第2話


****ガインの書より抜粋****


聖者ザクリスが悪しき黒龍を、フォートワース地方の聖なる森に封じた話。

シグナス暦、二二八年。

フォートワースの東の谷に雨が降り続き、広範囲にわたる土砂崩れが起き、谷を包囲していた結界が破れ、町へ突如として黒ドラゴンが沸いて出る。

この黒ドラゴンは、全長四十フィートにもおよぶ巨大なもので、黒魔法を使い、血を好む残忍なる性質を持つ。

また人語を解し、人心を惑わし、たくみに操ることも得意とした。

二十余名の女たちと子供らを喰らい、止めに入った十数名の男たちを鋭い爪と牙で引き裂き、八名の勇者をその黒い魔法にかけて殺した。

その所業、わずか十日ほどの間のことであった。

だが、それもそれ以上は続かず、勇者ヘリンによって右目に矢を打ち込まれ、ようやくドラゴンは地に伏した。その心臓は取り出され、僧侶ニコラスによって、悪しき魂とともに神殿に封印された。巨大なそのドラゴンの死体は、千々に切り刻まれたうえ、三日かけてカザルスの港に運ばれ、自然による浄化のために海へと流された。


その数十年の後、かの地で新月の夜に流された乙女の血によって、悪しきドラゴンは心臓から蘇り、そこから実体を伴った状態で完全な復活を遂げた。

生け贄となった乙女は、フォートワースの南側にあるサラスという町の商家の娘、フリーディア・クロスである。聖なる場所にて、その血を流せし愚かなる殺人者は、名前が伝わっていない。しかも、どのようにしてその殺人者が、ドラゴンの召喚を果たし復活を成し遂げたのかすらもまるでわかっていない。


とまれ、悪しき黒ドラゴンは、復讐のためその強大な魔力を用い、フォートワース近隣の町や村を再び脅かし始めた。

犠牲者は、前回よりもさらに数を増し、町はさながら地獄と化した。

血の匂いは数十マイル先まで風にのって流れ、フラドール川は流血に赤く染まった、という。

そこへ現れたのが、聖者ザクリスである。


彼は、北の町ウェッツェンで生まれ育ち、白魔法に造詣が深いヤヌハー教会の聖者である。

ザクリスはウェッツェンで、数ヶ月前にすでに黒ドラゴンの復活を予見しており、すぐさま彼の地へ旅立つが、悪しき魂の復活を止めるのには間に合わなかった。彼が着いたときには、すでに犠牲者が三桁近くにまでおよんでいたとされる。

フォートワースへ着くなり始まった黒いドラゴンとの死闘は、ふた月あまりにもおよんだ。

さすがに体力気力ともに限界に近づこうとしたとき、ザクリスは北の地の護りである聖杯より聖なる予言を受ける。

悪しき者の真の名前を白き光にて縛り、封印せよ、と。

予言は、さらにドラゴンの真の名を告げた。その予言により、聖者はドラゴンの真の名前を知り、己が選ばれた理由を知り、運命の出逢いに驚愕した。

ドラゴンは、ここでは仮にザールと呼ぶ。

予言どおり、聖者ザクリスはザールの心臓を白き炎で焼き尽くして完全に滅ぼし、その魂のみを再度呪縛し封印した。

封じた地に聖なるオークの苗木を植え、それにザクリスと名づける。

その森は、龍封じの森と呼ばれ、今に至るまで完全なる浄化は行われていない。


**..**..**..**..**..**..**..**..**..**..**..



ガインの書に記されているいくつかの魔物の封印場所のなかで、マリオンの住んでいる村からこの森が一番近い。街道沿いの町の名前のいくつかは変わっているが、近隣の村の名やあたりの地形はほぼ変わっていない。それに気づいたとき、彼は思わず歓喜の声を上げた。

