第29話 守られたヒロインたち。彼の背中があまりにも大きすぎて

「……終わった、のかしら」


ルルディナ島の砂浜。

嵐が去り、静寂を取り戻した夜の海辺で、セリス・アルフォンスは呆然と呟いた。


彼女の視線の先には、一人の少年の背中がある。

麦わら帽子を被り、片手には何の変哲もないクワ。

そしてもう片方の手で、子犬サイズになった神話級モンスター『暴食の巨神(ポチ)』の首根っこを掴んでぶら下げている。


「よしよし、大人しくなったな。後でココナッツの殻でハウスを作ってやるからな」


クロムは、まるで捨て犬を拾った少年のような気軽さで、かつて島を沈めかけた怪物に話しかけていた。


月明かりに照らされた彼の背中は、いつもと変わらない。

少し猫背で、気だるげで、どこにでもいる農家の少年のようだ。

けれど、今のセリスたちの目には、その背中が果てしなく巨大で、遠いものに見えていた。


「……勝てないわね」


セリスは木刀を下ろし、乾いた笑みを漏らした。

彼女は「剣姫」と呼ばれるほどの自信家だ。同年代に敵はいないと自負していた。

だが、今の光景を見て、嫉妬すら湧かなかった。

次元が違う。

天候を書き換え、神をペットにする。

それは「強さ」という物差しで測れる領域を超えていた。


「私たちは……ただ見ていることしかできませんでした」


アイリスが砂浜に座り込み、膝を抱えた。

彼女の眼鏡はどこかへ行ってしまったままで、その素顔は悔しさに歪んでいる。


「生徒会長として、みんなを守るつもりでした。結界を張り、指揮を執り……でも、クロム君がいなければ、私たちは今頃、あの熱波で消し炭になっていたでしょう」


彼女の白い肌には、煤汚れがついている。

必死に抗った証だ。だが、その努力さえも、クロムの一撃の前では霞んでしまう。


「クロム君……」


ミナは無言で、クロムの背中を見つめていた。

彼女の瞳には、涙が溜まっていた。

幼馴染として、彼が強くなったことは知っていたつもりだった。

けれど、想像以上だった。

彼はもう、彼女の手の届かない、遥か彼方の英雄になってしまっていたのではないか。

そんな不安が、胸を締め付ける。


「おーい、みんな! 怪我はないか?」


クロムが振り返った。

いつもの、屈託のない笑顔だ。


「ポチも反省してるみたいだし、コテージに戻ろうぜ。腹減ったろ?」


彼の明るい声が、重苦しい空気を切り裂く。

彼にとっては、神話級の戦いも「ちょっとした害獣駆除」に過ぎないのだ。


「……ええ、行きます」


セリスは立ち上がり、砂を払った。

アイリスも、ミナも、無言で頷く。

三人は並んで、クロムの後ろをついて歩き出した。


   ◇


コテージに戻ると、クロムは早速ポチの世話を始めた。

テラスの隅に即席の寝床を作り、餌としてサトウキビの切れ端を与える。


「キュッ! キュイッ!」

ポチは嬉しそうに尻尾(岩石)を振ってかじりついている。


「よしよし、いい子だ。冬になったら温室でいい仕事しろよ」


クロムは満足げに頷くと、冷蔵庫から冷えたお茶を取り出し、テーブルで待つ俺たちに配ってくれた。


「ほら、飲めよ。魔力嵐に当てられたんだ、水分補給しないと倒れるぞ」


コップを手渡される。

冷たい液体が喉を通ると、張り詰めていた緊張の糸が、ふつりと切れた。


「……クロム」


セリスが口を開いた。


「ありがとう。……また、助けられちゃったわね」


「ん? ああ、礼には及ばないさ。俺の畑を守るついでだ」


クロムはあっけらかんと言った。

「ついで」。

その言葉に、セリスは苦笑した。


「貴方にとっては『ついで』でも、私たちにとっては命拾いよ。……悔しいけれど、貴方の背中は大きすぎるわ」


「背中?」

クロムが自分の背中を振り返ろうとする。

「別に大きくないだろ。最近ちょっと日焼けしたくらいで」


