第17話

「おい、いつまで頭を下げている」


 でも加地さんが良い人だと言っていたのは、八重さんの全てを知らなかったからかもしれない。やっぱり自分は、どこにいても――


「おい!」


 思いに耽っていた紗月は、ゆっくり顔を上げる。


「突然お邪魔しまして、申し訳ありません」と再度頭を下げる。

 部屋の中央奥にある当主にふさわしい大きな机を前にして、当麻は座っていた。両脇には書類が積まれている。きっと忙しいのだろう。早く部屋を出たほうがいい。紗月は少し視線を落とし、当麻を見ないようにした。


「八重が連れてきたんだ。別に構わないが、先日の怪異の件であれば礼は不要だ。俺は俺の仕事をしたまで。特別、礼を言われるようなことではない」

「――はい。ですが、それでも助けてもらった事に間違いありません。ですから、ありがとうございました」


 もう一度、深く頭を下げる。隣に来た八重が小声で「奥様」と囁く。何か言われるのかもしれないと、身構える紗月にあのハンカチを手渡してきた。


「え?」


 部屋を出た時、ハンカチは畳の上にあったはず。いつの間に八重さんが持っていたんだろう。本当にこれを自分で渡させるために、八重はここへ連れてきたのだ。

 あれだけ彼女が味方だと言ってくれていたのに、信じきれなかった。紗月は八重の顔を見上げることもできず、差し出されたハンカチに手を伸ばす勇気もない。


「奥様、さあ」


 無理矢理手渡されたハンカチを少し眺めた紗月は、当麻の机の前のまで進んだ。


「あの、これ。助けて頂いたお礼です」


 緊張して、心臓が口から出そうになる。早く受け取るなり、叩き落とすなりして欲しい。顔を上げれない紗月は、ずっと濃い青の軍服に光る、金のボタンを見つめる。


「この龍は、青龍だな。どこで買った」


 まさか話しかけられるとは思っていなかった紗月は、思わず当麻の顔を上げてしまった。


「どうした?」


 整った顔と青い瞳が自分を真っ直ぐと、それも至近距離で目が合っている。本当に当麻様は美丈夫だわ。肌なんか、私よりも綺麗かもしれない。

 紗月がぼんやり違うことを考えていると「おい。聞いているのか」と声を掛けられた。


「は、はい! これは私が縫いました」

「は? お前が刺繍をしたのか? この青龍を?」

「はい。これくらいしか得意なことはなくて」

「八重、本当か?」


 紗月を通り越し、後ろに控えている彼女に尋ねる。


「はい。間違いなく、奥様が刺繍をされました」


 そんなにも自分は何もできないように見られているのだと思うと、たとえ事実であっても、どうしようもなく恥ずかしくなった。


「そうか。こんな素晴らしい物は見たことがない。ありがたく頂く」

「え?」

「なんだ」

「いえ、捨てたりしないんですが?」


 紗月の体が竦んだ。グッと眉間に皺がより、当麻の顔も険しくなる。


「お前は」と言いかけた彼に「当麻様」と八重が割って入る。

「なんだ」

「当麻様、奥様はお前、ではございません。お名前はご存じですか?」

「――当たり前だ」

「なら、そのように奥様をお呼びください」


 八重さん?! と振り向くと、頭を下げていて彼女の表情は分かない。別に呼び方なんて気にはしてないのに。おずおずと当麻を見ると、紗月を凝視している。


「あ、あの」

「お前は俺を、何だと思っている」

「え?」

「人からもらった物を、俺はそんな簡単には捨てない。それに青龍の刺繍は、その辺の職人よりも素晴らしい出来だ」


 表情が緩んで、少し目尻が垂らして当麻が微笑んでいた。ふわっと心体が軽くなって、紗月の心に温かい風が吹いた。そして顔に体中の熱が集まったみたいに熱い。

 嬉しい。褒めてくれた。彼の顔に微かな笑みが浮かんだ瞬間、紗月は息を呑んだ。いつも冷徹な表情なのにあまりにも無垢で、幼いさが混じっている。その一瞬の表情に、心臓が予期せぬ鼓動を打ち始めた。

 可愛らしい、そう感情が認識するのを紗月は止められなかった。


「なんだ?」

「いえ。褒めてもらえるなんて思ってもみなかったので」


 当麻は眉間を摘まむように揉み始める。


「俺は別に、紗月を恨んでいる訳ではない。ただ清原から来た人間だ。信用できるのか判断しかねているだけだ。だが、まあ……問題なさそうだな」

「え?」


 そんな簡単に、信用してもいいのだろうか。とはいえ、自分がただ九条家に嫁いできただけで、もともと何も持っていない。紗月は、少しでも役に立てるなら清原の情報を伝えたいと思った。けれど、あの家でまともな扱いを受けていなかった紗月には、伝えられるような情報など何ひとつない。


「自信を持て」


 その言葉に紗月は、底なし沼から引き揚げられた感じがした。


「はい。それでは失礼します」

「八重、時間がある時に彼女に屋敷を案内してやれ。あと外出も許可するが、必ず護衛を連れて外出はすように」


 彼の発言に紗月は戸惑いしかない。


「あの、いいのでしょうか」

「何がだ」

「その、外出や屋敷を案内してもらっても」

「俺が問題ないと判断した」


 嬉しい。褒めてももらえたのに、外出の許可もしてもらえるなんて思っていなかった。まるで盆と正月が一緒にきたようだった。

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