第2話 消えた相棒
死んだはずの有坂滉は、深い森の奥で目を覚ました。
高くそびえる木々の狭間から、聞いたことのない鳥の鳴き声がする。
頭のてっぺんから爪先の全身にかけて違和感があり、まだ意識が判然としない。胸の奥がむかむかして、船で酔ったときみたいに気持ちが悪い。
普段の寝起きとは明らかに異なった感覚だ。体のコンディションは最悪のはずなのに、全身に不思議なエネルギーが満ちているのを感じる。今ならまったく疲れずに、フルマラソンを走破することだってできそうだ。
眠気がまだ残っているのか、大きなあくびが出る。
「ん……?」
そこで、さらなる異変に気が付いた。喉から出る声が、妙にかわいらしい。とても三十過ぎのおっさんが出すものとは思えない。風邪だとしても、こうまで激しい変化は起こらないだろう。
「うそだろ」
舌足らずであどけない声音。
適当な言葉をいくつか喋ってみるが、そこから変化は生じない。元の声質に戻る気配は一切ない。
「本当かよ、これ」
実はまだ眠っていて、夢を見ているだけなのかと疑う。
ためしに頬を思いっきりつねってみるが、しっかりと痛い。疑いようのないリアリティを持っている。
「ちょっと待てよ」
あまりに恐ろしいことを知ってしまい、愕然とする。
訪れた変化は、声だけの問題ではなかった。さらに深刻で、重大なことが起こっていた。
火を見るよりも明らかに、体が小さくなっている。いや、もっと正確に表現すれば、幼くなっているというべきか。
頬はもちもちで、まるでマシュマロのような柔らかさ。
キズひとつない肌は、粉雪のように白い。
小さな手は、上質なシルクのようにすべすべだ。
「な、ない!?」
いやな予感がして股間の辺りをまさぐってみた結果、驚異の事実が発覚する。長年連れ添ってきた相棒が、どこにもいない。
何度触ってみても、本来あるべき感触がない。
受け止め難い現実に、息がつまりそうになる。
「俺は、女の子になってしまったのか……?」
発する声音のひとつひとつが、子犬のように愛くるしい。
どれだけ深刻になろうとしても、まるで緊張感がない。
「しかもここ、どこだよ」
心に重大なダメージを負った代わりに、意識は鮮明になってきた。
足に力を込め、立ち上がって、辺りを見回す。
鬱蒼とした森だ。天にも届けとばかりに、見渡す限り木が生えている。
人影どころか、人工物すら見当たらない。
悲しいかな、無人島に漂着した遭難者のような気持ちになる。
知らない動物の鳴き声が聞こえてきて、肝を冷やす。
だが、この状況で何の役に立つかわからないが――空気はおいしい。都会では絶対に味わえない新鮮さと透明度がある。
目をつむり、一度ゆっくりと深呼吸をする。
……少しは楽になった気がした。
「さて、これからどうするかな」
ちょっとでも寂しさを紛らわすために、あえて声に出す。声質にはやはり違和感があるが、もはや気にしてなどいられない。
一般常識として、知らない森を無暗に歩くのは危険だ。無駄な体力を消耗して、さらに奥深くへ迷い込んでしまうかもしれない。
ならばここでじっと救助を待つべきか。……それも賢い選択とは思えない。おそらくこんな辺鄙な場所には誰も来ないだろう。人間よりも先に、獣に見つかりそうだ。
「ちょっと歩いてみるか」
考えてばかりいても、どんどん悪い方向に想像が広がる。なにかあれば引き返せばいい、そう自分に言い聞かせ、とりあえず進むことに決めた。
そうして歩き始めて、すぐにわかったことだが、とにかく歩幅が小さい。成人男性だったときと比べて、一歩で進める距離がかなり短くなっている。
加えて、目線も低くなっているので、周りにあるものすべてが巨大に見える。怖いというわけではないが、本当に変な感じだ。慣れるのにしばらく時間が掛かるだろう。
「それにしても、変な森だな」
高くそびえる木々は、青黒い葉を付けて、異国情緒を漂わせている。
根が地中から噴出し、複雑に絡まり合い、今までに見たことがない姿形だ。色合いや匂いなど、日本のものとはまったく異なっている。姿の見えない虫や鳥の鳴き声も、記憶にないものばかりだ。
不思議と絶望はしないが、それでも不安は募る。一体なにがどうなってこんなことになってしまったのか、さっぱり見当が付かない。考えれば考えるほど、混乱してくる。
