【10話で完結シリーズ】嘘と恋は物語のそとで

@ntm_lit

第1話 「偽りの始まり」

1

 五月の午後、聖蹟学園(せいせきがくえん)の赤レンガ校舎は新緑の木漏れ日を浴びて、まるで古い絵葉書のように穏やかな表情を見せていた。校庭の桜並木はすでに葉桜となり、風が吹くたびに若葉が擦れ合う音が心地よく響く。その音に混じって、遠くの体育館からバスケットボール部の掛け声が聞こえてくる。

 二年A組の教室では、放課後の掃除当番が終わり、ほとんどの生徒が帰宅の途についていた。窓から差し込む西日が教室の床に長い影を落とし、チョークの粉が舞う空気には、まだ午後の授業の熱気が残っている。

 桜庭蓮(さくらば れん)は自分の席で、スマートフォンの画面を呆然と見つめていた。

 母からのメッセージだった。

『今晩、大事な話があります。必ず六時までに帰ってきてください』

 蓮は溜息をつき、指先でスマホの画面をなぞった。「大事な話」という言葉の裏に隠された意味を、彼は既に察していた。先週、父と母が妙に改まった様子でリビングに座っていた光景が脳裏をよぎる。

「おい、蓮。まだいたのか」

 明るい声が聞こえて、蓮は顔を上げた。教室の入り口に立っているのは、親友の相良颯太(さがら そうた)だ。颯太は野球部のユニフォーム姿で、汗を拭いながら教室に入ってきた。汗の匂いと、その下に混じる石鹸の香りが風に乗って届く。

「あ、颯太。練習終わったのか」

「ああ。お前こそ、まだ帰らないのか? 随分難しい顔してるけど」

 颯太は蓮の隣の席に腰掛け、制汗スプレーを首筋に吹きかけた。シューッという音と共に、爽やかなミントの香りが広がる。

「実は……」

 蓮は言葉を詰まらせた。颯太は中学からの付き合いで、何でも話せる親友だ。だが、今回ばかりは、どう切り出していいかわからない。

「母さんから連絡が来て、今晩『大事な話』があるんだと」

「大事な話?」颯太は首を傾げた。「それって、もしかして……」

「多分、見合いの話だと思う」

 蓮がそう言うと、颯太は目を見開いた。

「マジか! お前、まだ十七だろ?」

「親父の会社の取引先の娘さんらしい。先週、母さんたちがそれらしい話をしてたのを聞いちゃったんだ」

 蓮は机の上に肘をついて、額を手のひらで覆った。教室の時計の秒針が、規則正しく時を刻む音だけが響く。

「断ればいいじゃん」颯太は肩をすくめた。「お前、優しすぎるんだよ。親の言いなりになる必要ないって」

「わかってる。わかってるんだけど……」

 蓮は言葉を濁した。

 確かに、断ればいい。だが、彼の両親――特に母親は、息子の将来を心配するあまり、時に過保護なほど口を出してくる。父の会社は中堅企業とはいえ、代々続く老舗だ。「良い縁談」という言葉には、単なる結婚以上の重みがある。

 それに、蓮には決定的な弱点があった。

 彼は、人の期待を裏切ることが苦手なのだ。

「でもさ、お前、好きな人とかいないの?」颯太は興味津々という顔で覗き込んできた。「見合いなんてされる前に、恋人作っちゃえばいいじゃん」

「そんな簡単に言うなよ……」

 蓮は苦笑した。恋人。そんな存在がいれば、確かに見合い話も断りやすいだろう。だが、現実はそう簡単ではない。

「まあ、頑張れよ」颯太は蓮の肩を叩いて立ち上がった。「俺、これから美桜(みお)に呼び出されてんだ。じゃあな」

「美桜に? 白石さんに?」

「ああ。なんか相談事があるらしくて」

 颯太は照れくさそうに頭を掻きながら教室を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、蓮は小さく溜息をついた。

 颯太と白石美桜(しらいし みお)は、最近よく二人で話しているのを見かける。颯太は気づいていないようだが、美桜の視線には明らかに恋心が滲んでいる。

「いいよな、素直に気持ちを伝えられる人は……」

 蓮は呟いて、再びスマホの画面に目を落とした。


2

 桜庭家は、聖蹟学園から電車で三十分ほどの高級住宅街にある。蓮が玄関のドアを開けると、夕食の支度をする匂いが漂ってきた。醤油と出汁の香ばしい香り。母の得意料理、肉じゃがの匂いだ。

