第2話 いい子の朝と、嘘だらけの教室で

 目が覚めたとき、最初に浮かんだのは、天井でも、スマホのアラームでもなかった。


 胸に残っている、かすかな温度だった。


 ──抱きしめてくれる?


 眠気の残った頭の中で、あの声がはっきり再生される。

 暗い屋上。冷たい風。制服ごしに伝わる、軽すぎる体温。胸元で服を掴む指先の強さ。


 夢じゃない、はずだ。


 布団の中で、右手を持ち上げてみる。

 何もない空気を抱くみたいに、そのまま胸の前で止めて、しばらく固まった。


 笑えてくる。


 ──高校二年男子が、朝からなにしてんだ。


 苦笑いして、ようやく布団をめくった。


 部屋の空気は、夜の屋上と違ってぬるい。

 カーテンの隙間から射し込む光は、やけに白くて乾いていて、俺の部屋を淡々と照らしていた。


 ローテーブルの上には、昨夜のペットボトルの残骸と、コンビニのレシート。

 床には、脱ぎっぱなしの制服のズボン。


 人の気配は、どこにもない。


 リビングからは、テレビもついていない。

 代わりに、誰かのいびきとも寝息ともつかない音が、壁ごしにぼんやり伝わってくる。


 父親だ。


 時計を見る。七時半。いつも通り、ぎりぎりより少し余裕のある時間。


 スマホを手に取ると、通知がひとつ来ていた。


 《昨日はありがと。また、屋上で話そうね。琴宮》


 短い文面。

 絵文字もなくて、普通の連絡みたいにあっさりしてるのに、胸の奥に落ちてくる重さは全然普通じゃなかった。


 「……こちらこそ」


 入力してから、一度全部消す。

 なんだよ“こちらこそ”って。営業メールか。


 《こっちこそありがと。抱きしめたの、まだ覚えてる》


 一瞬、指が勝手にそう打ち込んで、血の気が引いた。

 慌てて全消去。


 落ち着け。朝からなに暴走してんだ。


 深呼吸をして、短く打ち直す。


 《こっちこそ。屋上、バレない程度にな》


 送信。

 既読がつくまで、妙に長く感じた。


 数秒後。


 《ふふ。秘密だよ》


 ひらがなだけの一行。

 ただそれだけなのに、「秘密」という単語が、昨日の夜の温度を一気に蘇らせる。


 俺だけが知っている顔。

 俺だけが知っている声。


 ──もっと、欲しい。


 喉の奥まで出かかったその言葉を、飲み込んで立ち上がる。


 洗面所に行くと、鏡の中には、いつも通り少しだけクマのある顔がいた。

 夜中に何度も目が覚めたせいだろう。夢と現実の境界がうまく閉じてくれない。


 蛇口をひねる。冷たい水で顔を洗う。

 頭の中の詩乃を、一旦、洗面ボウルに押し流すみたいなつもりで。


 もちろん、流れてくれるわけないんだけど。


 *


 リビングのテーブルの上には、コンビニの袋がひとつあった。

 中身は、おにぎりとカップ味噌汁。父親の字じゃない、店員の走り書きのレシート。


 父はソファに横向きで寝ていた。

 スーツのジャケットを枕にして、シャツのボタンを中途半端に外したまま、テレビもつけずに。


 電気だけが点いていて、夜の続きみたいな光景だ。


「……おはよう」


 一応、声をかけてみる。

 反応はない。寝息ともため息ともつかない息が、少し乱れている。


 昨日も、きっと遅くまで働いていたんだろう。

 分かってはいる。責める気持ちは、もうとっくにどこかに置いてきた。


 それでも、空っぽな「おかえり」と、「おやすみ」が、胸のどこかに引っかかったままなのも、変わらない。


 子どもの頃、一度だけ母と喧嘩した日のことを思い出す。


 「いい子にしててね」と笑って言った母の背中。

 「置いてかないで」と言えなかった自分。

