第二話

「お母さまも、爪が甘いというか。嫉妬で冷静さを失っているのか、な」


 子供が駄々をこねるような、甘ったるい調子。

 でも、言葉の裏に潜む粘性は、底なし沼の泥のようにゆっくりと鼓膜を這い、耳の奥に水が入ったときのあの独特の感覚が俺の身体を絡めて動けなくした。

 下半身に生暖かいものが、螺旋を描くように触れながら上ってくる。

 爪先から脳内まで悦楽に浸らせられる。


 俺の知っている女神さまは、気まぐれに仔羊を弄ぶ。


 嫌だ。

 当たり前のように飽きると捨てられる玩具だということは、理解していた。理解していた、一方的に関係が解消されることを。

 厭だ!


「ぁ。つまならないことを考えている」


 指が、俺の股間をピシッと弾いた。痛みよりも、驚きで息が止まる。


「ぅーん。どうせ、飽きられるとか? いつか、捨てられるとか? 書いてあるかな顔に」

「そのように見えましたか」

「いいのかな、正解で」


 小さく笑った。

 その笑いは獲物を見据える獣の瞳。でも、甘い。


「手に入れたもの捨てていいか決めるのは、誰? の権利かしら」

「持ち主です」


 指が喉を這い、脈を確かめるようにゆっくりと押し込まれる。

 唇が耳たぶに触れる寸前で止まって、

「飽きたら捨てるなんて、狩りはしないの。ちゃんと選ぶ、獲物を狩るときは――本気で」

 吹きかけられた。

 舌が、耳の穴の縁をゆっくり這う。ぬるりとした熱が鼓膜の奥まで届いて、俺の思考が溶けていく。

「一度狙いを定めたら、もう逃がさないってこと知っているでしょ。身体が」


 指が喉から鎖骨へ、胸の中心へ、文字を書くように滑かに降りてくる。鼓動が早まる。爪が皮膚を浅く裂く痛みからなのか、下腹部から込み上げてくる快感なのか。


「安心して」


 瞳が近い。漆黒の奥に、獲物を完全に仕留めた後の静かな炎が灯っている。


「壊れるまで、味わう。壊れたあとも、欠片一つ残らず、ものにする」


 最後に、にっこり笑って、

「だから今は、怯えなくていい。逃げられないって、身体が覚えているのだから」




 湿った腐臭。深い森の奥には月が太陽の光を借りて、初めて輝き死を支配下させ静寂させていた。

 俺は地面からその月を見上げているなかで、声が響く。

 月下で何度も痙攣する体。

 上気したした肌から汗が濡れて、俺自身の汗と混じった匂いが鼻孔を突く。

 不気味な声音の嘲笑には、面白楽しそうな子どもような無邪気さ。

 なんとか抵抗の意思を見せようとすると。鼻先で俺の首筋を嗅がれ、ぞくりと背筋が震え動けなくなる。

 舌先で汗と土と涙を舐め取り。


「ほら、匂い嗅いで? これ、あなたの負けの匂いよ」


 乱れた髪の隙間から覗く瞳は、何十回、何百回と俺を悦に溺れさせた。底なしの愉悦に濡れきっていた。

 動き始める――動作音。

 俺の体はそれに合わせて、また勝手に跳ねた。


「かわいい」

 

 俺は月を見上げたまま、小さく痙攣した。

 月は白すぎて青ざめていた。

 背骨を這い上がってくる恐怖。

 逃げたい、逃げなきゃ、喰い殺される。骨までしゃぶられて、欠片も残らない。

 でも、

 下腹の奥が熱い。

 まだ、覚えている。まだ、匂いを欲しがっている。

 逃げたいのに、逃げたくない。死にたくないのに、したい。壊されたくないのに、壊されたい。俺の思考が、ぐちゃぐちゃに絡まり。理性が溶けて、ただの欲望の塊になってしまう。

 このままでは。


「ねえ、怖い?」

「こわ、い、で、す」

「正直で可愛い」


 爪で涙の跡をなぞる。


「でも、こっちは」


 指が下腹を滑り、震えるそこを軽く弾いた。


「こっちは、もっとって言ってるよね?」

「……はい」


 くすりと笑った。

 秘密を打ち明けられたときの無邪気で、残酷な笑顔。


「ねぇ、言ってみて? “気持ちいい”って」


 震える唇で、掠れた声で、俺は呟いた。


「……気持ちいい」

「もっと大きな声で」

「気持ちいい!」

「いい子、いい子。ご褒美に今夜は、もっと怖がらせてあげる。泣いて。叫んで。逃げようとしても。全部、味わうから。あなたを骨の髄までしゃぶり尽くして、あげる」


 俺の声が森の音と重なって響く。

 月が影を一つに溶かしていく。

 俺は怖がりながら、気持ちよくなりながら、永遠に喰われることをただただ、欲した。




「褒美を」

「いえ。褒美は十分に、アレを殺すときに」

「そう」

「では。これで、失礼いたします」

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