「お帰りなさい、蓮」

 リビングから母、理沙(りさ)の声が聞こえた。

「ただいま」

 蓮は靴を脱ぎ、リビングに向かった。

 理沙は五十代前半だが、丁寧な生活のおかげで実年齢より若く見える。今日はベージュのカーディガンに白いブラウス、落ち着いた雰囲気の装いだ。彼女はソファに座り、膝の上に何かの書類を広げていた。

「お母さん、その書類……」

「ああ、これはね」理沙は柔らかく微笑んだ。「お父さんが帰ってきたら、一緒にお話ししましょう」

 蓮の胸に嫌な予感が広がる。

 それから一時間後、父の健太郎(けんたろう)が帰宅した。健太郎は中肉中背の温厚な男性で、いつも穏やかな笑顔を絶やさない。だが今日は、どこか決意を固めたような真剣な表情をしていた。

 三人はダイニングテーブルを囲んで座った。

「蓮」健太郎が口を開いた。「実は、お前に良い話があるんだ」

「良い話……」

「氷室(ひむろ)グループの氷室社長の娘さん、綾音(あやね)さんという方なんだが、お前と同い年でね。とても聡明な方だと聞いている」

 健太郎は書類を蓮の前に置いた。そこには、整った顔立ちの少女の写真が添付されていた。長い黒髪、切れ長の瞳、どこか近寄りがたい雰囲気を纏った美少女だ。

「氷室グループと我が社は、長年良好な関係を築いてきた。今回、先方から縁談の話をいただいてね。お前と綾音さんを引き合わせたいとおっしゃっているんだ」

「でも、父さん。僕はまだ高校生で……」

「もちろん、すぐに結婚という話ではない」理沙が優しく言った。「でも、これから先のことを考えて、良いご縁があるなら、早めに知り合っておくのも悪くないんじゃないかしら」

 蓮は写真を見つめた。

 氷室綾音。確かに美しい少女だ。だが、この写真からは人間らしい温もりが感じられない。まるで、完璧に作られた人形のような印象を受ける。

「僕は……」

 蓮は言葉に詰まった。断りたい。だが、両親の期待に満ちた眼差しを前にすると、どうしても言葉が出てこない。

「とりあえず、来週末に食事会を設けることになっている」健太郎は続けた。「お前も同席してくれないか」

 蓮の頭の中で、颯太の言葉が響いた。

『恋人作っちゃえばいいじゃん』

 そうだ。もし恋人がいれば、この話を断る理由になる。

 だが、蓮には恋人などいない。

 その時、蓮の中で何かが弾けた。

「あの、父さん、母さん」蓮は思わず立ち上がった。「実は……僕、既に付き合っている人がいるんだ」

 リビングに沈黙が落ちた。

 理沙と健太郎は、驚いた表情で蓮を見つめている。

「え……本当なの、蓮?」理沙が戸惑いながら尋ねた。

「う、うん。だから、見合いの話は……」

「どんな方なの? どこで知り合ったの?」

 理沙は矢継ぎ早に質問してくる。蓮は頭の中が真っ白になった。嘘をついてしまった。今更引き返せない。だが、どう答えればいいのか。

「そ、そのことはまた今度……」

「じゃあ、来週末の食事会に連れてきてくれないかしら」理沙は真剣な表情で言った。「氷室さんにもお断りの理由を説明しなければならないし、何より、お母さんたちも気になるわ」

