それでも、僕にはその感情が必要だったから

深雪 郁

それでも、僕にはその感情が必要だったから

琴奈ことなと僕が出会ったのは、高校生の時だった。


一年生で同じクラスになり、五月の山登りの校外学習で親しくなり交際に発展した。

周りのやつらは付き合って別れてを繰り返していたけど、僕達は二年になってクラスが離れても、その関係に変わりはなかった。

琴奈とずっと一緒にいる。彼女と付き合っていて、僕は確信めいた思いを抱いていた。琴奈もそう思っていたようだった。


けれど、神様は残酷だ。高校二年生の秋、琴奈は車に撥ねられそうな子供を庇って死んでしまった。それを聞いた時僕の頭には稲妻が走って、立っていられなくなって、床に崩れ落ちたのを今でも覚えている。


琴奈の死は到底受け入れきれるものではなかった。単純な事故や殺人だったら相手を恨めたものの、子供を恨むことはできなかった。僕はしばらく苦悩した。


このまま悩んでいたら確実におかしくなる。この苦しみから解放されたい。—そう願った僕が思い付いたのは、「寂しい」という感情を自分から排除することだった。琴奈に会いたいのにもう叶わない。その理不尽を無くすには、琴奈を求める心自体を封じてしまえばいい—、それが僕の出した結論だった。


決断した僕は大学の理系分野に進学し、ひたすら脳科学について勉強した。寂しさを感じさせるホルモン、そいつをコントロールする方法があれば・・・その一心でひたすら学び、研究し、大学院に在籍している時にとうとうその方法を発見した。


実行の日、僕は大学院の研究室で準備にとりかかった。設備機器を私的に使用することはもちろん禁止されているので、人が来なさそうな日を選んだ。

目的の電子機器に何回か指で触れて操作する。機器に繋がれた電極を頭に着けると、僕は寝台に仰向けになった。

頭部にビリビリとした刺激を感じる。しかし、それ以外に違和感や不快な症状はなかった。

三十分程経ち、もうそろそろいいだろうと思った僕は起き上がると電極を外し、電子機器の前の椅子に座るとふーっと息を吐いた。

すぐに効果は現れた。今まで散々僕を蝕んでいた、琴奈を想っている時に感じていた苦痛が消えて、胸がすっきりしていた。久し振りに心が晴れ晴れとしてきた。よし、処置はうまくいった。何年もかかってしまったが、これからは苦しい思いをせずに生きることができるだろう。僕は椅子に座ったまま両腕を上げて、笑顔で伸びをした。


それからの僕は快活に生きていた。学院の研究仲間から顔つきが変わったと言われた。弟は元気そうになった僕を見て安心した顔をした。ただ一人、母だけは僕が「琴奈の苦しみを消す治療をした」と言うと、複雑そうに微笑んだ。


治療をしてから一週間程経った頃。夕食後に自室で大学院で行っている研究のレポートをまとめている時、僕は琴奈と二人でテーマパークに行った時のことを思い出した。

僕の隣で笑顔を見せて楽しそうにしている琴奈。“次は何に乗る?”確かそう言ったはずだ。—けれど。

その言葉は、文章だけでしか記憶に現れず、琴奈の声で再生されなかった。

その時、僕は気づいた。・・・琴奈の声。彼女の声が・・・思い出せない。

何かの間違いだ。映像を記憶しているから、そっちが優先されるんだ。僕は彼女との通話を思い出してみた。


“明日でやっとテスト終わるね。勉強で会えなかった分、放課後どこか行こうよ”


そんな話をしたはずだ。—けれどそれも、文章が頭に出てくるだけで、記憶の中の琴奈が喋ってはくれなかった。

嘘だ。これはきっと偶然に違いない。寝て明日起きたら元通りに戻っているはずだ。僕は必死にそう願った。


けれど、次の日の朝起きても、琴奈の声は戻って来なかった。彼女の笑顔は思い出せるのに、僕に語りかけてくれない。僕は焦った。これは治療の副作用なのだろうか。

更に時間が経つと、今度は大好きだった琴奈の笑顔さえ朧気になった。僕は激しく取り乱した。そんな、そんなのってない。忘れたかったのは琴奈を失った苦しみと、もう会えない寂しさだけだったのに、琴奈の存在そのものが僕の中から薄れていってしまっている。

僕は慌てた。どうしたら、どうしたらいいんだ。琴奈の事を忘れたくない。大切な思い出がたくさんあるのに、それが無くなったら耐えられない。僕は悩みに悩んだ。—けれど、答えはやはり一つしかなかった。


次の日、大学院の研究室に僕は居た。電子機器の前にある椅子に座ると、機械を操作した。そして頭に電極を着け、寝台に横たわる。

前回の処置と同じように、頭部にビリビリと電流が伝わってきた。僕は目を閉じ、深呼吸をする。

そろそろだろうか。起き上がって電極を外し、寝台の上に腰掛けて目を瞑る。そのまましばらくそうしていると、脳裡に僕の大好きだった映像が蘇ってきた。


テーマパークで僕の前を走りながら、振り返り満面の笑みを僕に向ける琴奈。

学校帰りに一緒に行ったファミレスでハンバーグを美味しそうに食べる琴奈。

映画館で、僕の横でスクリーンを見つめ涙を流す琴奈。


ああ、やっと戻ってきてくれた。僕の生きがいだった光景。僕の宝物。


—そして、


海斗かいと


僕の名前を呼ぶ彼女の声。少し高くて、透き通った彼女の声。僕が世界で一番好きな声。


寝台に腰掛ける僕の目から、涙が溢れてきた。琴奈を必要としながら、彼女を失った苦しみだけを排除しようだなんて、そんな都合の良いようにいくはずはなかったのだ。琴奈を求め、飢餓し、苦悩し、けれどその感情を噛みしめながら、上手くつきあいながら生きていかなければいけなかったんだ。「寂しさ」という感情さえ無くなってしまえばと思ったけど、きっと人は人らしく生きていく為にその感情が必要なのだ。

寂しさに苦しめられて煩わしいと感じたこともあったけど、人間には他者が必要だ。その他者を求める過程において、「寂しさ」があるのではないだろうか。ここ数日の苦悩で、僕が出した答えだった。


この先僕は、琴奈との楽しかった思い出と、彼女を失った辛さとを抱えて生きていく。それと上手くつきあえるようになったら、きっと僕は先に進めるのだろう。新しい恋をすることもあるかもしれない。その時は琴奈の墓前で、彼女に許しを乞うことにしようと思う。


流れていた涙が止まったので、僕は立ち上がる。その足で先ほど操作していた電子機器へ向かった。画面を指で何度かタッチする。そして僕が開発したプログラムを丸ごと消去すると、清々しい気持ちで僕は研究室から帰路についた。




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それでも、僕にはその感情が必要だったから 深雪 郁 @ryo_naoi

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