魔術師マリオン 魔を喰らう
木崎 百美
第1話
『魔を喰らう』 ――魔術師マリオン はじまりの物語――
創始聖伝の一節
すべては泥と空気と水と熱から成り立っていた。
その混沌の中に、天上界から白い乙女の腕が一本伸びて、手の中の美しい聖杯になみなみと泥をすくいとった。
その泥は、世界の北の隅に聖杯ごと逆さに伏せられ、北の大地となった。
再びそのたおやかな乙女の腕が伸ばされ、新たな聖杯に東の大地をすくい上げた。
そしてさらに新たな聖杯とともに西の大地と南の大地がすくい上げられた。
そのように四たびそれが繰り返され、世界に青い海と四つの大陸が創りあげられた。
その四つの聖杯は、地上のあらゆるものに勝る強大な創始の魔力を宿していた。
聖杯の力を得たものはこの世の全てを統べるとも言われるが、それは聖杯たちの望みではない。
それぞれの聖杯は、四つの大陸のどこかでその地を護るため、闇の奥底深く眠っている。
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世界は蒼くたそがれはじめていた。
大気は、凛として澄んでいる。
ここ北の大陸では、日が落ちた後の五月の空気は肌に突き刺さるように冷たい。
気まぐれに吹く風が、より一層の冷気をそこここに運び、大地に残る太陽の暖かな名残を奪っていく。
荒野の真ん中を二分するように通る街道から、大きく山脈に向かってそれた先には、黒々とした影になりつつある小さな森が見えている。
街道からは遥か遠くに見えるそれは、小さなごくありふれた古い森にしか見えない。
だが、それは見た目の大きさよりもずっと油断がならなかった。
それを知ってか知らずか、そばに近寄って見ようなどという好奇心を起こす者は実際のところほとんどいず、近隣には人も住んでいない。
いや、住んでいないというより、あえて誰も住まず何も作られなかった、というほうが正しいかもしれない。
その森は極めて禍々しく、はるか昔から人々に忌み嫌われていた。
その森へ入る手前の草原に、ほっそりとしたひとつの小さな影が見えた。
森に向かって静かに歩むその影は、まだ少年のようだ。
少し眉を寄せた白い小さな顔に悲壮ともいえるほどの暗い色を浮かべ、ひたりと森を見つめている。
その見つめる大きな双眸は明るい緑色で、見た目の年齢の割には深い叡智と堅い決意をたたえていた。
細身の身体に麻の灰青色の上着と同色のズボン、胸には大きな黒曜石のペンダントがさがっている。上には黒っぽいフードのついたマントをはおっており、よく履きこまれた柔らかそうな革のブーツを履いて、腰には短剣を帯びている。
青いリボンでひとつに結ばれた少し癖のある淡い金の髪が、その背でゆれていた。
少年の名は、マリオンという。
女性の名前で顔も少女めいているが、二ヶ月ほど前に十五歳になったばかりのれっきとした男だ。
ときおり吹く強い風が、彼の長い髪と長いマントをあおったが、さして気にとめたふうもない。
五月になってからようやく新緑を纏い始めたこの闇に沈む小さな、しかしとてつもなく古い森から、少年は目をそらさない。
蒼かった黄昏は、すでに黒に染まりつつあり、じきに完全な闇に沈む。そうなれば、自分の手すら見分けられなくなるだろう。
今宵は新月だ。月光の加護は受けられない。
だが、長い間、彼が待っていたのはこの日だった。
初めてこの場所を知った日から、すでに三年も経っていた。
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ガインの書は歴史上の数々の魔術師たちの行った召喚や封印について、由縁の場所の地図をつけて詳細を述べた古い本だった。
その書は、書庫の古い魔法書の中にひっそりと混じっていた。
二年前のある日、魔術師の工房の図書室で、その古い本を見つけたマリオンは、すぐにその内容に興味を引かれた。
古い書体と言葉で綴られたもので読み解くのに時間はかかったが、逆にそれが謎解きのようで楽しかった。彼はすぐにそれに夢中になった。
工房の図書室は自由に出入りできる場所で、塔の三階部分の約半分ほどががっしりした壁で仕切られて、勉強部屋兼図書室になっている。
弟子たちは、外へ本を持ち出すことはできない。読むのは勉強部屋の中だけで、自室に持ち込むぼですら師匠の許可がいる。
