君が死ぬなら、僕は笑って死ねる。
桃神かぐら
第1話 いい子をやめる夜、壊れた心を抱きしめて
世界は、本当は二つにしか分けられないのかもしれない。
──君がいる世界と、君がいない世界。
そう考えた瞬間、自分で自分がちょっと気持ち悪いなって思って、机に突っ伏した。
「綾瀬、大丈夫? 寝不足?」
前の席から振り返った男子が、笑い声と一緒に声をかけてくる。
教室はホームルームが終わったばかりで、ざわざわしていた。黒板消しの音、椅子を引く音、部活の話題、週末の予定──全部が混ざって、薄いざらつきになって鼓膜を擦る。
「……まあ、そんな感じ」
適当に返して、顔を上げる。
視界の端に、彼女の横顔が映った。
窓際、三組と四組の間の廊下側。
琴宮詩乃は、クラスメイトに囲まれて笑っていた。
柔らかい茶色の髪を揺らしながら、誰かの冗談に「それはひどくない?」って肩をすくめて笑って、次の瞬間には真面目な顔でノートを見せてやっている。
ほんの少しだけ首を傾げる癖。
笑うと、目尻にしわが寄るのに、それさえ綺麗に見える不公平さ。
教室の空気が、あの一角だけ少し明るい。
……それが、胸のどこかをすっと撫でていって、それから遅れて、じくじくと痛みを残していく。
それは、別になんでもない光景のはずだった。
クラスの人気者が、みんなに笑顔を配っている。それだけのこと。
なのに、俺は。
──俺だけのものじゃないんだよな。
そんな当たり前の事実に、妙に呼吸が浅くなる。
「綾瀬ほんと寝不足だろ、目の下クマやばいぞ。スマホやりすぎ?」
「……いや」
適当に笑っておく。
言えるわけがない。
夜遅く、コンビニの明かりだけがやけに眩しい帰り道を歩いていることも。
家のリビングには、空の缶とつけっぱなしのテレビと、横向きで寝ている父親の背中しかないことも。
「おかえり」って声を、もう何年も聞いていないことも。
そういうのを説明できるほど、俺は器用じゃない。
かわりに、少しだけ視線をさまよわせて、また彼女のほうを見てしまった。
──その瞬間、偶然、目が合った。
詩乃が、話していた友人からふっと視線を外して、こちらを見た。
驚いたみたいに目を瞬いて、それから、いつもの笑顔じゃない、少しだけ小さな笑みを向けてくる。
クラス全体に向ける「琴宮詩乃」じゃなくて、
俺個人にだけ向けてくるような、柔らかくて、秘密みたいな笑み。
心臓が、嫌な音を立てた。
あ、と彼女が口の形だけで言って、手を軽く振る。
──世界の音が、一瞬だけ消えたみたいに思えた。
そんな大げさな、とどこかで冷静な自分が突っ込む。
でも、体の奥のほうでは、本当に何かが軋みを上げていた。
胸が痛い。息が吸いにくい。この瞬間が永遠に続けばいいのに、と本気で考えている自分がいる。
怖いくらいに、彼女が全てになっていた。
*
放課後。
部活組が先に出ていって、教室が少しずつ空になっていく。
俺は帰り支度を遅らせて、鞄に教科書を詰めるふりをしながら、机に肘をついていた。
彼女はまだ残っていて、黒板の前で文化祭の実行委員と話している。
「──じゃあ、パンフレットの表紙案、明日までに二つぐらい出してくれる?」
「うん、やってみる。あんまり期待しないで待ってて」
そう言って笑う声が、やけに鮮明に聞こえる。
病気なのかもしれない。
本当に。
「好き」とか「恋」とか、そういう言葉では追いつかない。
もっと、どうしようもなく、依存していた。
「綾瀬、帰らないの?」
気づけば、目の前に立っていたのは詩乃だった。
距離が近い。甘いシャンプーの匂いが、ふっと鼻をかすめる。
「……ああ。ちょっとダラダラしてただけ」
「真面目くんなのに、意外」
くすっと笑って、彼女は自分の鞄を机に置いた。
クラスメイトたちはもうほとんどいない。残っているのは、部活に行く前の数人と、プリントの整理をしている担任ぐらい。
「ねえ、綾瀬」
「ん?」
「今日さ、ちょっとだけ付き合ってほしいところがあるんだけど、いい?」
心臓が跳ねた。
その跳ね方が、嫌になるくらい露骨だったので、俺は咳払いで誤魔化した。
「別に、いいけど」
「よかった。……じゃあ、あとで」
詩乃は嬉しそうに目を細めて、小さく手を振ってから教室を出ていった。
どこに行くんだろう、とか。
他の誰かが一緒じゃないか、とか。
そういうことを考えた瞬間、自分の中の何かが黒く色づいていく。
──全部、僕だけがよかった。
口に出さない。出せない。
そんなことを言ってしまったら、自分が本当に壊れてしまう気がするから。
代わりに、机に残されたプリントをまとめて、鞄を肩にかけた。
「お先に失礼します」
担任に声をかけて廊下に出る。
