彼女が手に取ったのは、小さな桜の花がモチーフになったブレスレットだった。淡いピンク色の花びらが、細い銀のチェーンに吊り下げられている。

「似合いそうだね」蓮は言った。

「でも、ちょっと高いかな……」

 椿は値札を見て、少し躊躇した表情を見せた。千五百円。決して高い金額ではないが、彼女にとっては贅沢品なのかもしれない。

「買えばいいのに」

「ううん、今はいいや。また今度」

 椿はブレスレットを棚に戻した。

 蓮は、その様子を見ながら、胸が少し痛んだ。

 椿は、自分のためにお金を使うことを躊躇っている。きっと、家計のことを考えているのだろう。

 店を出た後、蓮は心の中で決めた。

 今度、あのブレスレットを買ってプレゼントしよう。偽装恋人のお礼として。

「そろそろ帰ろっか」椿は言った。「お母さん、今日早番だから、夕飯作らなきゃ」

「そっか。じゃあ、駅まで送るよ」

「ありがとう」

 駅までの道を、二人は並んで歩いた。

 夕暮れ時の空は、オレンジ色に染まり始めている。街灯が一つずつ灯り始め、商店街の明かりが通りを照らす。

「今日、楽しかったね」椿が言った。

「うん」

「なんか、本当に恋人同士みたいだった」

 椿は少し照れくさそうに笑った。

 蓮も同じことを思っていた。

 今日一日、椿と過ごして、彼女のことを少しだけ知ることができた。好きなもの、趣味、家族のこと。そして、彼女の強さと優しさ。

 これは演技だ。

 だが、演技だからこそ、逆に本当の自分を出せているような気もする。

 駅の改札前で、二人は立ち止まった。

「じゃあ、また明日」椿は笑顔で言った。

「うん。気をつけて帰って」

「桜庭くんも」

 椿は改札を通り、ホームへと向かった。その後ろ姿を見送りながら、蓮はスマホを取り出した。

 メモアプリを開き、今日学んだことを書き込む。

『天海椿について』


好きな食べ物:オムライス(チーズ入り)

嫌いな食べ物:ピーマン

趣味:読書、料理

家族:母親(看護師、夜勤が多い)

将来:母親を楽にしてあげたい

欲しいもの:桜のブレスレット


 書き終えて、蓮はふと思った。

 これは、小説のキャラクター設定のメモに似ている。

 だが、椿は小説の登場人物ではない。

 彼女は現実の人間だ。

 そして、蓮は少しずつ、その現実の彼女に惹かれ始めていた。


6

 帰宅すると、母がリビングにいた。

「お帰りなさい、蓮。今日は遅かったわね」

「うん、ちょっと友達と……」

「そう」理沙は優しく微笑んだ。「そういえば、週末の食事会のことだけど、場所は銀座のフレンチレストランに決まったわ。氷室さんたちもいらっしゃるから、きちんとした格好で来てね」

「うん、わかった」

「それと」理沙は少し改まった表情で言った。「あなたの恋人の方も、ちゃんとドレスコードに合う服装で来るように伝えておいてね」

「え……」

 蓮は冷や汗をかいた。

 ドレスコード。そんなこと、椿に伝えていなかった。

「大丈夫、心配しないで」理沙は息子の表情を見て、安心させるように言った。「そんなに堅苦しい場所じゃないから。でも、ジーンズとかスニーカーはNGよ」

「わかった……」

 蓮は自分の部T続ける屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 銀座のフレンチレストラン。ドレスコード。氷室一家。

 状況は、思っていたよりもずっと本格的になってきている。

 スマホを取り出し、椿にメッセージを送った。

『お疲れ様。今日はありがとう。ところで、週末の食事会なんだけど、銀座のフレンチレストランらしい。ドレスコードがあるみたいで、ワンピースとか、きちんとした服装で来てほしいって母さんが……』

 送信してから、蓮は不安になった。

 椿は、そんな服を持っているだろうか。もし持っていなかったら、買わなければならない。だが、彼女の経済状況を考えると、それは大きな負担になるかもしれない。

 しばらくして、椿から返信が来た。

『了解! ワンピース、持ってるから大丈夫。頑張るね』

 蓮は少しホッとした。

 だが、同時に、申し訳なさも感じていた。

 椿は、自分のために時間とお金を使ってくれている。一万円のバイト代だけで、それが釣り合うのだろうか。

 蓮はベッドから起き上がり、机の前に座った。

 ノートパソコンを開き、小説投稿サイトにログインする。

 自分のアカウント「桜月」のページが表示された。最新作『偽りの距離』は、一ヶ月近く更新が止まっている。読者からのコメントには、「続きが気になります」「更新待ってます」という言葉が並んでいた。

 その中に、椿のコメントもあった。

『いつも楽しみに読んでいます。主人公たちの関係が、どう変わっていくのか、とても気になります。更新を楽しみに待っています!』

 蓮は、胸が締め付けられるような気持ちになった。

 椿は、自分の小説を愛してくれている。

 だが、自分は彼女に嘘をついている。

 作家としても、偽装恋人としても。

 蓮は、新しいドキュメントを開いた。

 そして、キーボードに指を置く。

『第十話 演技と本心の境界線』

 タイトルを打ち込んだ瞬間、蓮の指が止まった。

 今、自分が体験していることと、小説の中の出来事が重なっている。

 偽装カップル。だんだん芽生える本当の感情。

 これは、小説の続きなのか。

 それとも、現実なのか。

 蓮は、その境界線が曖昧になっていくのを感じていた。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 椿と過ごす時間は、演技だけではない何かが混じり始めている。

 そして、それが何なのか。

 蓮はまだ、名前をつけることができなかった。


第2章 完

(次章へ続く――学園祭の準備が始まり、椿と蓮の距離は更に縮まっていく。だが、そこに現れる氷室綾音の存在が、物語を新たな方向へと動かし始める……)

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