05.境界の公園③
「半分こな」
縦に割ったチューブアイスを一本渡す。
朔は外装の切り口を見つめ、どこから開けたらいいのかわからない顔をした。吸い口の方を指差してやると、素直に頷く。
「貸せ」
そう言おうと横を向いたが、声は出なかった。
業を煮やした朔が、吸い口を噛み切ろうとする。
その瞬間、口の奥で、銀色がちらりと光った。
細かい刃みたいな並びが、ひと瞬きだけ反射する。
錯覚にしては、光があまりにも鮮明すぎた。
胸の奥がざわつく。
見なかったことにするのは簡単ではないが、やるしかない。
指先に力が入って、持ったままの外袋のビニールが乾いた音を立てた。
プラスチックの吸い口は、歯でもなかなか割れないらしい。
朔が眉間にしわを寄せている。
ようやく噛みちぎれた瞬間、アイスの中身が勢いよく飛び出した。
「わっ」
唇と顎に白いものが飛んだ。朔が慌てて手の甲で拭うと、さらに広がる。
汐見は大きく息を吸ってから、ポケットからハンカチを出した。
「なにしてんだよ」
決して丁寧とは言えない手つきで、口許を拭う。
朔は目を少し細めて、「汐見さんってやさしいよね」と言った。
「は? 何が」
「こういうの、前もあった。覚えてる? 俺が夜中咳き込んだ時、水持ってきてくれて」
――薄い布団の上で、朔が苦しそうに咳き込んでいた夜。
あれはまだ、『定位置』を導入する前のことだった。
「ちょっと待ってろ」そう言って、キッチンから水を持って戻る。
抱き起こした肩は、驚くほど冷たかった。
出逢った日と同じ、皮膚ではなく骨の近くで冷えている感触だった。人間の体温じゃない、と本能が告げて、身体がひとりでに引いた。
朔は水を飲むと喉が小さく鳴って、数分後には呼吸が落ち着いた。
だが、顔をのぞき込むこともせず「あったまれよ」とブランケットを掛けた自分の声は、今も耳に残っている。
あんなの、ただの誤魔化しだ。汐見は、そう思っている。
あの夜も布の重さでいつものように蓋をして、結局は放り出したんだ。
だから、朔はそんなに大事そうに抱えなくていい。その証拠に、あの夜の換気塔は、見ないふりをしても視界の端で青白く立っていて、まるで俺は断罪されているみたいだった。
目の前で朔がもう一口吸う。朔の唇の端から、一筋、細く濁った白が垂れた。
「またこぼれた……」
「お前は本当にどんくさいな」
情けなさそうにこぼした朔の声に、汐見は笑って返した。
返しながら口の中に薄い塩の味がして、言葉に詰まる。しかたなく一度息を置いて、今度は少し丁寧な手つきで拭うと、そこに細いひびが走っているのに気づいた。
湿った夜なのに、ひびの入ったその部分だけが、砂を噛んだみたいに乾いている。
ハンカチの繊維が、引っかかる音を立てた。
拭う指先の腹に、白い結晶のようなものが少し落ちる。
ベンチの背はひんやりと冷たく、背中の汗が一枚の薄い膜になってそこに貼りつく。
拭う動きが、ふと止まった。
自分の指が、朔の口のかたちをなぞっている――その事実を遅れて認識する。
腹の奥が、わずかに重くなる。
見てはいけないものを見たときの、あのささくれだった感覚とは違う熱が、すぐ近くで擦れ合う。
胸の奥で、音にならない「やめろ」と「触れたい」が薄く衝突した。指先が、自分の意志より先にわずかに引いた。
そこで、ふたりの視線が絡まった。
朔の喉が小さく鳴った。
汐見は先に目を逸らし、崖線の先へ視線を逃がした。
「溶けるぞ」
早く食え、と続けようとして、声が少し掠れたのに気づく。朔は素直に頷いて、チューブアイスを吸う。
息を置く間に、遠くで透明な白が立つ。
跨道橋の向こうに頭だけを出した換気塔は、ゆっくり呼吸しているように見えた。
澱んだ水の色を飲み込んで、白だけを返すように見えた。
濡れた夜気がそこに溜まっていく。粘りを帯びた薄い皮膜が、かつての海と陸との縁を這うようにじわり、じわりと拡がっていく。
塔の肌に走る細い刻みが、煙の中でかすかな陰をつくる。
さっきまで遠かったものが、足元の土にまで浸食してきている気がした。
「……動いた?」
朔が首を傾げた。塔の上の方で、何かがゆっくりと動いた気配がした。それが人影なのか、巨大な何かのしなう影なのか、見極められない。
風の向きが一瞬だけ変わり、遠くの踏切の赤がわずかに滲んだ。耳の底で、呼吸が半拍ぶん遅れて戻る。
汐見は立ち上がり、ベンチの背に残った白い結晶をひと撫でで落とす。
その跡が消えるのを見届けて、やがて塔へと視線を上げた。
◇◇◇
次回から【21:05】更新になります。
今夜21:05にも最新話をUPします。
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