窓の外は、もう薄暗くなり始めていた。オレンジと紺の境目みたいな空。
携帯にメッセージが届いているのに気づいて、ポケットから取り出す。
《屋上、鍵開いてた。10分後に来てくれる? 琴宮》
心臓が、さっきよりもっと大きく跳ねた。
*
校舎の最上階まで、階段を上る音が妙に響く。
誰もいない放課後の廊下は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、蛍光灯の音だけがじりじりと鳴っていた。
屋上の鉄扉は、彼女の言う通り鍵が開いていた。
きぃ、と少し重い音を立てて押し開けると、冷たい風が一気に頬を撫でていく。
薄暗い空の下、フェンスのそばに、人影がひとつ。
詩乃はフェンスに背中を預けて、空を見上げていた。
制服のスカートが風に揺れて、髪が頬にかかる。それを指先で払う仕草が、いつもより少し幼く見えた。
「……来てくれると思ってた」
振り向いた彼女が、そう言って微笑む。
「他に、屋上に呼び出されるような奴、いないしな」
冗談めかして答えると、「そっか」と彼女は笑った。
その笑い方が、教室でみんなに向けていたものと違うのは、もう分かるようになってしまっていた。
「ここ、好きなんだよね。なんか、全部から離れてる感じがするから」
フェンスに寄りかかったまま、詩乃がぽつりと言う。
「全部?」
「うん。教室とか、家とか、人とか、期待とか。そういうの、ぜんぶ」
最後の「期待」と「とか」の間に、ほんの少し空白があった。
俺は彼女の隣まで歩いていって、フェンスに手を添えた。
眼下には、校庭と、住宅街の明かりと、遠くの幹線道路。空には、街の光に負けそうなくらいかすかな星が、いくつか。
「……家、嫌い?」
聞かない方がいいかもしれない、と思いながらも、口が勝手に動いた。
詩乃は驚いたように目を瞬いて、それから少しだけ視線を落とした。
「嫌い、って言ったら、贅沢なのかな」
「贅沢?」
「ちゃんとご飯もあって、勉強しろって言ってくれる親がいて、家も崩れないし。戦争もないし」
言葉だけ聞けば、それは確かに“普通より恵まれている”のかもしれない。
でも、彼女の声には、どうしようもなく乾いた響きがあった。
「でもね、“いい子”でいないと、全部崩れちゃう気がするの」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「いい子でいないと、愛されないってこと?」
「……うん。それ、たぶん言葉にしたら、そんな感じ」
彼女は自嘲気味に笑った。
「だから、学校でも、家でも、“琴宮詩乃”をやってる。うまくやれてるつもりなんだけど、たまにね」
「たまに?」
「しんどくなる」
そう言って、彼女は空を見上げた。街の明かりに負けそうな、小さな星を数えるみたいに。
「誰かに本気で嫌われたらどうしようとか、期待に応えられなくなったらどうしようとか、考え出すと、胸がぎゅーってなって。……“いい子やめたい”って思うんだけど、やめ方が分かんない」
風が少し強くなる。
そのたびに彼女の声が揺れて、その揺れごと、俺の胸の奥に刺さっていく。
──ああ、この人も壊れそうなんだ。
その瞬間、理解した。
俺はただ“きれいで優しい人気者”が好きなんじゃない。
“壊れそうなのに笑ってる彼女”に、どうしようもなく惹かれている。
「……贅沢、じゃないよ」
気づけば、言葉が零れていた。
「俺も、似たようなもんだから」
「綾瀬も?」
「家、あんまり帰りたくない。誰もいないから」
それだけ言って、風景に視線を滑らせる。
言葉にしてしまうと、軽くなる気がして、詳しいことは言わなかった。
でも詩乃は、それ以上聞こうとはしなかった。
代わりに、ほんの少しだけ俺に体を向ける。
「そっか。……じゃあ、ふたりとも“いい子”やめたら、どうなるんだろ」
「さあな。世界がちょっとだけ、うるさくなるんじゃないか」
「うるさい世界、やだな」
けれど、彼女は笑った。
さっきよりも、少しだけ弱い笑顔で。
沈黙が落ちる。
嫌な沈黙じゃなかった。
風の音と、かすかな街のざわめきと、二人分の呼吸の音が混ざり合って、奇妙な静けさを形づくっている。
「ねえ、綾瀬」
不意に、彼女が俺の名前を呼んだ。
さっきまでの冗談みたいなトーンじゃなく、何かを確かめるような声。
「なに」
「私のこと、変だと思う?」
ずっと、どこかで聞きたかったんだろうな、って分かる言い方だった。
いい子でいないと愛されないと信じてきた人間が。
それでも、ときどき“いい子じゃない本当の自分”を覗かせてしまう人間が。
それを見た他人がどう思うのか、怖くてたまらないんだろう。
俺は、少しだけ考えてから、首を横に振った。
