06.異変①

 ……一生の不覚。間に合わなかった。

 

 八時を三分過ぎて、集積所の角に挿された黄色いタグだけが、今日の一仕事を終えたような顔で揺れていた。薄い板が空気に噛んで、からかうような音を立てる。

 プラゴミの袋を持ったまま、汐見は呆然と立ち尽くす。

 木曜日。朝のゴミ出しミッションに遅刻したのは、はじめてだった。


「ダメか」


 結んだ口を確かめ、肩を落として袋を持ち帰る。家の中に置くのも嫌だし、かといって玄関先に放置するのはもっと嫌だった。

 最初の綻びは小さい。今日はその「ひと欠け」だ。


 月が変わり、本来であれば夏のレジャーの話題が聞こえてくる時期になっても、いまだに雨は降り続いていた。世界のスピードが緩い。流行病の終息も季節の切り替わりも、足を取られたままだ。

 アスファルトの路面は乾ききらず、アパート前の坂道を川のように水が流れていく。靴裏が吸盤のように水の粒をつかみ、湿りだけが居座って、部屋の中までついてきたがった。


 生活を、しなければならない。そういう割に、今の汐見は単発案件を渡り歩くことしかしていない。

 レギュラーで入っていた居酒屋の厨房は、流行病の影響で店自体がなくなった。焼き鳥の串打ちは得意だった。重さを揃え、向きを揃え、手順を揃えることなら迷いがない。

 逆に言えば、揃えることしかできない。


 眠る朔を部屋に置いて、汐見は家を出た。

 一週間ぶりの、ショッピングモールのバイト。おそらく今日は、品出しメイン。

 開店前の通路で箱を割り、飲料と紙物をフェイスアップ。欠品札とPOPを差し替えて、必要ならレジ応援。BGMが一巡するたびに持ち場が入れ替わり、それで一日が終わる。

 

 最初に気づいたのは、飲料の棚だった。

 一列だけ、ペットボトルの並びが逆になっている。やったのは昨日のシフトの人間か、雑だな、と心の中で悪態をついてラベルを客側に向け直す。フェイスを揃えて三歩下がり、全体の水平を確認。

 

 次の箱を開けて視線を戻した瞬間、さっき直した列がほんの少しずれていた。

 空気の流れのせいか、と自分に言い訳しながら、もう一度、黙って向きを揃える。陳列棚の内側を、薄い結露が静かに登っていた。指で拭えば、すぐまた滲む。

 

 それから、レジのバーコードリーダーがおかしくなった。

 不規則にビープ音が揺らいで、ほんの少しピッチを下げる。店内BGMと音が重なったときの濁りが酷い。

 読み取りは正常で、売価にも問題がない。なのにピッとピッの間が、コンマひとつぶん長い。


 チーフに報告すると、そんな話は寝耳に水だという顔をされた。

 耳の奥を冷たい風が抜け、背中がじっとり汗ばむ。細かいことを言うバイトだと思われたに違いない、と先に肩がこわばる。いや違う、気づいていないのは向こうだ、と胸の内で線を引き直し、黙ってスキャンを続けた。


 シフト終了後に生活の品々を調達した帰り道。

 横断歩道の押しボタンが、触れる前に一度だけ弱く光った。点検か、誤作動か。判断がどうでもよくなるほど、信号の電子音が傾いている。


 踏切の警報音がよろけ、音程がわずかにたわむに至って、我慢できずに線路沿いの道を逸れた。

 バス通りにたどり着き、一息ついて上を見る。

 換気塔の曲面の向こうで、低い唸りが一定に続き、風が抜けていた。


「……おかしい」


 口の中だけで言って足元を見ると、排水溝の蓋から白い泡が噴き出していた。

 換気塔に近づくにつれて強くなる重い鉄の匂い。歩道橋の階段部には、薄汚れた白い結晶が小さく山を成している。

 《境目》を勝手に引き直し、こちら側を狭めてくる合図のようだ。


 半ば何かに追われるような気分でアパートにたどりつき、集合ポストを開けると、水道の検針票があった。

 数字をなぞった瞬間に愕然とした。用心はしていたが、水道料金の上がり方は「半端ない」では済まず、思わず紙面を二度見する。


 しかも『配管点検中 夜十時以降の入浴・給湯をお控えください』という内容の告知チラシまで挟まっていた。その注意書きが頭に入るほどに、じわじわと気が滅入っていく。

 朔が浴室にこもるのはたいてい夕方で、直接の因果はないはずなのに、その遠い端でこれに手を貸しているのではないか――そんないやな連想が、どうしても拭えない。

 

 玄関のドアに手をかける。

 違和感があった。鍵が開いているのに、朔の気配がない。

「ただいま」と大きめに声を出すが、朔の足音が聞こえて来ない。


「朔?」


 返事はない。靴を揃え、室内に入ると、空気の軽さだけで不在がわかる。

 手を洗おうと台所の蛇口をひねると、配管が喉を鳴らし、一拍遅れて水が走った。

 心臓がいやな早鐘を打つ。


 買い物袋とトートバッグを床に置き、改めて三和土を見る。

 やはり、朔のサンダルがない。ユニットバスの戸を開くと、ひやっとした空気が返ってきた。

 鏡は曇っていない。濡れたタオルの端だけが、絞ったあとの皺を浅く残している。


「……あいつ、どこ行ったんだ」


 声に出すと、言葉の方が先に心配を追い越しそうで、すぐに飲み込んだ。


 トートバッグをクローゼットの横に置き直し、窓を少しだけ開ける。外の空気は湿っぽく、港町の朝のような匂いを含んだ風が、一瞬だけ抜けていった。

 買い物袋の生鮮品を冷蔵庫に入れると、落ち着かない手がいつもの掃除へと逃げた。

 雑巾を固く絞り、テーブルの角から一直線に拭く。拭いたあとは木目が少し濃くなり、不規則だったリズムが整う。


 その時、ドアの蝶番がやさしく鳴る音がした。薄い外気が室内へ滑り込む。


「あ、汐見さん」


 声はいつもどおりで、そこでようやく、胸の奥がひとつ落ちる。

 朔は手ぶらで、肩口に白い粉を散らしていた。


「ただいま。なにしてたの」

「ちょっと。炭酸の、飲みたくて」

「売ってなかったのか」


 朔は首を傾けずに、眉だけを少し下げた。肩の白は乾いた塩の結晶のようで、動くたびにきらりと薄い光を散らす。汐見は近づいて、指先で払った。

 粉は音もなく落ちて、その気配だけがフローリングの床にかすかな痕を残した。


「さっき買ってきたやつが冷蔵庫にあるから、飲んでいいよ。コーラかジンジャエール」

「ありがと。一本もらう」

「手洗ってからな」


 パッと顔を輝かせ、弾む足取りでキッチンに向かう朔を見て、そこでやっと、背筋の緊張がほどける気がした。

 さっき払ったはずの白い痕跡だけが、床の上でいつまでも目に引っかかっていた。






◇◇◇

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