 インターホンの音と、一人分減った靴箱の中身。


 あの日から、この家には“いい子でいる意味”がなくなっていたのに。


 俺はたぶん、どこかでまだ、誰かの「いい子」でいたかったんだろう。


 それが、昨日、屋上で少しだけ書き換えられてしまった。


 ──いい子じゃないほうが安心する。


 あんなこと、よく言えたな、と今さら自分で思う。

 でも、あれは嘘じゃなかった。


 いい子じゃない詩乃が、愛おしいと思ってしまったのは、本当だから。


 「……いってきます」


 眠ったままの父に背を向けて、玄関を出た。


 廊下の空気は、家の中より冷たくて、少しだけ呼吸がしやすかった。


 *


 通学路は、いつもと同じ顔ぶれだった。


 同じ制服。似たような会話。テストの愚痴。部活の話。ゲームのランキング。


 世界は、何も変わっていないふりが上手い。


 でも、俺の視界の端には、ひとつだけ変わってしまったものがあった。


「あ、おはよ、綾瀬」


 校門をくぐったところで、詩乃が手を振っていた。

 朝の光の中で見ても、やっぱり彼女は“人気者の琴宮詩乃”をしている。


 先に数人の女子と一緒にいて、その輪の中で笑っていた。

 髪を結び直してもらいながら、「今日の前髪、大丈夫かな」と鏡代わりのスマホを覗き込んだりしている。


 そんな当たり前の、何でもない女の子の朝。


 なのに、彼女が一歩輪から抜けて、俺のほうに近づいてくるだけで、周りの風景が急にピントを失う。


「おはよ」


 俺も、できるだけ普通の声を出す。


「ちゃんと起きられたんだね。えらいえらい」


「小学生扱いすんな」


「だって昨日、ちょっとぼーっとしてたし」


 そう言いながら、彼女は小さく笑う。

 その笑い方が、昨日の屋上で見せたのと同じなのに、周りからは誰もそれに気づいていない。


 秘密の合図みたいに思えて、変な熱が喉の奥に溜まる。


「琴宮ー、プリント見せてー」


 後ろから男子の声が飛んでくる。


「はーい、ちょっと待ってね」


 詩乃はくるりと振り返り、いつもの調子で応じた。

 その姿を見ていると、胸のどこかがじくっと痛む。


 ──俺だけのもの、じゃない。


 昨日、屋上で抱きしめたときには存在しなかった現実が、朝の光の中では容赦なく形になっている。


 分かってる。分かってるのに。


 全部僕だけがよかった、なんて。


「綾瀬?」


 名前を呼ばれて、我に返る。


「ん?」


「今、なんか怖い顔してた」


 冗談めかして言っているけれど、目だけは本気で心配している。


「……寝不足」


「それは昨日も聞いた」


 くすっと笑って、彼女は少しだけ身を寄せる。


「ね、放課後また少しだけ時間くれる? 屋上でもいいし、どこでも」


「……いいけど」


「やった。ちゃんと寝て、ちゃんとご飯食べて、それでもぼーっとしてたら、私のせいにしていいよ」


「もう十分そうだけど」


「え?」


「なんでもない」


 誤魔化すみたいに、校舎のほうを向いて歩き出す。


 横を歩く彼女の足音が、妙に気になる。


 この距離より近くても遠くても、きっと俺は落ち着かないんだろうな、と思った。


 *


 ──琴宮 詩乃


 朝のホームルームが始まる前。

 席に座ったまま、私は教室の天井をぼんやり眺めていた。


 薄い白い天井板。

 蛍光灯のカバー。

 壁の時計の針の音。


 この教室の風景は、毎日ほとんど変わらないはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。


 胸の真ん中に、まだ、あたたかさが残っているせいだ。


 ──抱きしめてくれる?