そこはマリオンが世話になっている師の工房から大街道へ出て、馬で一日半も飛ばせば容易にたどり着けるような場所だった。

古い地図を眺めていてそれに気づいたマリオンは、早速その場所を訪ねる決心をした。

前から試してみたい召喚魔法がある。そして、どうしても行いたい魔法が、もうひとつあるのだ。

しかし、そのためには準備がいる。いきなり召喚魔法を行ったとしても、それから先のことも考えねばなるまい。

なにしろ、この黒ドラゴンは、強大な力を持っていたという。地を守護する伝説の聖杯によって選ばれし聖者ですら、ふた月もかかってようやく封じることができたのだ。もし、召喚だけできて、封じができなかったら、多分自分の命だけでことは済まない。

ここまで確実に封印されていれば、召喚しても前回のように実体伴うことはないと踏んではいたが、たとえ魂だけだとしても野放しになれば、誰か生きている者にとりつくこともできるかもしれない。生きている力を持てば、厄介なことになるのは目に見えている。まして取り憑かれたのが、魔法を使えるこの自分だったら。考えるだに恐ろしいことになる。


師匠には場所も行う魔法についても、行くことすら内緒にする。当然だ。ばれたら絶対、止められる。

世の中に「絶対」という物事はさほど多くないものだと師匠に教わってはいたが、そのさほど多くない方に、この事案は含まれる。まさしく絶対に。

往復の道程で三日、召喚魔法のためには、さらに数日ほど留守にしなければならない。ばれないはずがない。

とりあえず、後で結局ばれてしまうにしても、行く前に止められることだけは避けなければならなかった。

そのためにマリオンは、師が長期間出かけてしまう機会を窺いながら、じりじりと待たなくてはならなかった。

その間、呪文を何度もさらい、関係する魔法書を読み直し、何度もその魔法を行ってみた。

覚えの早いマリオンは、同じ魔法の練習を繰り返すということはめったにしない。

力を働かせる方向と度合いだけが判れば、あとは力の集束と解放は簡単に出来る、少なくとも彼にとっては。

それなのに、今回に限り、何故そんなに熱心に練習を繰り返しているのか、といえばさすがにかなり不安だったから、ということになるのかもしれない。



「さぁ、マリオン君、吐いてもらおうか」

と、不穏な笑みを浮かべているのはキリル。

「お前は一体何を隠しているんだ」

眉を寄せ、厳しい口調なのはバージル。

「な、何を? 何のこと?」

マリオンは思わず身を引いた。

マリオンがあまり熱心に、しかも一人でこそこそと何かの魔法を行っているので、同じ師についている五歳年上で兄弟子のバージルとその同期のキリルの二人が心配して――キリルの場合は、面白がって――マリオンを問いただしてきた。

バージルは、母方の従兄にあたる。

砂色の髪で、マリオンより頭一つ分ほど背が高く、体つきもがっしりしていて、いかにも真面目そうで落ち着いた顔をしている。従兄といえど、顔立ちはマリオンとあまり似ていない。

ハイラム師が、留守にする際の代理として工房をまかせるほど信頼されている魔術師だ。

反してキリルは、背は高いがほっそりしていて、黒髪に浅黒い肌をしている。きつい眼差しではあるが、かなり整った顔立ちの魔術師だ。

着ている麻の上下も、他の皆とは異なる黒に染められている。胸に下げられた革紐でくくられた石すらも黒かった。

性格もそれぞれ真逆といっていい。ただ、どちらも工房では一、二を争うほど魔法の腕も立ち、頭もよく回る。

マリオンの怪しい動きに気づいたのは、二人ともほぼ同時らしい。


マリオンを誰もいない図書室へ無理矢理押し込んだのはキリルだったが、すでにそこにはバージルが待ち構えていた。

二人はマリオンに、なんのために召喚魔法をそんなに真剣に何度も復習っているのか、と迫った。

「君は一体何のために召喚魔法のおさらいをしているのかな? 召喚魔法は普段使わない魔法だろう。復習う必要はどこにもないぞ。言わないなら、ここから出られないと思え」

「自白の魔法ってのがあったよな? 練習してみようか」

マリオンは、なまじなことではこの二人の鋭い追及を躱しきれないことを一瞬で悟った。

「え、どうしても言わないと駄目かな?」

無言でうなずく二人に、マリオンはため息をついた。

もちろん全部は話せない。全部を打ち明けたら、止められるうえに師匠にきっと話してしまうだろう。特にバージルなら。

師に止められたからといって、この興味深い実験を自分が諦めてしまうとは思えないが、試す機会はしばらく来ないだろうし、説教や監視には、きっとうんざりする。それはできるだけ避けたかった。