「え……」

「お父さんもそう思うでしょう?」

「ああ、そうだな」健太郎も頷いた。「蓮が真剣に付き合っている方なら、ぜひ会ってみたい」

 蓮は絶句した。

 嘘をついたことで、状況は更に悪化してしまった。来週末までに、「恋人」を用意しなければならない。

 だが、そんな相手がいるはずもない。


3

 翌日、蓮は憂鬱な気分で登校した。

 昨晩は一睡もできなかった。頭の中で、どうやってこの状況を切り抜けるか、何度もシミュレーションを繰り返した。だが、良い案は浮かばない。

 教室に入ると、颯太が既に席についていた。

「おう、蓮。顔色悪いぞ。昨日の話、どうなったんだ?」

「最悪だよ……」

 蓮は状況を説明した。颯太は目を丸くして聞いていたが、やがて大きく溜息をついた。

「お前、馬鹿だろ。なんで嘘ついちゃうかな」

「わかってるよ……でも、あの場では他に方法が思いつかなくて」

「で、どうすんの? 来週末までに恋人を作るの?」

「作れるわけないだろ」蓮は頭を抱えた。「一週間で恋人なんて……」

「じゃあ、嘘でしたって正直に言えば?」

「それができれば苦労しないよ。あの後、母さん、すごく嬉しそうだったんだ。『蓮が自分で恋人を作るなんて、成長したわね』って……」

 蓮は机に突っ伏した。

 その時、教室のドアが開いて、数人の女子生徒が入ってきた。その中に、天海椿(あまみ つばき)の姿があった。

 椿は肩までの茶色い髪を後ろで一つに結び、すっきりとした顔立ちを見せていた。制服のブレザーを軽く着こなし、快活な雰囲気を纏っている。彼女は友人たちと笑いながら話していたが、ふと蓮の方を見た。

 目が合った。

 椿はにっこりと笑って軽く手を振った。蓮も反射的に手を振り返す。

 椿とは、クラスメイトとしては普通に話す仲だ。明るくて気さくな性格で、誰とでも分け隔てなく接する。だが、それ以上の関係ではない。

「なあ、颯太」蓮はふと思いついた。「もし、誰かに偽物の恋人を頼むとしたら、どうすればいいかな」

「は? 偽物の恋人?」

「そう。来週末だけ、僕の恋人のフリをしてくれる人」

 颯太は呆れた顔で蓮を見た。

「お前、本気で言ってんの? そんなの、断られるに決まってるだろ」

「でも、他に方法がないんだ。お金を払ってもいい。バイト代として……」

「バイト代って……お前、それ、どう考えてもヤバイだろ」

 颯太の言う通りだ。だが、蓮には選択肢がない。

 その日の午後、蓮は図書館に向かった。

 聖蹟学園の図書館は、校舎の奥にある古い建物だ。赤レンガ造りの外観は歴史を感じさせ、中に入ると古い本特有の紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。天井は高く、大きな窓から差し込む光が木製の書架を照らしている。

