第13話 一線を超える貴族たち
貴族たちは、何度目かの叱責に黙っていた。しかし、国王の気弱さと権力の偏り、貴族達の力が強すぎた王国というお国柄に徐々に口が軽くなる。
酒が回り、距離があけば、じわりじわりと本音が漏れはじめる。
広間の一隅。
壁際にたむろする数名の貴族が、杯を持ちながらひそひそと声を潜めた。
だがその声は、魔族の耳にはあまりにもよく届く。
「しかし……見るに堪えんな。姫様は凛としたお方だというのに、あの魔王ときたら」
「魔王に嫁ぐなど正気とは思えぬ。血が濁る。王家の者があんな……異形と」
「ふん、四天王とやらもこの程度か。筋肉の塊に、けばけばしい魔女に、白髪の冷血女……そしてあの黒衣の色男。どいつも人の国には不要だな」
酒に濁った笑い声が漏れた。
「中でもひでぇのはあれだ。魔王の隣にいた銀髪の女……なんだ?家畜か?」
「不気味な目をしおって。ああいうのが乳飲み子を攫って喰らうのだろう?」
「いやいや、あれは魔王の“男娼”だろう? 男ではないかもしれんが。どちらにせよ、汚らわしい」
その場の空気が一瞬で変わった。
ミラリエルが扇子を握る指に力をこめ、布がぱちりと鳴った。
バルグロスの肩の筋肉がぎしりと盛り上がり、椅子が軋んだ。
ザハルトは微笑を浮かべたまま、黒い霧のような魔力を滲ませている。
ただ一人、ノクティアだけがこちらを見ず、静かに杯に触れていた。
怒りを見せることすら無駄だと言わんばかりの沈黙。
「それに比べて我らは誇りある“人”であるからな」
貴族の一人が胸を張り、傲慢に笑った。
「魔族の女など、所詮は野良犬よ」
「そうだとも! あの姫様が、あんな薄汚れた連中と同じ卓についておられるなど……国辱もいいところだ!」
「しかしまぁ致し方ないですかな?所詮姫様は妾の子。国王に他に御子がおらぬからなぁ。」
笑い声が広間の壁に濁って響いた。
その瞬間、室内の温度がひと息で落ちた。
風も無いのに燭台の炎が揺れ、影が床を滑るように伸びる。
魔力の波がわずかに震え、近くにいた侍女たちが思わず肩を寄せ合った。
テーブルの中央で静かに杯を置いた魔王が、ゆっくりと顔を上げた。
ノクティアは動かない。
だが瞳だけが、深い夜の色に沈んでいく。
四天王はそれぞれに身構えた。
姫は青ざめて口元を押さえた。
そして――広間の全員が悟った。
ここから先は、
「誰かが止めなければ国が終わる」
そんな空気に変わりつつあった。
ノクティアは眉ひとつ動かさない。
ただ、瞳の奥に冷たい光が宿る。
ミラリエルは扇子を閉じ、その指先に魔力がにじむ。
ザハルトは貴族席へ視線を向けただけで数人が震え上がった。
バルグロスは椅子を軋ませ、立ち上がる寸前だった。
しかし、誰よりも静かだったのは魔王だ。
ワイングラスを置いた指が、かすかに震えていた。
それは怒りではない。
怒りを――抑え込んでいる証だった。
姫が席を立ち、震える声で叫んだ。
「陛下への侮辱、断じて看過できません!
ご無礼を……どうか、どうかお許しを――!」
必死の声が広間に響く。
魔王はゆっくりと顔を上げた。
その表情は、驚きほどでもなく、怒りほどでもない。
ただ、深い深い沈黙の底にあるものが滲んでいた。
「……なぜ、姫が謝る」
その声音は低く、静かで、むしろ穏やかですらあった。
しかし、広間の空気が瞬時に凍りつく。
魔王は立ち上がった。
黒いマントが静かに揺れる。
その一動作だけで、貴族席の数名が椅子を蹴って後ずさった。
「今しがたの言葉。聞こえていたぞ」
声が響くたび、空気が震えた。
「魔族を“畜生”と呼び、姫を“妾の子”呼ばわりし、
私を貶すことで自らの誇りを保とうとする。
浅ましい」
貴族席の数名が青ざめる。
その様子を、姫は胸を押さえながら見つめていた。
魔王が自分のために声を荒げた――
それだけで胸が焼けそうに熱くなる。
だが魔王は、姫を見つめて言った。
「お前が詫びる必要はない。
責められるべきは、己の浅さも知らぬ者どもだ」
その言葉に、貴族席に視線が集まった。
魔王は続けた。
「私は魔王だ。誇りを持ってその名を名乗っている。
力を誇るつもりはないが……
侮辱を飲み込むほど、私は安くも弱くもない」
ノクティアが息を飲んだ。
ミラリエルは思わず扇子を胸に当てる。
ザハルトは感情が昂ぶりすぎて椅子を割りそうになっていた。
魔王は静かに言葉を重ねた。
「我ら魔族は、獣ではない。
感情も、誇りも、歴史も持つ者だ。
それを知らず、知ろうともせず、
ただ外見だけで裁こうとする――そんな者たちと」
ほんの一瞬、目を伏せた。
「……ともに歩むことはできんな。」
姫の呼吸が止まった。
背後の侍女たちの顔色が一斉に蒼白になった。
その意味は――誰にでも分かった。
魔王は姫を見つめた。
怒りではなく、哀しみに似た光が宿っていた。
「姫。お前の振る舞いは見事だった。
礼を尽くし、心を込めて宴を整えた。
それに応える気持ちもあった」
姫の指先が震える。
「ですが……?」
魔王は静かに首を振った。
「お前に、こんな侮辱の矢が向けられる国では……
私と共に歩けば、お前が傷つく」
その瞬間、貴族席からざわめきが走った。
姫の表情に、痛みが影を落とす。
だが、次の言葉はさらに強かった。
「私は、伴侶と共に生き、共に終える未来を望む。
だが……伴侶が尊重されぬ国で、その未来を描くことはできぬ」
その宣言は、広間を完全に黙らせた。
ノクティアは胸の奥がざわついた。
魔王の言葉が、遠い誰かのために向けられているように聞こえた。
ミラリエルは唇に微笑を浮かべ、目を細めた。
その微笑には“確信”が宿っていた。
ザハルトは泣きそうになっていた。
バルグロスは「かっけぇ……」と呟いた。
姫は震える声で言った。
「……陛下。それでも、私は……」
魔王は首を振った。
「姫の心を疑っているわけではない。
お前は立派だ。
だが――お前の国が、お前にふさわしくない」
姫の瞳が揺れた。
「……悔しいですわ」
魔王はゆっくりと席を立ち、深く一礼した。
「宴は無礼ではあったが、
お前の誠意に免じて、私は怒りを収めよう」
姫の視界が滲む。
魔王は続けた。
「だが、この縁談――
ここまでだ」
広間のすべてが息をのむ。
姫の侍女たちは青ざめ、
貴族たちは何も言えず、
国王すら立ち尽くしていた。
魔王は最後に、姫だけに向けて静かに言った。
「……お前の幸福を祈る」
その言葉が落ちた瞬間、
姫の心の奥で、何かが――音を立てて変わった。
宴の夜。
破断は、確かに宣言された。
しかし、これで終わりではなかった。
姫ミレリアの微笑の奥で、
燃えるような執念が、静かに目覚めていた。
次こそ――必ず掴む。
誰が邪魔をしても。
魔王が立ち去るその背中を、姫は静かに見つめていた。
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