二人を一緒に嘘で綺麗に丸め込むことは、さすがに不可能だ。ならば、幾分かの真実を話してしまう方がいい。

マリオンは、ガインの書を見せ、古地図を示し、実際にその場に行き封印された黒ドラゴンの気配を感じてみたい、とそう主張した。


「だって、見てみたいよね、封印のある実際のその森に立って。きっと気配はするはずだよ、これだけ強大な力があれば。しかもドラゴンなんて、ここ五十年くらい誰も見かけてない生き物なんだし。機会があれば、影だけでも見てみたいよ」

キリルが片方の眉をくいっとあげて、にやにや笑いを浮かべた。

「気配だけだって? 影だけだと? ほうぅ? お前がたったそれだけで満足するって、いったい誰が信じるんだ?」

バージルは眉をひそめ、何も言わずマリオンをじっと見つめている。

ほんと疑り深いなぁ、と心の中でひとりごちつつ、マリオンはちょっと小首をかしげ、無邪気そうににっこりと笑って見せた。

「満足だよ、だって最強の黒ドラゴンだよ? 龍の中でも特に魔力が強いんだよ? 楽しみでしょ」

キリルが、その整った唇に薄ら笑いを浮かべたまま、マリオンの額を指でぴしっとはじいた。

「痛っ」

油断していたマリオンは、デコピンをもろに食らって額を押さえた。

「で、マリオン君、君はいったいその黒ドラゴンに何をやらかそうとしてるのかな? 俺たちに話してみたまえよ」


まだ十二歳で、背が伸びきっていない小柄なマリオンは、気取った口調で面白そうに見おろしてくるキリルの長身を上目遣いでにらんだ。

「痛いなぁ、もう。疑り深いね、キリル」

額をなでながらマリオンが口をとがらせると、ふっとキリルが笑った。

「お前がそんなことで満足するか? なんでもかんでも奥の奥、さらにその奥までほじくり返し、自分でできるか確認し、できなけりゃ他の手段がないかどんな手段を使ってでも探り出そうとする、そのお前が? ありえないね」

「そんなことないってば。いくら僕でもそんな恐ろしい黒ドラゴンに何かしようなんて思うはずないでしょ」

キリルはいきなり真顔になり、マリオンの上着の衿をつかんでその華奢な身体を持ち上げると、壁に押しつけ、いささか乱暴に揺すった。

「カワイコぶってもだめだ。お前がそんなネタをつかんだら、絶対何かやらかそうとするはずだ。その可愛げのまったくない、恐ろしいほど底の深い魔力でな。さあ吐け、何を企んでる」


「キリル、そこまでにしとけ」

それまでマリオンのいいわけを黙って聞いていたバージルが、初めて声をあげキリルの肩をつかんで止めてくれた。

「やり過ぎると、おもてに聞こえる。それにマリオンは」

と、そこまで言うと、バージルは眉を下げ、ため息ともなんともつかない長い息を吐いた。

「無駄に根性の入ったへそ曲がりだから、もっと意固地になってしまう」

「そうか」と、キリルはあっさりマリオンを床に降ろし衿から手を離した。

「そういやそうだな。確かにこいつは、無駄に根性の入ったへそ曲がりの天の邪鬼だよ、うん」

ゲホゲホと咳き込み涙目になりながら、マリオンは納得のいかない顔でバージルたちに抗議した。

「ひどいじゃないか、バージル、誰が無駄に根性の入ったへそ曲がりなのさ。キリルも! なんでそれ、納得してんの」

ふふん、とキリルは鼻で笑ったが、バージルは厳しい顔でマリオンに詰め寄った。

「まず、目的は何だ? いや、単に見てみたいとかの戯れ言はいらない。キリルの言うとおり、そんな軽い理由のはずがないからな。そんな表向きの理由なんて聞いても仕方がないよ、マリオン。さぁ、言ってくれ、一体何の目的で、お前は危険なドラゴンの封印場所に行ってみたいのか」