最近は羊皮紙のもののほかに、紙を使った本が出まわり始めてはいたが、当然ながら文字は手書きだ。魔法で書き写すこともできたが、それができる魔術師はごく少数で限られている。それもあって本はたいそう高価で貴重なもので、この工房でも大事に扱われ、金銀宝玉にも等しい宝物とされていた。
マリオンは、勉強と師の手伝いや掃除や炊事の当番の合間を見ては、魔術師の城の図書室に一人でこもり、片端から蔵書を読破していった。
その時間を作るために、いかに手際よく効率よく素早くかつ完璧に仕事を終わらせるか、ということに頭を使っていた。サボっている暇などない。マリオンは、それまでより熱心に、当番をやりきることに情熱を注いだ。
他の弟子たちは、習った魔法や呪文や魔道具の使い方を復習うのに忙しかったが、マリオンはそれを一度で終わらせ、師匠の確認試験もいつも最初に満点を取って終わっていた。これも時間を読書に使いたいためだ。
師匠の話は真剣に聞き、覚えたい呪文は寝る前に復唱してから眠る。
そうすると、朝にはきっちりと頭の中に知識が残っていて、疑問の残っていた部分が洗い出される。翌日に師匠にそこを聞けばいい。あとは実技授業の前にもう一度復習う。それで困ったことはなかった。
もしもできないことがあるなら、その勉強のためになりそうな本を探して読めばいい。
なんであれ、本を読むのは楽しかった。
自分の知らない世界や魔法が、図書室の中に満ちあふれている。
それを自分の中に文字を読みながら少しずつ取り込んでいくのが、とても好きだった。
師であるハイラムは、もちろんそれをとがめるようなことはしない。ここでは、自分で好きなものを見つけて学ぶことも大事なことだとされているのだ。
ここは元々は魔術師の弟子を鍛錬するための工房ではなかった。近隣の村で、普通に暮らしていけない訳ありの子供たちを、ライルという魔術師に預けたのがはじまりらしい。
ハイラムは、どこからかふらりとやって来て村に住み着くと、元からいた村の魔術師ライル老と仲良くなって一緒に住み始めた。
ハイラムもライル老もひょろりとして背が高い。どちらも温厚な態度によく似あった顔立ちで、目鼻立ち自体は似ていないのに壮年の分別と少年のような探究心をその目の中に秘めているところはよく似ていた。
魔術師は年をとりにくいという言い伝えどおり、ハイラムの年齢は見た目だけではよくわからない。二十代のようにも四十代のようにも見えた。ライル老は
二人は仲良く魔術の研究を行い、子供たちに読み書きを大人たちには薬草の使い方等を教えるかたわら、のんびりと畑を耕して暮らしていた。
七年ほど経ったころ、老齢によってライル老が亡くなると、ハイラムは村の外れに石造りの小さな、しかし頑丈そうな丈高い城を作り、そこに住み始めた。
そして、ライル老の代わりに村のあれやこれやの面倒を見始めたのだった。
訳ありだったり身寄りがなかったり、あるいは本気で魔術師志望だったりする少年たちを何人か預かりながら、村で何か困ったことがあれば気軽に相談に応じたり、誰かに手紙を出すときに代書をしたり、治療院のために薬を作ったりしていた。
そのうちに預かる少年たちも一人か二人だったのが、三人四人と徐々に増え、今では十人以上いる。
また、工房では手仕事もいろいろと行なっており、細かい装飾品から大きなものは家具や扉まで工芸品、というよりは芸術品といってよいような物まで創り出し、王都に近い大きな町の市場で売り出すようにもなった。
ハイラムはよそ者ではあったが、面倒見も良く人柄も穏やかで村人の信頼は厚い。工房にいる子供たちもハイラムの指導によって、礼儀正しく字も書け計算もできる賢い弟子たちとなった。
そして、いい魔術師のいる村や町は栄える、の言葉どおり、この村はライルからハイラムの世代とずっと豊かだった。
魔術師を毛嫌いする傾向のある村人たちも、ハイラムについては、いたって寛容な目で見ていた。
マリオンはまだ若いが、かなりの魔力を持っていて、それを自在に操ることができる。それは素性の知れない父親譲りのもので、持って生まれた才能である。魔法を使うことは、彼にとって呼吸をすることと同じ、ごく自然なことだった。
驚いたことに言葉を覚えて口が回るようになるより先に、彼はささやかであるが魔法が使えた。マリオンの魔法は、普通の魔術師たちのそれと異なり、呪文や呪具による力の集束と開放の必要がなかった。
この世界でなんらかの魔力を持って生まれる者は、百人に一人。さらに潜在的に力を持っていても、思春期までにそれが目に見える形で発現するのが、そのうちの三割。修行によって、ある程度の魔法として使えるまでに育つのは、そのうちのさらに半分以下である、と言われている。
