真訳・グリム童話
島津 周平
白雪姫
第一話
長々と続く廊下を燭台の仄暗い明かりが、廊下の曲がり角に身をひそめて待っている者の感情そのものが影となり姿を現しにしていた。
沈黙を破る微かな足音が、聞こえたきた。
忍び足であろうが大柄な体躯が踏み出すたび、一歩ごと、特有の摩擦音を伴っていた。長年の癖とは、本人が気づかぬうちに正体を暴く要因になってしまっていたのであった。
どれだけ顔をマントで覆い隠したところで、この不協和な足音だけは隠しようがなかった。
向こうから歩いてくるのは――王である。と、王妃は……。
周囲を慌ただしく見渡す。
怯えと期待の入り混じった表情を晒す。まるで子供が密かに菓子を漁るかのような姿には、領土を治める王の威厳も、大柄な体躯に見合う重厚さも欠けた。
哀れで、滑稽な、一人の男。が、室内に吸い込まれてるように入っていく。
月明かりの仄かな室内に横たわっていた――ベッドに。
王はその上に覆いかぶさっていた。
「毎夜、通われて」
愛らしい顔とは裏腹に呆れ蔑む声音。
しかし、王は抗うことができなかった。その声の主から快楽という寵愛を失う怖さから。
「儚い雪のような白い肌、ガリカローズのような赤い唇、 神神しい光すら意味を失わせてしまうその黒い髪」
いつものように目を閉じ、それを聴いていた。
そして微かに苦笑した。それにしても、慣れとは怖ろしいものモノだ。
射竦めるような鋭く、それでいて吸い込まれるしまう言葉ですら。何度も交わされると、甚だしい単語の羅列だと頭のなかで浮かぶようになっていた。
「お好きなら、どうぞ」
王は両腕で抱いた。
体にぴったりと密着することで、自分の体温と相手の体温が、熱へと変化していく感覚を確かめる。胸の鼓動が嫌でも、興奮させていることを教えてくれた――最高に!
心のなかの歪んだ性の悦びによって、剥がされ落ちた理性で半開きになっている唇に接吻をかわす感触は蟲惑的で優美だった。
王妃は鍵穴から身をはなした……。
王は夢中で私を愛した。
頭の芯が蕩けるような循環の営み。
触れ、擦れ、合う、魂の快感。吸いつく肌と肌が一体化し、息をするのが苦しくなるほどに締めつけ上げられて――喉を鳴らした。
被虐官能が汗となって吹き出し燃え上がらせる。体を動かすと自然と腰を振っている。
目を覚ますと軽い頭痛が全身に行き渡っていた。
あの嫉妬に狂っていた――男は何処へ。
私をもっとも美しく映し出すそれに向かって、問いかけることにした。
「鏡よ、鏡よ。この世界で一番美しいものは誰?」
「それは王妃さま、あなたです。この世で一番美しいのは」
鏡の返事に私は、ホッとした。
離れたベッドに座ると湿った冷たい寝汗が、ジワジワっと染み込みまとわりついてきた。
さっきのあのような夢を見せた理由は、濡れた唇から舌を出しながら生々しいまでに男を虜にした顔で私に云った一言。
『愛されてもいない人に、言われましても』
その声が記憶の一部を刺激し、惹起し、不快な映像として再生させられたと。
瞳に自分が映り、瞬きを一つし。目を凝らして問いかけた。
「鏡よ、鏡よ。この世界で一番美しいものは誰?」
「この世で一番美しいのは、白雪――」
途中で途切れたその名を、誰もが知っている。
私の背中を伝う冷たい不安が肉体をさらに敏感にし、僅かな刺激ですら過剰反応しているのが
指先の震えで理解できた。
ジワジワと神経の糸が無数に広がりながら、胸の奥に熱い蜘蛛の巣へ。
「白雪……」
声は低く、掠れていた。まるで喉奥が錆びてしまったと思うほど。
私は一歩、鏡に近づいた。
ゆっくりと鏡面を手で触れると。ざわめき、怯えるように波打つ錯覚が皮膚を走る。
「この世で一番美しいのは」
鏡は長い沈黙の果てに、震える声で答えた。
「――き。こそが、今、この世で一番美しい」
私は鏡に額をつけた。冷たい。
まるで死人の肌のように、ツメタイ。
あぁ。
あの夜、王が抱きながら呟いていたのは、夢じゃなかったのだ。
私の耳に聞こえてきた。息遣いが喉を掻きむしる声で、確かに、確かに、
「……白雪」
と、呼んでいた。
鏡は、もう言葉を失っていた。
ただ、私の顔を映すだけ。唇の端を吊り上げ、かつて“世界で一番美しい”と呼ばれた女の崩れ落ちていく表情だった。
「殺す」
「猟師よ」
静かに呼びかけた。
廊下の向こうに、必ず控えている男がいる。
私の言葉一つで、誰の首だって落とせる男が。
「森へ連れて行きなさい。そして、心臓を持って帰ってきなさい。証拠として」
私が世界で一番美しいと。もう一度、鏡に言わせてみせるわ。
窓の外、夜空から夜明けの希望の光が。
遠く森の奥で、鹿が一匹、悲鳴を上げて死んだような気がした。
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