マリオンはうっと詰まった。

バージルは、――いやキリルもだが――中途半端やいい加減が嫌いだ。このまま理詰めで責め立てて、マリオンがきっちり答えが出せないと、解放してはくれないだろう。最悪、師匠の耳に入らないとも限らない。

キリルはバージルの隣でうんうん、と頷いている。魔法の方向や性格が全く違うのに、こんな所だけはよく似ている。

このマヌケめ、何故よりにもよってこの二人に見つかったのか、と、マリオンは心の中で自分自身を罵倒した。師匠に見つからないように、とだけ考えていたら、周りへの警戒がおろそかになってしまってこの始末だ。


「あーもう。わかりました、全部話すから」

はぁーっとマリオンは、うなだれてため息をついた。頭の中ですばやく話していい部分を計算する。

「えーとつまり、うん、僕はドラゴンを召喚してみたい。そして、呼び出したドラゴンと、ちょっと話をしてみたい」

少しだけいいよどんだが、最後はしっかりと顔をあげたマリオンを見て、バージルとキリルは目を見合わせた。

「な、バージル、言ったとおりだろ。やっぱりこういう奴だぜ」

「うん、知ってはいたけどね」

二人の言葉にマリオンは、大きな目をさらに大きく見開いてみせた。


「ええ、そんなとこまで読まれてるの? 知ってたんなら聞かなくても」

再び、キリルがデコピンをしてくる。今度もうっかり逃げ遅れた。

「何言ってんの。この文書を読んでみたお前がいかにもやりそうなことって、それ以外に思いつかないだろうが」

と、にやにやしているキリルと異なり、バージルは渋い顔だ。

「でも、呼び出すだけといいつつ、うっかりやりすぎて実体を伴って蘇ったりしたら、押さえるのは思うほど簡単じゃないぞ。戻せなくなったら危険が及ぶのは、自分だけじゃないんだ。近隣の人たちが、大勢迷惑を被るかもしれないってことまでちゃんと考えてるのか?」

バージルの言葉に、キリルがおおげさに肩をすくめて見せた。

「いやいや、実体のある最強性悪ドラゴンって、それ、迷惑で済む話か? 命に関わるだろ」


「ううん、今回の召喚だったら、実体は伴わないよ」

ひりつく額をなでながら、マリオンは自信ありげに言い切った。

「だって、前の時は心臓を残してあったんだ。だから封印が解かれたら、その心臓とともに実体も召喚できたんだ」

ここでマリオンは、ガインの書の該当する頁を開いてみせる。

「ほらね、ここに書いてあるでしょう。ニコラスによって心臓もともに封印されたって。もしこれさえなかったら、次のときに実体を伴ったドラゴンは召喚できなかったはず。もちろん、魔術師の腕にもよるけど」

興味深げに本をのぞき込んでいたキリルが、声をあげた。

「なるほどな。黒魔法では、召喚の際に何らかの遺物を必要とする。愛用していた無生物でもよいが、それはかなり高度な魔法を必要とする。一番いいのは、召喚される者の本体の一部だよ。皮膚、髪の毛、血、骨、そして内蔵。前回、騎士はドラゴンを切り刻んで海に流して浄化したようだが、何故か心臓を残してあったわけだろ。それを使えば、実体まで容易に召喚できる。心臓は他の部位よりもさらに容易だ、と思うぞ」