千人いたとすれば、その中に一人か二人、魔術師と呼べるほどの素質を持ったものがいる、かもしれない、ということになる。
つまり、世の中には魔法を使える者より使えない者のほうが圧倒的に多い、ということだ。
そしてもちろん、その魔術師と呼べる者たちも、ピンからキリまでいる。
その中で、言葉より先に魔法を使えた者はほぼいない。ただし、これも「ほぼ」であって、絶対ではない。極々まれにマリオンのように、生まれ落ちてすぐに力を使える者もいる。
魔術師は、火水風土の四つの属性のうちどれかを持つ。
これは生まれたときに自然に与えられるもので、自分では選べない。ただ、親が火の魔術師だった場合、子供もそうなることが多いという。
マリオンは、水の属性を持っていた。母が言うには、父親もそうだったとのことだった。
そのため、水を使った魔法に関しては、大人顔負けの手腕を発揮した。雨を呼ぶことができ、川を溢れさせることができ、地下水を探し当て湧かせることができた。
最初は感心し、面白がっていた周囲の人間たちも、川を溢れさせたあたりから眉をひそめる人が増えた。さらに、ところかまわず湧き水が湧いて出てくるようになってからは、彼の母だけでなくその実家である侯爵家にも、遠回しの批難の手紙が匿名で届くようにまでなってしまったと聞いている。
そもそも、どんなに素晴らしい能力を持っていたとしても、その使い方が何もせずにわかるわけではない。魔力の制御や均衡のとり方は、訓練しなければ身につけることができないものだ。
知識もなければ経験もない者にとって、魔力はおのれの欲望を満たすものであったが、それには体力と集中力が必要で、勝手気ままに力を使おうとすることは、ひたすら自分自身をすり減らす行為にしかならない。
実際に何度か体力切れを起こして、熱を出して寝込んでしまったこともある。また、やるつもりのないことまでやってしまったうえに、止められず暴走したりすることもしばしばあった。
マリオンは、六歳の夏に将来を心配した母に連れられて、ハイラムのもとに出向き、弟子としてその工房に預けられることになった。
マリオンは、その夏から己の力を制御する術を学び、世の理を教えられ、魔法を使わない生活の術や戦い方を学んだ。つまり、掃除や料理などの生活力から身を守る体術や剣術、狩猟や動物の扱い、一人で生計を立て生活していける程度の金を稼ぎ出せる手仕事までありとあらゆることを叩き込まれたということだ。また、礼儀作法や一般常識までも、すべてここで身に付けることができた。
マリオンにとって僥倖だったのは、この師が優れた魔術師であったほかに教師としても優れており、しかも慈愛に満ちていたことであろう。
母のもとから離されても、泣くことすらしない頑固で気丈なこの子供は、この師によくなじみ、それゆえに優秀な生徒であった。
そして、この少年は顔に似合わず、気が強く大胆で度胸があり、好奇心旺盛で勉強熱心なあまり、いろいろなことをしでかしがちな困った面も持っていた。
ハイラム師は、マリオンに「呪文」を用いて魔法を使うよう、折に触れ説いて聞かせた。
マリオンの力は、呪具や呪文など必要としない。彼の持つ力は、師ですら測れぬほどで、どこかで歯止めを利かせねば本人の意思とは関わりなく、暴走する恐れがあったからだ。
言葉を使い呪文を唱える、という行為は歯止めに充分とはいえなかったが、それでもその行為は、魔力の解放までに一呼吸置くことができ、何もしないよりははるかにましと言えた。
マリオンはじきに力を制御し、均衡をうまくとる方法を覚えた。
彼は意外といい魔術師になれるかもしれない、とあたりの人間が思い始めたのは、この頃かもしれない。
マリオンは、教えられることは片端から何でも覚え、読んだ知識はきっちり頭に詰め込み、聞きたいことがあれば、誰にでも貪欲に聞いて身体にも覚えさせた。
周りののんびりした者たちは、何故そこまで自分を追い込むのか、とあきれていたが、それは彼にとって大変というよりも、胸躍るわくわくするようなことだったのだ。
そして今、彼は新しい魔法を使えるかもしれないと思いつき、ほとんどうっとりと言っていいほどの表情でガインの書を眺めていた。ここへ来て六年目、彼は十二歳になっていた。
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