 自分で言った言葉なのに、思い出すたびに顔が熱くなる。

 あんなこと、よく言えたなと思う。


 でも、言わずにはいられなかった。


 誰かに抱きしめてほしいなんて、子どもの頃からずっと思ってきたのに、「甘えちゃいけない」と自分で封じてきた言葉だったから。


「琴宮ー、今日の小テスト範囲どこだっけ?」


 隣の席の子に声をかけられて、私は反射的に笑顔を作った。


「ここからここまで。ノート写した? あとで見せようか?」


「助かるー! マジ女神!」


 女神、なんて言葉は慣れっこだ。

 褒め言葉として使ってくれているのは分かる。でも、そのたびに、“女神の仮面”を一枚重ねられていく感じがする。


 いい子にしていれば、誰かが笑ってくれる。

 いい子にしていれば、怒られない。

 いい子にしていれば、愛される。


 ──そう教えたのは、ほかでもない“お母さん”だ。


 小さい頃から、家にはルールがたくさんあった。


 テストで九十点を取ったら、もっと頑張れるねと言われた。

 友達と喧嘩したら、先に謝りなさいと叱られた。

 少しでもふてくされた顔をすると、「そんな顔する子は嫌われるよ」と笑って言われた。


 褒められたくて、愛されたくて、私は必死で“いい子”を演じた。


 成績を上げて。

 先生の前でにこにこして。

 家では反抗しないで。


 そうしていると、たしかに母は機嫌がよかった。

 機嫌が悪い時の母は、静かで、何も言わない。何も言わないくせに、空気だけがぎゅうっと固くなる。あの空気が、私は世界で一番怖かった。


 だから、いい子をやめるという選択肢は、ずっと、なかった。


 ──昨日、屋上で。


 「いい子じゃないほうが、安心する」


 綾瀬がそう言ったとき、胸の奥がずきんと鳴った。


 そんなことを言ってくれた人は、初めてだった。


 いい子でない自分を肯定されるなんて、思ってもみなかった。


 胸の真ん中のあたたかさは、その一言がつけてくれた火だ。


「琴宮ー、プリント配るの手伝ってくれる?」


 先生に名前を呼ばれて、私はすぐ椅子から立ち上がる。


「はい」


 笑顔も、口調も、完璧に“琴宮詩乃”のもの。


 でも、胸の奥では、別の自分が顔を出している。


 本当は、面倒くさいと思ってる。

 本当は、頼られすぎてしんどい。

 本当は、誰かに甘えたい。


 ──その「本当の自分」を、昨日、少しだけ見せてしまった。


 「今日だけでいいから、“いい子じゃない私”でも、嫌いにならないでいてくれる?」


 あんなことを言えたのは、怖かったからだ。

 初めて仮面を外して、その顔を見られて、嫌われたらどうしようって、心底震えていた。


 綾瀬は、嫌いにならないと言ってくれた。


 むしろ“そっちのほうが安心する”なんて、よく分からないことまで言って。


 私はあの瞬間、自分の中で何かが決定的に崩れる音を聞いた気がする。


 いい子じゃない自分を知っていて、それでもそばにいてくれる人がいる。


 それが、どれだけ危険で、どれだけ甘いことなのか、頭では分かっているのに。


 心のほうは、もうとっくに、その危険に身を預け始めていた。


 *


 放課後。


 教室で文化祭実行委員の集まりがあった。

 黒板には、クラス出し物の案と係分担の表が、色チョークで雑多に書き込まれている。


「ポスターは琴宮さんに任せれば安心でしょ」


「パンフのレイアウトもやってくれない?」


 当然のように飛んでくる期待に、私は笑って頷く。


「やってみる。上手くできるかは分かんないけど」


「絶対できるって。いつもプリントとかまとめるの上手いし」


 そう言われると、「じゃあ頑張ります」と答えるほかない。


 頑張らない選択肢を取る勇気は、まだ私にはない。


 教室の後ろのほうで、綾瀬がその様子を見ているのが分かった。

 目が合うと、彼はほんの少しだけ眉をひそめて、それから何も言わずに視線を外した。


 胸の奥が、ちくりと痛む。


 ──ちゃんと、“いい子の私”が嫌いになりませんように。


 そんな子どもみたいな願いが、喉元に引っかかった。