そして、とキリルがいやな笑いを浮かべた。

「そのために捧げられた生け贄が人間なら、たぶんもっといい」

マリオンは、顔をしかめた。

「やだな。僕は当然、そんなことをする気はないよ」

キリルは、にやにや笑いを引っ込めない。

「当然だ。そんなことをすれば、お前さんは、間違いなく破門でーす。さようなら、マリオン君」

「だから、そんなことしないったら。だいたいにして、ドラゴン生き返らせてどうするのさ」

「連れて歩く。最近はドラゴンも人里ではとんと見かけないから、みんな振り向くぞ。注目の的だ。すげーなー」

茶化してくるキリルにマリオンが口をとがらせている横で、バージルがガインの書をじっくり読みながら眉間にしわを寄せている。


「ねぇ、マリオン。これ、無理なんじゃないのか。名前による封印が行われてる。名前はザールと呼ぼうって、これ、仮の名前だろう」

そういいつつ、バージルはガインの書のそのくだりを、人差し指でつうっとなでた。

ああ、そうだな、とキリルも本をのぞき込む。

「なぜ隠す必要があったんだろうな。生け贄の少女の名前まで書かれているのに、わざわざ仮の名をつける理由がわからないね」

バージルが難しい顔をしたが、キリルが軽く肩をすくめてあっさりいなした。

「そりゃさ、僕、黒龍を召喚してみたーい、なんてことを抜かす馬鹿者がいるかもしれないからだろ。真名がすぐにわかったら、どう考えてもまずいじゃないか」

「ああ、なるほど、確かに俺の身近にもそういう馬鹿がいるな」

バージルがうなずき、マリオンが頬を膨らませた。

「僕は馬鹿じゃないぞ」

「ああ、そうだな、確かにお前はただの馬鹿じゃない。とてつもない大馬鹿者って奴だな」

生真面目なバージルの返しに、キリルが声を上げて笑った。


バージルはマリオンの明るい緑の目をのぞき込んで、しっかり念を押す。

「いいな、マリオン。師匠はこんな無謀なことをお許しにならないぞ。大体にして、仮の名前しかわからないのでは、封印は解けないし、当然召喚などできないだろ。諦めろ、マリオン」

マリオンは内心ぎくりとしたが、それは顔に出さずにうなだれて見せた。

「そうか、そうだよね。やっぱりそれがわからないと、召喚自体も無理だよね」

マリオンの言葉に、キリルが一瞬だけ何か言いたそうに見えたが、そのまま口元をゆがめただけで何も言わず視線をそらした。

それに気がつかず、バージルは肩を落としたマリオンの頭を軽くたたいた。

「こういう種類の名前による封印は、肝心の真名がわからなければ、どんな魔術師でも解けないはずだ。諦めた方がいい。いくら力があっても、できないことはある」

「うん、そうだね。わかったよ、バージル。これは諦める。読んで想像してみるだけにするよ」

殊勝にに肩を落とすマリオンに、何か召喚を試したいならもっと安全なものにしろ、といいおいて、バージルはキリルと二人、図書室から下へ降りていった。

扉を閉める寸前、キリルがバージルに知られないように意味ありげな視線を投げてきたのを、マリオンは複雑な心境で受け止めた。

キリルはきっと、気づいている。

夕食を告げる鐘の音に、マリオンは本を片付けて足取り重く図書室を出た。



工房での食事は、弟子たちが二人ずつ交代で作り、片付けることに決まっていた。

これも修行の一環だ。掃除や洗濯や畑仕事も交代制になっているが、面倒な作業はなんと言っても料理当番だった。なにしろ工房には年齢不詳な師匠の他に、十二歳から二十二歳の食べ盛りばかりがいるので、食事の量はたっぷり作らなければならない。

毎日毎日、昼の軽食分も含めて三回も準備しなくてはならないのだ。回数も減らせなければ、手抜きも許されない。


今、弟子は十人いるので、だいたい月に三、四回くらいずつ片付け当番と料理当番が廻ってくることになる。片付け当番は、料理当番の前日になっていて、夕飯の片付けをして翌日の食事の準備までを行う。