暖かな風が吹き、青いドレスの裾を揺らす。
理解の追い付かないことと言えば、この服装にしてもそうだ。まったく身に覚えがないのに、目が覚めたらフリル付の美しいドレスを着ていた。ひらひらしていて、歩きづらいことこの上ない。
だが脱ぐわけにもいかず、そのまま着続けている。
脱出の希望を胸に抱きながら、しばらく歩いて、奇妙なことに気が付いた。
歩いても歩いても、息切れせず疲れないのだ。
汗もほとんどかいていない。このまま休むことなく、一日中前進することだってできそうだ。
若返って体力が付いたとかそういう次元の話ではない。もっと根本的な部分で異変が生じているのではないか。
今はその正体を掴むことはできないが、いずれ向き合うことになりそうだ。
ともあれ、体力の心配はなくなった。最初は引き返すことも考えたが、今やその必要はないだろう。
「頼むから、やばい動物にだけは遭遇しませんように……」
目下、それが一番大きな気掛かりだ。
今の姿では、まったく抵抗のしようがない。細い手足は、少しの衝撃で簡単に折れてしまうだろう。
もっとも、元の姿なら戦えるかといったら、それも怪しいが。まあそこは、相手次第といったところだろうか。
そんな益体もないことを考えながら、前へ前へと進み続ける。
……出発してから二時間以上は経っているだろうか。
歩いても歩いても、周りの景色に大きな変化は生じない。
肉体的な疲労はないが、精神的な疲れはいかんともしがたい。
前向きになろうと努めるが、すぐにマイナスなことばかり浮かんでくる。
気休めにしようと、空を見上げたとき、近くの茂みでなにかが動いた。
「なんだ?」
反射的に身構えて、警戒の度を強める。
いっそのこと背を向けて逃げ出したい気持ちになるが、なんとか堪える。
へっぴり腰になりながら、音がしたほうへじっと目を凝らす。
冷や汗が頬を伝う。
緊張で背筋がこわばる。
無害な生き物であってくれと願いながら、その登場を待つ。
残念ながら、期待は裏切られた。
ぞっとするような唸り声。ナイフのように鋭利な牙。思わず顔をそむけたくなるような、すえた獣臭。赤く光り、殺意のこもった目。
黒い毛に覆われ、大型犬をひとまわり大きくしたような体躯。
雰囲気はオオカミに近いが、それよりもずっと迫力がある。
距離は五メートルにも満たない。
「最悪だ……」
運の悪さを呪いながら、つぶやく。
どう考えても、勝てる気がしない。
筋肉で盛り上がった前足を見て、逃げ切ることも不可能だと瞬時に理解する。
それでもすぐに諦めるわけにはいかないので、後ずさりして少しでも距離を稼ごうとする。
だがそれに合わせて、相手も距離を詰めてくる。
膝が震え、恐怖で漏らしそうだ。
そのとき、頭上で一羽の鳥が飛び立つ。まるでそれがスタートの合図だといわんばかりに、敵は襲ってくる。
歯を食いしばり、反射的に手を前に出す。
すると、火花のような、一瞬の輝きが脳裏に閃いた。
自然と次の言葉が口からあふれ出る。
「燃やし尽くせ、原初の炎よ」
呼吸が止まるような強烈な熱気。地獄のような灼熱。火炎に包まれて、肉が焦げるにおい。
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
少し間を置いてから、理解する。
いきなり手のひらから炎の塊が飛び出して、そのまま敵を焼き殺した。常識外れの高温で、骨すら残っていない。すべて灰になってしまった。風に吹かれて、行方も知らず散っていく。
「なんだったんだ、今のは」
心配して手のひらを確認するが、目立った外傷はない。柔らかい肌は、雪のような白さを保っている。
また、さいわいなことに、近くの木々に燃え広がることもなかった。確実に敵だけを焼き尽くした。
信じられない光景だが、なんとか命は助かった。それに関しては安心する。状況から考えて、今生きていることは奇跡に近い。
恐怖の余韻で、まだ足が震えている。
この森で目覚めてから、息をつく暇をもなく不思議なことが起こり続け、さすがに脳の処理が追い付かない。
ドレスに付いた煤を払って、近くの木に体を預ける。
ちょっと休もう、そう思った。
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