「物理的な話じゃないわよ、鈍感ね」


セリスはテーブルに肘をつき、クロムを真っ直ぐに見つめた。


「私は決めたわ。今はまだ、貴方の背中に守られているだけかもしれない。でも……いつか必ず、貴方の隣に並んでみせる」


彼女の瞳に、剣士としての新たな炎が宿る。

ただ守られるだけのヒロインで終わるつもりはない。

最強の男のパートナーになるには、自分もまた最強でなければならないと悟ったのだ。


「私もです」


アイリスが顔を上げた。

眼鏡がないせいで、その瞳はいつもより潤んで見えるが、意思の強さは変わらない。


「生徒会長として……いいえ、一人の魔術師として、貴方のサポートができるようにもっと精進します。……今日みたいに、ただ震えているだけなんて、もう嫌ですから」


彼女はクロムの手を、そっと握った。


「貴方が畑を耕すなら、私はその土地を守る柵になります。貴方が安心して背中を預けられる存在に、なってみせます」


「会長……」


クロムは少し照れくさそうに頬を掻いた。


そして、ミナ。

彼女は席を立ち、クロムの背中に飛びついた。

ギュッ、と強く抱きしめる。


「クロム君!」


「うおっ、ミナ? どうした?」


「私ね、遠くに行っちゃったかと思った」


ミナの声が震えている。


「クロム君が凄すぎて……私のことなんて置いて、またどこかへ行っちゃうんじゃないかって。……怖かった」


「ミナ……」


「でも、捕まえた!」


ミナは顔を上げ、クロムの首に腕を回した。


「私、諦めないから! アイドルも頑張るし、花嫁修業も頑張る! クロム君がどんなに遠くに行っても、絶対にしがみついて離さないんだから!」


彼女なりの、精一杯の宣言だった。

力の差なんて関係ない。

想いの強さなら誰にも負けないという、トップアイドルとしての意地と、幼馴染としての執念。


「……ははっ、お前らなぁ」


クロムは観念したように笑い、ミナの頭を撫で、アイリスの手を握り返し、セリスに視線を送った。


「俺はどこにも行かないよ。ここにいる」


彼は窓の外、星空の下に広がる畑(まだ更地だが)を見やった。


「俺の夢は、ここで野菜を作って、美味い飯を食って暮らすことだ。……一人じゃ寂しいからな。お前らがいてくれないと困る」


「クロム……」


「だから、まあ……これからもよろしく頼むわ。俺の背中、お前らなら預けてもいいと思ってるからさ」


その言葉は、どんな愛の言葉よりも、彼女たちの胸に響いた。

最強の元ハンターが、唯一弱みを見せられる場所。

それが自分たちなのだと認められた瞬間だった。


「……もう、調子いいんだから」

セリスが目元を拭う。

「ええ。仕方ありませんね、付き合ってあげます」

アイリスが微笑む。

「やったぁ! 一生一緒だね!」

ミナがスリスリと頬ずりをする。


「分析完了。この空間における幸福度は最大値を記録しました」

隅っこで記録係をしていたルルも、満足げにカメラを置いた。


夜は更けていく。

嵐のような一日が終わり、コテージには穏やかな時間が流れていた。

クロムの大きな背中は、もう遠い存在ではない。

彼女たちにとって、寄り添い、支え合い、そしていつか追い越すべき目標となっていた。


「さあ、明日は最終日だ! ポチにも手伝わせて、一気に開墾するぞ!」

「えー、まだ働かせるの?」

「当然だ。スローライフは忙しいんだよ」


笑い声が響く。

守られたヒロインたちは、もうただ守られるだけの存在ではない。

彼女たちはそれぞれの決意を胸に、最強の「園芸部」として、次なる一歩を踏み出そうとしていた。


……そして翌朝。

「クロム君の布団に誰が潜り込むかジャンケン大会」が開催され、寝不足のクロムがポチと共に逃げ出すことになるのは、また別のお話。

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