今の工房には新入りはおらず、みな半年以上工房に住んでいる者ばかりなので、皿洗いや炊事も手慣れている。しかし、皿洗いはともかく、料理の腕は人による。料理の勘とでもいうのだろうか。いくらやってもうまく料理ができない者たちもいた。

そのために、食事当番は料理上手な者と、さほど得意ではない者の組み合わせになっている。そうでないと、せっかくのお楽しみの夕飯が、悲惨なことになるからだ。

今日の主菜には、羊の肉と根菜のトマト煮込みが出てきた。羊は、工房のそこそこ広い裏庭で何頭か飼っているものを月初めに屠ったもので、根菜はその隣にある小さな菜園で作ったものだ。土の魔術師が二人ほどいるので、菜園の野菜はいつもいいできだ。これに黒パンと豆のサラダがつく。まったく魔力はないが、器用で料理上手なショーンという兄弟子の当番だったので、味はかなりよかった。

マリオンは、食事の支度自体はさほど嫌いではない。野菜や肉が自分が調理することで、誰かの食事、体をつくるための栄養になることはそれなりに楽しかった。だが、片付けはさほど好きではない。片付けは、翌日の食事当番の仕事だ。食器を洗い、片付けてから次の料理の下準備をする。明日の食事当番はマリオンだった。

だから今日の夕食後の片付け当番は、マリオンとジョナスという二つ年上の少年のはずだった。が、いつの間にか皿洗いの場にはキリルがいた。

「ジョナスに代わってもらった」

灰をつけたたわしで皿から脂をこすり落としながら、キリルはそう言った。マリオンもキリルも料理上手の組に入っている。彼がジョナスと代わると、組み合わせが両方不得意組となり、その食事当番の回が悲惨になりそうだ。そこを考えると、少し罪悪感を覚える。マリオンは小さくため息をつき、無言のまま丸めたカヤと磨き砂でがしがしと大鍋をこすりだした。

「なんでって言わないのか?」

「だって、それはお前に訊きたいことがあるからだ、って返ってくるんでしょ。知ってる」

唇を少しとがらせてすねるマリオンに、ふっとキリルが鼻で笑った。

「ちょっと違うな。訊きたいんじゃない、お前に教えたいことがあるからだ」

「教えたい?」

意外な言葉にマリオンの手が止まる。


「ああ、そうだ。まあ、俺がお前に呪文を教えたりするわけじゃないぞ。お前はそんなもの必要としてないだろう。俺はバージルとは違う。俺はどっちか言えば黒寄りの魔術師だ。召喚については、奴よりは多少は詳しいはずだ。だから教えてやろうと言うんだよ」

マリオンは鍋をつかんだまま、うなずいた。

「早くそれ磨いてしまえ」

キリルが顎で鍋を指した。

「あ、うん」

マリオンは慌てて再び鍋をがしがしと磨くが、耳はキリルの言葉に集中していた。

「真名で封印した場合、真名がなければ封印は解けない、それは本当だ。でも真名がなくても召喚だけならできる」

「え、できるの?」初めて聞いた。

「そうだな。本人がその名は自分の名前だと認識さえしていれば、通り名でもあだ名でも可能だ。だけどその場合、ほんとうにぼんやりとした影だけを呼び出すことになるのは避けられない。会話はできるだろうけど、たぶんお前の真の目的は達成できない」

ぎくりとしたマリオンが、思わずキリルの顔を見た。いつもと違って、キリルはいたって真面目な顔で皿を洗っている。

「真の目的?」

掠れた声で聞き返したが、キリルはそれには応えなかった。


「だが、真名がわかれば、たぶんお前なら呼び出せる。魔力をもったままのドラゴンの魂を、地上に引きずり出すことはできる」

そこでキリルは皿洗いの手を止めて、ぽかんと自分を見つめているマリオンの方に向いた。

「お前、奴の真名がわかったんだろう。そうだよな? だから召喚してみたいんだろ」

「え、どうして?」

「ごまかそうとしても、俺にはわかる。あの文書からお前は何かに気づいた、そうだろう? 真名がないから召喚できない、なんてごく当たり前のことに気がついてないなんてことあるはずない」

