第2話 奈落の底と、死の淵での覚醒

激痛で、意識が浮上した。


「ぐ、あ……ぁ……」


 声にならない呻きが漏れる。

 全身が熱い。いや、冷たいのかも分からない。感覚が麻痺し、体の輪郭が曖昧になっている。

 目を開けても、そこにあるのは濃密な闇だけだった。

 腐臭と、カビの臭い。そして、濃すぎるほどの魔素(マナ)の淀み。


「は、ぁ……はっ……」


 呼吸をするたびに、肺が軋む音がする。肋骨が何本かいっているらしい。

 僕はなんとか首だけを動かし、自分の状況を確認しようとした。


 背中には、クッション代わりになった巨大な背嚢(リュック)が押し潰されている。

 中に入れていた大量の衣類やテント、保存食が衝撃を吸収してくれたのだろう。もしこれがなければ、即死していたに違いない。

 だが、代償は大きかった。

 背嚢の中で割れたポーションのガラス片が背中に突き刺さり、漏れ出した液体と僕の血が混ざり合って、生温かい不快感を生んでいる。

 両足は不自然な方向に曲がっていた。感覚がない。恐らく、脊椎も無事ではないだろう。


「あ……あぁ……」


 絶望が、痛みよりも重くのしかかる。

 助かった、なんて思えなかった。

 ここはSランクダンジョンの最下層、奈落の底だ。

 光も届かず、救助も来ない。

 ただ、緩慢な死が待っているだけの場所。


(死ぬのか……このまま……)


 悔しさが込み上げてくる。

 ファルコンの嘲笑う顔。ヴィエラの冷たい目。リナの裏切りの言葉。

 走馬灯のように、彼らとの日々が蘇る。

 尽くして、尽くして、尽くして――最後はゴミのように捨てられた。


(嫌だ……死にたくない……!)


 泥のような地面を、動かない指で掻く。

 生きたい。

 生きて、あいつらに思い知らせてやりたい。

 僕を捨てたことを、一生後悔させてやりたい。


 その時だった。

 頭の中に、無機質な声が響いたのは。


『――システム起動。マスターの生命活動が低下しています』


 幻聴か?

 いや、はっきりと脳に直接語りかけてくる。


『ユニークスキル【ダンジョンマスター】の覚醒を確認。緊急措置を実行します。周囲の有機物を「収納」し、身体修復リソースへ変換してください』


「しゅう……のう……?」


 何を言っているんだ。

 僕のスキル【収納】は、生きていないものしか出し入れできない。

 それに、今は魔力もほとんど残っていないはずだ。


 カサ、カサカサ……。


 闇の奥から、複数の足音が聞こえた。

 何かが近づいてくる。

 鼻を突く強烈な死臭。

 暗闇に、赤い複眼がいくつも浮かび上がった。


「ギチチ……」


 現れたのは、犬ほどの大きさがある巨大な蟻だった。

 『コープス・アント』。死肉を漁る最下層の掃除屋。

 強靭な顎は、鉄の鎧さえも噛み砕く。

 それが三匹、四匹……いや、十匹以上。

 血の匂いを嗅ぎつけて集まってきたのだ。


「くる、な……」


 僕は震える手で、近くに落ちていた折れた剣の柄を掴もうとする。

 だが、指に力が入らない。

 蟻の一匹が、僕の足に喰らいついた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 激痛が走る。

 肉が千切られ、骨が砕かれる音。

 生きたまま喰われる。最悪の死に方だ。


(ふざけるな……僕の体だ……お前らのエサじゃない……!)


 恐怖と激痛が限界を超え、思考が白熱する。

 殺意が爆発した。

 目の前の怪物を、排除したい。消し去りたい。


 僕は本能のままに、喰らいついている蟻の頭に手を押し付けた。

 いつものように、荷物をしまう時の感覚で。

 念じるのは「消えろ」という強い意志。


「【収納】ッ!!」


 ブォンッ!


 空間が歪んだ。

 僕の掌を中心に、黒い渦が発生する。

 それは今まで僕が使っていた、ただ物を出し入れするだけの優しい亜空間への入り口ではなかった。

 あらゆるものを強制的に呑み込む、暴虐な捕食の口。


「ギ、ギチ!?」


 蟻が悲鳴を上げる間もなかった。

 巨大な頭部が、身体が、瞬く間にねじれ、圧縮され、僕の手のひらの中へと吸い込まれていく。

 抵抗など許さない。絶対的な支配力がそこにあった。


『対象:コープス・アント(Lv25)を収納しました』

『解析完了。有機リソースへ分解します』

『身体修復を開始――』


 ドクンッ、と心臓が大きく跳ねた。

 蟻を吸い込んだ手から、熱い奔流が逆流してくる。

 それは血液のように血管を駆け巡り、全身に行き渡った。


「あ……熱い、うぐッ……」


 食いちぎられた足の傷口が、泡立つように再生していく。

 折れた骨がパキパキと音を立てて繋がり、潰れた筋肉が盛り上がる。

 痛みは快感へと変わり、力がみなぎってくるのを感じた。


「な、んだこれ……」


 僕は呆然と自分の手を見つめる。

 コープス・アントを一瞬で消し去り、その生命力を自分のものにした?

 これが僕のスキルなのか?


 周囲の蟻たちが、仲間の消滅に動揺している。

 後ずさりし、触角を激しく動かしている。

 だが、もう遅い。


「……足りない」


 僕はゆらりと立ち上がった。

 あんなに酷かった傷は、あらかた塞がっている。

 けれど、まだ空腹だ。

 腹の底が空っぽで、何かが猛烈に欲しい。

 魔力が、生命が、魂が欲しい。


「お前ら全員、僕の糧になれ」


 僕は両手を広げた。

 闇の中で、僕の目が妖しく光るのを感じた。


「【収納】」


 今度は、接触する必要すらなかった。

 僕の意志に呼応し、周囲の空間そのものが牙を剥く。

 範囲内の蟻たちが、逃げ惑うこともできずに次々と黒い渦へと吸い込まれていく。


「ギィィィ――!」


 断末魔の合唱は、一瞬で途絶えた。

 十数匹のコープス・アントは、一匹残らず僕の亜空間へと消え失せた。


『リソース回収完了。身体機能、完全回復』

『レベルアップを確認。ステータス調整中……』

『スキル【ダンジョンマスター】の権能解放。第一段階:領域支配が可能になりました』


 システム音声と共に、視界が開ける。

 暗闇だったはずの景色が、まるで昼間のように鮮明に見えるようになった。

 壁の材質、空気の流れ、魔素の濃度。

 すべてが手に取るように分かる。


 僕は理解した。

 死の淵で、僕は人間を辞めたのかもしれない。

 だけど、そんなことはどうでもいい。


 僕は生き残った。

 そして、この理不尽な世界に復讐するための「力」を手に入れたのだ。


 足元に転がっていた勇者パーティーの荷物――割れたポーションの瓶や、散らばった保存食を、僕は無造作に【収納】した。

 以前のような、重さを感じることも、魔力の枯渇を心配することもない。

 世界そのものをポケットに詰め込むような、全能感。


「ここが、僕の新しい家か」


 奈落の底。

 誰もが恐れる死の世界。

 けれど今の僕には、ここが何よりも心地よい場所に感じられた。


「待っていろよ、ファルコン。リナ。……今度は僕が、お前たちを【収納】してやる」


 暗闇の中で、僕は笑った。

 奈落の底で産声を上げたのは、復讐に燃える一人の魔王だった。

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