後編 夜明けの旅立ち

「なるほどねえ……とうとう御老体の堪忍袋が破裂したわけだ」


 そう言ってドミナは、二杯目の香草茶を口に含んだ。冗談めかした物言いだが、口元に笑みは無い。カップの縁越しに、エルフの女は青灰の瞳でオクオの様子をじっとうかがった。


「ワイ、追放されたらどうなるんやろ……」


 オークの青年がぽつりとこぼす。思案気にしながら答えるドミナの言葉は、声色こそ優しいが、つきつける現実は厳しいものだった。


「里を出て一人か。まず生きていられる保証は無いな。ここらの土地は人族の勢力圏だ。遠く旅をするのも難しい。前にも教えたろ、人族がオークをどう見ているか」


 人族が学問所で学ぶオークに関する〝常識〟を、ドミナはそらんじ始めた。


【オーク】

 亜人類のひとつ。森や荒れ地に棲む蛮人。共通語の話者だが知能は低い。青灰や緑色の肌、岩のような巨躯、太く発達した顎に鋭い二本牙を持つ。人を食らい、人を攫い、繁殖のために他種族の女をも孕ませる。原始的な狩猟採集生活を営み、ときに暗闇に潜んで人を狩り、命と共に財貨を奪う。数が増えれば飢えて共食いを始め、人を襲うなど害を成すことしか知らない害獣種族――


 聞き終わってオクオは、二本牙の間から長く深いため息をついた。低い風鳴りのようなその音は、多くの呆れに、わずかな苛立ちを含んでいる。


「誰が言っとるのそれ。間違いだらけで、いつ聞いても酷いんやが」


 うんざりとして、オクオは苦笑いする他ない。しかし。


「人族も亜人も見境なく、女を攫ってくるのは間違ってないだろ?」

「いや、まあ、それはそうなんやが……ワイは荒事、好かんから……」


 空になったまま手にしていたカップをテーブルに置いて、ドミナは静かに語り始めた。その面容は、施術のときに見せていた少々やんちゃな、エルフの姉御風ではなかった。教え導くことの意味を知る、知恵ある魔女の顔である。


「いいかい、オクオ。よくお聞き」


 長命種族の賢人のみが宿す特有の威厳が、オクオの小さな小屋を重たく包みこんでいた。なぜかは知らず、オクオは居住まいを正してドミナの言葉に耳を傾ける。


「おまえ個人がどう思おうと、おまえ自身が何をするしないにかかわらず。オーク族が人族とわかり合うのは、難しい。ましてや、おまえは外の世界をまるで知らない。里長に従い、掟に従って生きるのが身のためだ」