うん、そう思ってた。キリルは僕が何か隠したことに気づいたって。マリオンは、黙って小さくうなずく。

「素直でよろしい」

ふっとキリルが笑みを浮かべた。

「でもでも、僕の推測が合ってるかどうかはわかんないよ。そうかもしれないって思っただけなんだ。つまりあの文書の中ではね」

「いや、いい。そこは話さなくていい」

意気込んで理由を話そうとするマリオンを、キリルは片手を振って止めた。

「俺が聞いたら自分で確かめたくなる。だが、その真名はお前のものだ」

目を見開き、言葉を飲み込んだマリオンに、キリルは口の端をゆがめた。

「俺にだってそれくらいの矜持はあるぞ。だが、好奇心もあるんだ。聞いたら確かめてみたくなるだろう。そんな葛藤は邪魔くさい」

だから聞かない、というキリルにマリオンはちょっと納得してしまう。

「まぁ、お前の推測が当たってれば、の話だがな」

と、キリルは肩をすくめると、いつも通り茶化してみせた。

「まぁ、合ってなければそれでもいいさ。その場合は、影しか呼び出せないだけだからな。問題は、その推測があってた場合だ」

「うん」

「ドラゴンの最強の武器は、火を吐くとか鞭のような尾やかぎ爪や牙のような直接的なものではない。奴のように魔力の強いドラゴンは、魔法を使う。攻撃魔法はもちろんだが、奴の最大の武器は、誘惑だ」

「一番きついのは、精神攻撃だって僕も読んだことがあるかも」

「ああ、それだよ。ドラゴンは、お前の魔力を利用しようとするだろう。それに対抗する術はあるのか? 勝算がなければ、やめておいたほうがいい。確かに、お前の力はその歳にしては強い。だが、世の中にはもっと強くてもっと大きな力を持つ奴らがごろごろしている。そうだな、もし俺がお前と戦えと言われて、勝ち目はどれくらいかと言われたら、五分五分かなというだろう、俺としては非常に残念だけど」

キリルはふっと肩の力を抜いた。


「で、さらに残念だけど、俺と五分な力しかないお前は、一対一でドラゴンには勝てない」

キリルは、残念と二回も繰り返した。マリオンは堅く唇を結んだ。反論できない。

「実体がなくても奴には強大な魔力がある。しかも、奴はたぶんかなり狡猾で強かだろう。がむしゃらに力で押して勝てる、という相手ではない。少なくとも今のお前では力不足。ドラゴンを使役しようとして、逆に利用されるなんて間抜けなことにはなってほしくない。

しかも、実体がない分、奴の受ける痛手は精神的なもののみだ。精神力でどちらが上か、試す気か。さて、何百年も修羅場を渡ってきた狡猾なドラゴンと、生まれて十五年も経っていない純粋培養の若造では、どちらの精神が強いんだ?」

キリルは、一気にそう言い放つと眉を上げ、皮肉気な笑みを浮かべ、芝居気たっぷりに両手を広げて見せた。

キリルの言っていることは、すべて正しく冷静な分析で耳が痛いことばかりだった。

確かに自分を過信しすぎてはいけない。

キリルと五分五分、というのもあながち間違っていない気がする。魔力だけなら自分としてはもう少しだけ上の気もしているが、力だけがあっても使い方を間違えればきっと負けてしまう。狡猾さと慎重さと繊細さと、そして経験において、たぶんキリルのほうが数段勝っている。自分はどうしても力で押してしまうところがあるのだ。自覚はあった。


キリルはそこで言葉を切り、かまどにかかっていた大鍋から、沸く寸前の湯を柄杓で大きな木桶にたっぷりと注いだ。それから汚れをあらかた落とし終わった皿や匙などを、やや手荒く片端からつけ込んで、柄杓でガラガラと乱暴にかき回す。工房の兄弟子たちが作った木製の食器は丈夫で、しかも強化の魔法がかかっているため、多少手荒く扱っても割れたり欠けたりすることはない。最後に湯が少し冷めかけたあたりで取り出して、綺麗な布巾で丁寧に拭きあげていく。

