第四章:脳を焼く野蛮な味

(ディア視点)


目の前に差し出された丼、その中で湯気と油が踊っている。

下品な化学調味料の匂い、庶民の話し声、ぎらぎらと反射する安っぽい蛍光灯の光。

その全てが、わたくしの感覚を暴力的に侵してくる。



「W玉中華そば、カタメで」と、あの男が注文したもの──それが、今、わたくしの前に突き出されている。



レンゲを取る手が自然と震えた。

こんな環境で、食事を摂るだなんて信じがたい。

でも、向かいの男は涼しい顔でこちらを見ている。


「どうした? まさか怖気づいたんじゃないだろうな」とでも言いたげな視線。


わたくしのプライドが、その挑発を見過ごすことを許さない。


「……いただきますわ」


形だけでも礼儀を守り、レンゲでスープをすくう。

とろりとした脂が表面に膜を張り、少し掬うだけで油の輪が広がる。

恐る恐る唇を寄せ、一口。熱い塩気と旨味、脂肪分と化学調味料が一気に舌の上で弾けた。



「ッ……!」



まるで脳天を直接殴られたかのような衝撃が走る。

全てが強すぎる。上品さのかけらもない。

だけど、その強引さが、不思議な快感をもたらす。

濃厚な塩分と脂が、味覚の奥深くまで突き刺さってくる。何かが破壊されるような感覚。


「こんな、下品な味が……なぜ……?」


口の中に、知らなかった種類のおいしさが暴力的に広がっていく。

身体が勝手にもう一口を欲する。レンゲが止まらない。

あの男の視線を感じて、わたくしはつい睨み返してしまった。


『悔しい』


でも、悔しいからこそ、認めたくなかったからこそ、スープをまた一口。

今度は麺を、次はチャーシューを。


──「美味い」という感情が、理性の壁を簡単に突破してしまう。

どんなに値段が高くても、どんなに格式があっても、こんな衝動の前では無力だった。


「……おかわり、くださいませんこと?」


思わず口をついて出た自分の言葉に、自分でも驚く。

男は思い切り吹き出して、からかうような笑みを浮かべる。


「ほんとに大丈夫かよ、お嬢様?」


「だ、だいじょうぶですわっ!」


必死に取り繕うけれど、内心はもうぐちゃぐちゃだった。

自分の価値観が崩れそうで怖い。でも、怖いのに、レンゲを置けない。

──おいしい、もっとほしい。欲望に抗えない。



~~~



気がつけば、周りのざわめきも、脂っこい空気も、もう気にならなかった。

目の前の丼だけが、わたくしの世界の全てになっていた。


「……美味しいですわ、これ」


ぽつりと呟くと、男がじっとこちらを見ていた。

その顔は、どこか満足げで、でも驚きも混じっていた。


「ほら、こういうのも悪くないだろ」とでも言いたげなその顔が、なぜか焼きついて離れない。



(どうして? こんなものに……)



自分の世界が、どんどん崩れていく。完璧だったはずなのに、計算も値段も関係ない野蛮な味に、理性が一口ずつ溶かされていく。

こんなものに支配されてたまるものか──そう思うのに、身体はもう「もっと」と求めてしまう。



帰り道、夜風が妙に生暖かい。

丼を完食した満足感と、敗北感が胸の奥でぐるぐると渦を巻く。

男は「また連れてきてやるよ」と軽く言い、さっさと歩き出した。

その背中を、わたくしはつい目で追ってしまう。



──ああ、こんなものに。わたくしが、負けるなんて。



プラチナブロンドの髪が夜風に揺れる。

ダイヤモンドのような瞳に、少しだけ曇りが差した気がした。



完璧な世界に、小さな亀裂が走った夜だった。

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