 黙ってドミナの諭す言葉を聞いていたオクオだが。外の世界を知らない、おまえの身のためだ――そう結ばれて、オクオは小さな反抗心を呼び覚ましてしまった。


「そんなこと言うけどな。ドミナだって半ぶ――」


 とオクオが言いかけたところで、突然――重たい空気が、さっと消え失せ軽くなった。ふっくりとした口元を大きく開けて、ドミナは大声でオクオの抗弁を遮った。


「あーっ、いけない!」


 椅子をはねのけて立ち上がり、ドミナがまくし立てる。


「〈みやこ〉から頼まれてた仕事の仕上げ、すっかり忘れてた」


 続けざまに言い放ったのは、半ば言いがかりである。


「おまえが遅刻したせいだ。万全の状態で徹夜しようと思ってたのに! まったく、おまえの施術は気持ち良すぎていけない」


 森の夜はすっかり深い。耳をすますまでもなく、妖魅どもの跋扈が立てる、風ならぬ葉音がそこかしこから聞こえていた。


 急な変わりように驚きながらも、オクオは信頼する年上女性の身を案じた。


「ドミナが住んどる街、こっから二日はかかるんやろ。この時間に森を抜けるのはやっかいや。今夜は泊まっていったほうがええで。仕事より命が大事や」

「ふんっ、なめてもらっては困る。これでも大魔導士と謳われる魔女なんだからね」

「よう言うわ。隠居してもうウン十年言うとったやないか」


 心配ゆえのオクオの軽口を、ドミナは「十年なんて昨日も同じさ」と意に返さない。それに――と継いで、


「〈天馬〉で帰るから問題なし。夜間飛行は気分がいいしな」


 ドミナの言葉に合わせるように、小屋の外から馬のいななきが聞こえた。


「天馬ゆーても、街につくまでに夜が明けるんちゃうの?」


 オクオの心配はもっともだ。オクオの小屋から森を抜け、近隣の街まで至る道は、徒歩で二日はかかる距離である。しかし、ドミナはまったく気にするようすがない。そそくさと身支度を整えると、さっさと小屋から出ようとする。


 慌ててオクオは後を追う。小屋の裏手に回ると、そこには繋がれもせずおとなしく、一頭の銀色の馬が佇んでいた。肩のあたりからは、大鷲のものによく似た形の大きな翼が生えている。全身を覆う銀の輝きは毛並みではない。魔力を宿した銀そのものの煌めきだ。


「ほらね、ただの〈天馬〉じゃないのさ。心配ないって、オクオ。この子で飛べば、一時間かそこらで街に着くから」

「どんなインチキや……さすがに速過ぎやろ」


 呆気にとられるオクオの前で、ドミナは颯爽として天馬の背に乗る。


「こいつは神代から伝わる私秘蔵の魔道具さ。みんなには、ないしょだぞ」


 馬上で天馬のたてがみを撫でながら、ドミナはオクオへの念押しを口にする。


「いいかいオクオ。めったなことを考えるんじゃあないよ、いいね」


 そう言うや、銀の天馬はひとつ大きく羽ばたいた。とたんに天馬は軽々と、空高く飛び上がってしまう。


「またなー、オクオっ」


 オクオが見上げる頭上から、ドミナは別れを告げた。天馬は夜空に銀線を一筋を描いて飛び去り、闇に消えた。後に残るのは、樹木の間からのぞく月明かりと、星の瞬きのみである。


「ええなあ、あの馬。ワイも一緒に乗せて……いや、さすがに重すぎて飛べんか」


 再び独りになったオクオは、うらやむように呟いた。


 そして――ドミナが街で暮らせているのだ。自分も人族の街に受け入れてもらえるのではないのかと。オクオは軽く、考えた。



    §


 小屋に戻り、先ほどまでドミナが寝ていた寝台に仰向けに横たわると、里長からの最後通告について、オクオは再び思案を始めた。


「掟、おきて……なあ」


 なぜ――自分は掟に従えないのだろう。なぜ、荒事を生来好まないのか。オクオ自身にも、理屈がよく分からない。血を見て倒れるようなやわな育ちはしていない。現に、食べるために獣を狩るのは、厭わないのだ。


 しかし、世界に生きる「神より与えられた人語を等しく解する者」たちの命を、生きるための掟とはいえ、見境なく狩るなどと――こんなときに限って、苦しい想い出が心に浮かんでしまう。


 ――初めての、最初で最後の人狩りに出たときのことだ。三年前の出来事である。オクオにとって最悪の、酷い経験となった。


 オクオが赤子の頃に、人族に殺されたという父親。オークの戦士が我が子に残した形見の金砕棒かなさいぼうは、オクオにとっても得意の得物である。それを獣狩りで振るうのは容易いのに、人を相手には振るえなかった。ましてや、か弱い女を無理やりに攫うなどと。オクオは人狩りの場から、皆に背を向けて逃げ出すことしか出来なかった。


 泣き叫ぶ女たちがいた。血と怒りと絶望に染められた男たちの首が、次々に宙を飛んでいた。火をかけられ燃え上がる人族の家屋を焚火代わりにして、人か獣かも分からない肉を炙って貪る仲間――そんな光景を見てオクオは、嘔吐したのだ。