マリオンも続きを促すのはやめて、磨き終わった大鍋に水を汲み、洗い砂を丁寧に流す作業に戻った。

二人の作業がほぼ終わり、皿を戸棚に片付けたキリルが、鍋をひっくり返して乾かそうとしているマリオンの前に、食料庫にあったじゃがいもと昼に掘り出したばかりのかぶの入ったかごをどんとおいた。

「次はこいつを洗って。皮は明日の朝むく」

明日の朝のパンケーキとスープになるらしい。

マリオンは桶に最初にじゃがいもを入れ、野菜用のたわしでゴシゴシと洗った。キリルは、流しに飛び散った水を丁寧拭き取りながら、また淡々と話し始めた。

「奴らの攻撃できついのは、相手の精神をねじ曲げるものだ。誘惑の魔法と呪縛の魔法を使うのが、奴らの常套手段だ」

「誘惑と呪縛はどう違うの?」

「誘惑は時間が短い。その場限りの魔法だが、有効に使えばいくらでも使い道はある。呪縛は解呪されない限り、永遠に続く」

「なるほど」

背中を向け作業しているキリルには見えないと知りつつもマリオンは、真剣な顔でうなずいた。

「お前がドラゴンの真名にどれくらい自信を持っているか知らんが、危ない賭けはお薦めしない。

こちらにそれなりの魔力があっても、慣れていないとやられる。相手の真名を知っていても、縛るためには召喚とは別の呪文がいる。縛る方が召喚よりも時間を食う。そこでちょっとでも後手に回ったらやられる。同時に術を放っても力負けしたら、やられる。で、やられたらどうなるかというと、多分お前は自分の真名をべらべらしゃべって奴に教えてしまう」

「僕の真名」

「そう、お前の真名」

「誘惑の魔法で名乗らせて、真名で縛って僕を好きに操れるってことだね」

「それか、もしかしたらお前を喰って魔力を自分の中に取りこみ、奴がさらに強くなるかもしれないってことだ」

「それって……」

かなりまずい、という言葉をマリオンは飲み込んだ。

いや、予想はしていた。してはいたが、こうもはっきり言われると、少し胸のあたりが重くなる。

そこでまた二人とも無言になり、明日の準備を黙々と進めた。終わらないと落ち着かない。

マリオンは、きれいに洗い終えたじゃがいもとかぶを、大ざるに入れて布巾をかぶせた。これで明日の準備はすんだ。あとは裏手の井戸から水を汲んできて、水樽に足すだけだ。

魔法を使えばすぐにできるだろうが、城の中や村の中でむやみに魔法を使うことは、師匠によって禁じられていた。

このあとは一刻ほど自習時間となり、好きなだけ本が読めたり勉強ができたりする。時間を有効に使いたければ、急がねばならない。

二人でそれぞれ二個ずつ桶を下げて、城の裏手に向かう。小柄で華奢なマリオンだが、力は人一倍あった。自分の膝の高さほど深く大きな桶に、なみなみと水を満たしても軽々と持ち上げられた。二人で三往復もすれば、樽はいっぱいになる。水樽に蓋をして今日の作業は終わった。

それまで黙々と作業をこなしていたキリルが、先ほどの続きの言葉をつぶやいた。

「対抗手段はある」

マリオンは、首をかしげた。

「真名を隠す方法?」

キリルは、笑って首を横に振った。

「そっちじゃない」

思わずマリオンは、瞳をきらめかせて身を乗り出した。

「え、それってどういうこと」

「真名を知られても、呪縛されない方法だよ。明日の夜、自習時間に最上階へ来い。説明してやる」

「今からじゃないの?」

マリオンが首をかしげる。

「準備がいるんだよ」

ひらひらと肩の辺りで手を振りながら、キリルは自分の部屋に戻っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る