 打ち合わせが終わるころには、すっかり外は暗くなっていた。


 帰り支度をするクラスメイトたちのざわめきの中、私は鞄を持って、そっと綾瀬に近づく。


「ねえ」


 名前を呼ぶ代わりに、袖を軽く引っ張る。


「……行こっか」


 彼は、少しだけ息を吐いて頷いた。


 何も言わずに教室を出る。

 階段を上る足音は、昨日よりも少しだけ息が合っている気がした。


 *


 屋上の扉を開けると、街の明かりが昨日よりもはっきり見えた。

 空気は冷たく、でも、昨日ここで抱きしめてもらった記憶が、内側からじんわりと温めてくれる。


「今日も鍵、開いててよかったね」


「閉まってたら、普通に廊下で立ち話してたよ」


「それはそれで青春ぽいかも」


「屋上のほうが似合うでしょ、琴宮には」


「どっちの意味?」


「いい子のほうじゃない意味」


 軽口を叩きながら、ふたりでフェンスのそばまで歩いていく。


 昨日と同じ場所。

 昨日と同じ風景。

 でも、昨日と違うのは──


「……なんか、落ち着くね、ここ」


 自然と、そんな言葉がこぼれたこと。


「ね。私も」


 綾瀬が隣に立つ。

 距離は昨日より少し近い。わざとらしくないぎりぎりの近さ。


 しばらく、黙って夜景を眺める。

 遠くで車のクラクションが鳴っている。校庭の隅で、誰かがまだ部活をしている声が、小さく届く。


 ここだけ、世界から少し遅れているみたいだ。


「今日の琴宮、すごかったな」


「なにが?」


「なんでも引き受けるスーパー委員長みたいだった」


「やーめて。プレッシャーで死んじゃう」


 冗談めかして言いながらも、肩のあたりが少しだけこわばる。


「嫌なら、断ればいいのに」


「嫌じゃないよ。……たぶん」


「たぶん?」


「頑張ってる私を見て、お母さんが安心するから」


 言った瞬間、空気が少しだけ重くなった。


 ああ、まただ、と自分で思う。

 “いい子の私”の根っこの話を、また出してしまった。


 綾瀬は、少し黙っていた。

 何かを選ぶみたいに、言葉を探している沈黙。


 やがて、彼はポツリと言った。


「……じゃあ、俺は安心しない」


「え?」


「琴宮が頑張りすぎて、しんどそうにしてるの、安心しない」


 淡々とした言い方なのに、その中に、妙に熱のある何かが混ざっている。


「むしろ、嫌だ」


「嫌……?」


「琴宮が“いい子”してるの見ると、なんか、落ち着かない。……自分勝手だけど」


 胸の奥が、ずきんと鳴った。


 “自分勝手”という言葉に、小さく救われる。


 私だけじゃないんだ。

 自分勝手に誰かを求めてるのは。


「……ずるいなあ、綾瀬って」


 気づけば、その言葉が口から出ていた。


 ずるい。

 そんなふうに言ってくれるのが、ずるい。


 “いい子”の私を、条件付きじゃなく否定してくれる人なんて、今まで誰もいなかった。


「また?」


「また。ずるい人増量中だよ」


「琴宮もだよ」


「私も?」


「俺に、“いい子じゃない琴宮”覚えさせたの、そっちだから」


 ああ、やっぱりこの人はずるい。


 嬉しくて、苦しくて、壊れそうになる言葉を、ちゃんと選んでくる。


「ねえ、綾瀬」


 名前を呼ぶ声が、少し震えた。


「なに」


「もしさ、私が“いい子”やめたら、どうなると思う?」


 昨日と似た質問。

 でも、昨日より一歩踏み込んだ本音。


「どうなるって?」


「お母さんは、多分、悲しむと思う。学校の先生も、困ると思う。クラスの子も、びっくりすると思う」


「そうだろうな」


「でも、やめたくなるとき、あるんだよね。全部、どうでもよくなって。……“いい子なんて燃えちゃえ”って」


 言葉にしながら、自分で驚く。


 こんなに本音を口に出したのは、初めてかもしれない。


 綾瀬は、すぐには何も言わなかった。


 代わりに、そっと私の右手を取った。


 指先が、少し冷たい。


「……俺は、嬉しい」


「え?」


「琴宮が“いい子”やめたら、俺だけが知ってる琴宮が増えるだろ」


 言葉の内容は、めちゃくちゃ独占欲に満ちているのに、言い方がとても静かで優しいから、余計にたちが悪い。