 獣しか相手にできない〈弱き者〉――事が終わって付けられたのは、生まれついての戦士を自認するオーク族にとって、もっとも不名誉な肩書だ。


 以来、オクオは里を離れてひとり、森の中に小屋を構えて暮らすようになった。


 苦い思い出には違いない。だが、本当に悪いことなのだろうか? 〈弱き者〉であることは。オクオには、心底分からないままだ。


 人族や、異なる亜人の血を引く半オークは他にもいる。他の混血たちは皆と同じように振舞えるのに。なぜ自分だけが違うのか。理由を教えてくれたかもしれない両親は、とうにいない。父親は人族に殺され、人族だという母親も、オクオを産んで間もなく死んだと聞いている。二親の姿かたちを、オクオはまったく知らなかった。


「神さまもなあ、もっとおとなしい生き物に、ワイらをこさえてくれたらよかったんや……」


 人族はオークを野蛮な害獣種族と教えるが。オーク自身は、神話の時代に神によって生み出された、戦士の種族であると伝えている。闘いの中にこそ、我らオークの存在意義がある。頑健な男ばかりが生まれ、女の数が極端に少ないのもそのためだ。神はそのように、我々を作られた。生きるために足りない女は、他から奪うのが必然。新たな力を種族の血に取り入れて、より強くならねば――


「めちゃくちゃやろ、何考えとるんや神さまは」


 神話に語られる種族の出自をなじってみても始まらない。結局はいつも「ワイに荒事は無理や」となって終わる。いくら考えても堂々巡りだ。考えるのがくだらなく思えてきて寝てしまう――しかし、今夜はそうはいかなかった。


 それに。もっと大切なものが、オクオにはあった。外の世界への強い憧れである。


 ドミナに出会ってから、里の中では知りえなかった多くの知識と、外に広がる様々な世界のことを知ってしまった。里の掟だけが、世界のすべてではないのだと。


 荒事には向かなくても、自分の居場所があるのかもしれない。それにどうやら、自分には他のオークとは違う、変わった才能があるらしいのだ。


 平たく言えば、それは按摩の術だった。筋肉などを揉み解して体を整える手技である。それを教えてくれたのは、ほかでもない。魔女のドミナだ。


 オクオ自身はその手技を〈肩もみ〉と呼ぶ。首や背中、足を揉んでも、すべて〈肩もみ〉だ。最初に〝コツ〟を教わったのが、凝りに凝ったドミナの肩を揉んだことに由来する。簡単な力加減と手の使い方程度しか教えられなかったのだが。ときどき小屋を訪れるドミナを〈肩もみ〉するうちに、自然と施術と呼ぶのに相応しい技術を、オクオは身に着けていた。


 この力を、この技を、誰かの役に立ててみたい……荒事ばかりがたつきの道ではないはずだ。追放か、掟か。自分は今、分かれ道に立っている――ならば。


「ドミナかて、人族の街に住んどるんや。ワイが住めない道理は……ない!」


 少々楽天にすぎるとはいえ、とにかく、オクオの心は決まってしまった。がばりと体を跳ね上げ、寝台から起き上がる。


「よし!」と気合の声をあげ、大きな手のひらで自らの両頬を叩いた。派手な音と共に、暗い気持ちが消え失せる。胸の内はすっかり軽い。新たな一歩を心に決め、逸る気持ちでいっぱいになっていた。


 持ち出すものは、父親の形見の金砕棒。使い慣れた施術の道具一式と、膏薬を練る薬研と小さなすり鉢。そして――自分を拾ったという長老から渡された、割れたペンダントの片割れのみ。


 数日分の糧食を背負い鞄に詰め込んで、用心のために使い慣れた革鎧に身を包むと、オクオは夜が明ける前、小屋を去った。


 育ったオークの里を捨てて目指すのは、近隣に栄える人族の街。エルフの魔女にして大魔導士のドミナも暮らす、交易都市。オース川とベルク川の交わるところ――オースベルクである。

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