 蓮はここで、よく小説を書いていた。

 彼は匿名で、ネット上の小説投稿サイトに作品を発表している。ペンネームは「桜月」。恋愛小説を中心に書いており、少数ながら熱心な読者がついていた。

 図書館の奥の席に座り、ノートパソコンを開く。だが今日は、文章が一文字も書けなかった。頭の中は、来週末のことでいっぱいだ。

「はあ……」

 蓮は深く溜息をついた。

「あれ、桜庭くん?」

 突然、声をかけられて蓮は顔を上げた。

 そこに立っていたのは、天海椿だった。彼女は図書館の本を数冊抱えて、不思議そうに蓮を見ている。

「天海さん……」

「珍しいね、図書館で会うなんて。桜庭くん、本読むの好きなんだ?」

「あ、ああ。まあ、そんな感じ」

 蓮は慌ててノートパソコンの画面を閉じた。小説を書いていることは、誰にも話していない秘密だ。

「私も本好きなんだよね」椿は嬉しそうに笑った。「特に、最近ハマってるのがあってさ。『桜月』って作家さん、知ってる?」

 蓮の心臓が跳ね上がった。

「さ、桜月……?」

「そう! ネットで小説書いてる人なんだけど、すごく良いの。特に、恋愛の描写が繊細で……」

 椿は目を輝かせながら話し続けた。蓮は、自分の作品について語る彼女を、複雑な心境で見つめていた。

 まさか、椿が自分の小説の読者だったとは。

「あ、ごめん。つい熱くなっちゃった」椿は照れくさそうに笑った。「桜庭くんも読んでみて。きっと好きになると思うよ」

「う、うん。ありがとう」

 椿は本を借りて、図書館を出て行こうとした。

 その背中を見ながら、蓮の頭に突拍子もないアイデアが浮かんだ。

 天海椿。

 彼女なら、もしかして……。

「あの、天海さん!」

 蓮は思わず立ち上がって声をかけた。椿は振り返り、首を傾げた。

「なに?」

「その……ちょっと、相談したいことがあるんだけど」

「相談?」

 蓮は深呼吸をした。心臓が激しく鼓動している。

「もし良かったら、放課後、駅前のカフェで話せないかな」

 椿は驚いた表情を浮かべた。だが、すぐに笑顔を見せた。

「いいよ。私、今日バイト休みだし」

「ありがとう」

 蓮は安堵の息をついた。

 これで、少なくとも話を聞いてもらえる。あとは、どう説明するか。そして、どうやって彼女を説得するか。

 蓮は図書館の窓から外を見た。空は青く澄み渡り、若葉が風に揺れている。だが彼の心は、嵐の前の静けさに似た不安で満たされていた。


4

 放課後、蓮と椿は駅前のカフェ「コーヒーブレイク」に向かった。

 このカフェは、聖蹟学園の生徒たちに人気のスポットだ。小さな店だが、温かみのある木製のテーブルと椅子、壁には絵画が飾られ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。入り口のドアを開けると、コーヒー豆を挽く音と、芳ばしい香りが出迎えてくれる。

 二人は窓際の席に座った。椿はアイスコーヒーを、蓮はホットコーヒーを注文した。

「それで、相談って何?」椿は明るい声で尋ねた。「桜庭くんから相談されるなんて珍しいよね」

 蓮はカップを両手で包み込んだ。温かさが手のひらに伝わる。

「その……実は、困ったことになってて」

「困ったこと?」

 蓮は意を決して、昨晩からの出来事を説明し始めた。見合いの話。咄嗟についた嘘。来週末までに「恋人」を連れてこなければならないこと。

 椿は黙って聞いていたが、話が進むにつれて、表情が変わっていった。驚き、困惑、そして……少しの同情。

「つまり」椿はストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら言った。「桜庭くんは、偽物の恋人を探してるってこと?」

「……そうなんだ」

 蓮は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。改めて口にすると、自分がどれだけ馬鹿げたことを頼もうとしているのか実感する。

「で、私に頼もうとしてるの?」

「う、うん。もちろん、お金は払う。バイト代として……」

 椿は蓮をじっと見つめた。その視線に、蓮は思わず目を逸らした。

 沈黙が流れる。

 カフェの中では、他の客たちの話し声や、コーヒーカップの音が響いている。だが、二人の間には重苦しい空気が漂っていた。

「断られても仕方ないよね」蓮は小さく呟いた。「ごめん、変なこと頼んで……」

「待って」

 椿が口を開いた。

「条件を聞かせて。いくら払ってくれるの?」

 蓮は顔を上げた。椿は真剣な表情で彼を見つめている。

「え……その、一日一万円くらいで……」

「一日?」

「う、うん。来週末の食事会だけだから、多分数時間だと思う」

 椿は少し考え込んだ。指先でテーブルを軽く叩きながら、何かを計算しているようだ。

「私、今、飲食店でバイトしてるんだけど」椿はゆっくりと話し始めた。「時給千円で、週に三回、一回四時間くらい。それでも、学費の足しにするには全然足りなくて」

「学費……」

「うん。私、奨学金で学校通ってるから」椿は少し恥ずかしそうに笑った。「だから、正直、一万円は魅力的なんだよね」

 蓮は椿の家庭環境について、あまり知らなかった。だが、彼女が母子家庭で、経済的に苦労していることは、クラスの噂で何となく聞いていた。

「でも」椿は続けた。「ただお金のためだけに、こんなこと引き受けるのも嫌だし……」

「そうだよね。ごめん、変なこと言って」

「待ってって」椿は手を上げた。「もう一つ条件がある」

「条件?」

「私、桜庭くんに頼みたいことがあるの」

 椿は少し照れくさそうに視線を逸らした。

「私さ、『桜月』さんの小説が大好きなんだよね。でも、あの人、ネット上でも全然素性を明かさないし、連絡も取れない。もし、桜庭くんが『桜月』さんと連絡が取れる方法を知ってたら、教えてほしいの」