「それ、ほんとにずるい」


 笑いながら、私は握られた手に力を込める。


「こんなこと言われたら、やめたくなっちゃうじゃん。“いい子”」


「やめればいいよ」


「簡単に言う」


「簡単じゃないの、分かってる。でも」


 彼は、そこで少し言葉を切って、私のほうを向いた。


 夜景の光が、彼の横顔の輪郭を淡く照らしている。


「琴宮がどんな顔してても、俺は嫌いにならない。それは、決めた」


 胸の真ん中が、ぎゅっと締めつけられる。


 嬉しくて。

 怖くて。

 救われて。

 堕ちていく。


 すべての感情が一気に押し寄せて、息が詰まりそうになる。


「……ほんと、簡単に言うよね」


 それでも、笑ってみせる。


「そんなこと言われたら、私、ちゃんと壊れちゃうよ」


「……壊れていいよ」


 綾瀬は、さっきより少しだけ強い声で言った。


「俺の前でだけ、全部ぐちゃぐちゃにしていい。俺が片づけるから」


 その言葉は、多分、彼自身のほうが危ない。


 片づけるなんて、言えるはずがないのに。


 でも私は、その危うさに、どうしようもなく惹かれてしまっていた。


「片づけられなかったら?」


「そのまま抱いてる」


「ごみ袋じゃないんだから」


「俺にとっては宝物だから」


 ……だめだ。この人、本当にずるい。


 笑いながら、目の奥がじわっと熱くなる。


 涙はこぼれない。

 でも、こぼれてしまっても、この人の前なら恥ずかしくないかもしれない、と初めて思った。


「ねえ」


 自分でも驚くくらい、静かな声が出た。


「抱きしめてって、言ったら、また抱きしめてくれる?」


「何回でも」


「じゃあ」


 私は一歩近づいて、彼の制服の胸元を掴んだ。


 昨日よりも、少しだけ迷いが少ない動きで。


「“いい子”やめたくなったら、またここに来ていい?」


「もちろん」


「そのときも、嫌いにならないでいてくれる?」


「しつこいな」


「しつこいよ。だって怖いもん」


 怖いんだよ。

 やっと見つけた“安心できる場所”を失うのが。


「大丈夫」


 綾瀬は、私の手に自分の手を重ねた。


「もう、戻れない」


「え?」


「昨日抱きしめた時点で、もう戻る気ないから。普通のクラスメイトとか、友達とか、そういうやつには」


 ぞくり、と背筋が震えた。


 でも、その震えは、嫌なものじゃない。


 “共犯者を見つけた”ときの震えだ。


「……ほんと、綾瀬って」


「分かってる。ずるい」


「うん。ずるい」


 笑いながら、私は彼の胸に額を預けた。


 夜風が、制服のすき間から入り込んでくる。

 冷たいのに、抱きしめられている場所だけ、やけにあたたかい。


 どうして壊れたのか──なんて、きっとずっと先になってからじゃないと、言葉にはできない。


 でも、どこから壊れ始めたかなら、今ははっきり分かる。


 この屋上で。

 この手を握られたとき。

 この言葉を信じてしまった瞬間から。


 私はもう、“いい子”という名前の檻を、本気で捨てたくなってしまった。


「……ねえ、綾瀬」


「なに」


「もし、私が全部投げ出しちゃったら、そのとき、なんて言ってくれる?」


 自分でも、ひどい質問だと思う。

 予告みたいだ。

 “そのとき私はきっと壊れるよ”って、宣言しているようなものだ。


 綾瀬は少しだけ考えて、それから、ゆっくりと答えた。


「おつかれさま、って言う」


「おつかれさま?」


「今まで“いい子”やってきたぶん、ちゃんとおつかれって言う。それから──」


「それから?」


「全部、俺のせいにしていいよって言う」


 胸の奥で、何かが静かに崩れた。


 音もなく、粉々に。


 そして、その破片を拾い集めているのが、この人だってことが、悲しいくらい嬉しかった。


「……ほんとに、ずるい」


 何度目か分からない言葉を、今度は笑いながら、少し泣きそうな声で繰り返した。

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