 蓮は息を呑んだ。

 まさか、そんな条件を出されるとは。

「ど、どうして僕が……」

「だって、桜庭くん、文章書くの好きそうじゃん」椿は笑った。「図書館でノートパソコン広げてたし。もしかして、同じ小説投稿サイト使ってたりしない?」

「それは……」

 蓮は言葉に詰まった。

 椿の推測は、半分当たっている。いや、完全に当たっている。だが、自分が「桜月」本人だとは、とても言えない。

「まあ、無理ならいいんだけどさ」椿は肩をすくめた。「とりあえく、偽物の恋人の件、引き受けるよ」

「本当に!?」

「うん。面白そうだし、一万円も魅力的だし」椿はニコッと笑った。「それに、桜庭くん、困ってるみたいだしね」

 蓮は安堵と罪悪感が入り混じった複雑な感情に襲われた。

「ありがとう、天海さん。本当に助かる」

「じゃあ、細かい打ち合わせしよっか」椿はスマホを取り出した。「まず、私たちがどこで知り合ったことにするか、とか」

「あ、ああ。そうだね」

 二人は具体的な設定を決め始めた。

 出会いは図書館。付き合い始めたのは二ヶ月前。初デートは映画館。椿が好きな食べ物はオムライス。蓮が好きな本のジャンルは推理小説……。

 設定を詰めていくうちに、だんだんと緊張が解けてきた。椿は意外と演技が上手そうで、細かい設定にも積極的にアイデアを出してくれる。

「じゃあ、来週末まで、できるだけ一緒にいる練習した方がいいよね」椿は提案した。「急に食事会で仲良しカップルを演じても、ボロが出ちゃうし」

「そうだね。じゃあ、明日から放課後、一緒に過ごす?」

「うん! 楽しみ」

 椿は屈託のない笑顔を見せた。

 だが蓮は、胸の奥に小さな罪悪感を感じていた。

 これは偽物だ。ただの演技だ。来週末が過ぎれば、全て終わる。

 そう自分に言い聞かせながらも、彼は椿の笑顔から目を逸らすことができなかった。


5

 カフェを出て、駅まで歩く道すがら、椿は楽しそうに話し続けた。

「そういえば、桜庭くんってさ、普段どんなこと考えてるの?」

「え? どんなことって……」

「だって、クラスではあんまり喋らないじゃん。いつも本読んでるか、ボーッとしてるかって感じで」

「そんなに変かな、僕」

「変じゃないけど、ミステリアスっていうか」椿は笑った。「でも、今日話してみて、意外と普通の人だなって思った」

「普通の人……」

 蓮は苦笑した。確かに、彼は特別な人間ではない。ただ、人と違うのは、他人の期待に応えようとするあまり、自分の本心を見失いがちなことくらいだ。

「天海さんは、どうして僕の頼みを引き受けてくれたの?」蓮は尋ねた。「お金だけが理由じゃないよね」

 椿は少し考えてから答えた。

「うーん、正直に言うとさ、面白そうだなって思ったんだよね。偽物の恋人を演じるなんて、まるで小説みたいじゃん。それに……」

「それに?」

「桜庭くん、本当に困ってたから」椿は真剣な表情で言った。「人が困ってるのを見ると、放っておけないタイプなんだよね、私」

 蓮は椿の横顔を見つめた。

 夕焼けが彼女の茶色い髪を照らし、輪郭を柔らかく縁取っている。風が吹いて、髪が少し揺れた。

「ありがとう」蓮は心から言った。「本当に助かる」

「まあ、お互い様ってことで」椿は笑った。「じゃあ、明日から『恋人ごっこ』頑張ろうね」

 二人は駅前で別れた。

 帰りの電車の中で、蓮はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。そして、今日決めたT続ける設定を書き込んでいく。

 出会いは図書館。付き合い始めたのは二ヶ月前。初デートは映画館……。

 書きながら、蓮はふと思った。

 これは、小説のプロットを組み立てているようだ。登場人物の設定、出会いのきっかけ、関係性の発展。全てが、物語の要素に似ている。

 だが、これは小説ではない。

 現実だ。

 そして、この「物語」の結末が、どうなるのか。蓮にはまだ、想像することができなかった。

 電車が駅に到着し、ドアが開く。蓮は席を立ち、ホームに降りた。

 夜の冷たい空気が肌に触れる。空を見上げると、星が瞬いていた。

 蓮はもう一度、スマホの画面を見た。

 そこには、椿と交換した連絡先が表示されている。彼女の名前の横には、小さなハートの絵文字がついていた。

「偽物の恋人、か……」

 蓮は呟いて、ポケットにスマホをしまった。

 来週末までの一週間。

 この短い期間で、彼の人生がどう変わるのか。

 それは、まだ誰にもわからない。

 ただ一つ確かなのは、蓮の日常が、今日から大きく変わり始めたということだった。


第1章 完

(次章へ続く――蓮と椿の「恋人ごっこ」が始まる。だが、演技と本心の境界線は、思ったよりもずっと曖昧で……)

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