「全然。変じゃないよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「だって、“いい子じゃない私”、だよ?」
「……それが、ちゃんと息してるってことだろ」
言ってから、自分で笑ってしまいそうになった。
何を言ってるんだ。
でも、詩乃は目を瞬いて、それからぽつりと漏らした。
「……ずるい」
「え?」
「そういうの、ずるい。優しい言い方するの。……好きになっちゃうじゃん」
心臓が、喉まで跳ね上がる。
風の音が一瞬遠のいて、代わりに自分の鼓動だけが耳に響いた。
「……もう、なってるよ」
気づいたら、口が勝手に喋っていた。
取り返しがつかない言葉だって、自分でも分かっていたのに。
詩乃が、驚いたように、そしてどこか照れたように笑う。
「ほんと、そういうとこ、ずるい人だよね、綾瀬って」
“君はずるい人だ”という言葉が、彼女の唇から出た瞬間、
胸のどこかで何かが決定的に鳴った気がした。
──この人に、全部見られてもいい。
そんな風に思ってしまった自分が、一番の狂気なのかもしれない。
「ねえ、綾瀬」
詩乃が、一歩だけ近づく。
制服の袖が触れ合いそうな距離。
「今日だけでいいから、“いい子じゃない私”でも、嫌いにならないでいてくれる?」
その言い方が、ずるかった。
卑怯なぐらい、俺の弱いところを貫いてきた。
「嫌いになんて、ならないよ」
即答していた。
考えるまでもなかった。
「むしろ──」
言葉を選ぶ。
喉まで出かかっている言葉は、どれも綺麗じゃない。でも、それが本音だった。
「むしろ?」
詩乃が、促すみたいに首を傾げる。
「いい子じゃないほうが、安心する」
「安心?」
「“いい子”の琴宮詩乃は、誰にでも優しいからさ。……俺だけが知ってる弱いところがあったら、嬉しい」
言ってしまった後で、自分の独占欲の濃さに、内心ぞっとした。
でも、詩乃はなぜか、少しだけ息を呑んで、それから目を伏せて笑った。
「それ、こっちも同じこと思ってた」
「え?」
「綾瀬って、みんなに優しいじゃん。宿題教えてあげたり、ノート貸したり。……そういうところ、好きだけど、ちょっと怖くなる時がある」
「怖く?」
「私だけが知ってる顔がいいな、って思っちゃうの。……勝手でしょ?」
そう言って、彼女は照れくさそうに笑った。
息が詰まりそうになる。
──ああ、同じだ。
俺と、この人は。
壊れ方も、求め方も、たぶん似ている。
独占欲と、自己否定と、それでも愛されたいっていう、子供みたいな願い。
「勝手でいいよ」
気づけば、また口が動いていた。
「俺のこと、勝手に欲しがってくれるなら。……それ、嬉しいから」
風が鳴る。
ふたり分の体温だけが、夜の屋上に取り残されたみたいに、そこだけあたたかかった。
「……綾瀬」
名前を呼ぶ声が、さっきより少し震えていた。
詩乃は、そっと一歩近づいて、俺の制服の袖を指先でつまむ。
フェンスの向こうの夜景が、遠くに滲んで見えた。
「今日だけじゃなくて、ずっとでも、いい?」
その問いは、宣告みたいで。
願いみたいで。
呪いみたいだった。
「……いいよ」
俺は、逃げ道を探すように空を見上げ、それから彼女の目を真正面から見た。
「ずっとでいい。ずっと俺に、勝手でいて」
ほんの一瞬、顔が歪んで、すぐに柔らかい笑顔に戻る。
その変化が、妙に、綺麗だと思ってしまった。
「じゃあさ」
詩乃が、小さく息を吸う。
「──抱きしめてくれる?」
“抱いて”じゃなくて。
でも、そこに込められている意味は、きっと歌詞なんかよりずっと、重くて深い。
「壊れそうだから。いい子、やめちゃいそうだから。……綾瀬の腕の中でなら、壊れてもいいって思えるの」
心臓が、もう何回目か分からない音を立てる。
俺は、ゆっくりと手を伸ばした。
彼女の細い肩に触れる。軽い。想像していたよりずっと、守らなきゃと思ってしまうほど、頼りない熱。
そっと自分のほうに引き寄せると、詩乃の額が俺の胸に当たった。
夜風が、二人の周りだけ避けていくみたいだった。
「……全然、壊れてないけどな」
冗談めかして言うと、胸元で小さく笑う気配がする。
「内側、ぐちゃぐちゃだよ。綺麗に見えるように、ラッピングしてるだけ」
「そういうのも、全部抱きしめるって言ったろ」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出てきた。
詩乃の指先が、制服の生地をきゅっと掴む。
「ずるい。……ほんと、そういうところ、ずるい」
「君もだよ」
「私も?」
「俺のこと、こんなふうにするから」
胸の中で、彼女が少しだけ顔を上げる気配がする。
視線が合う距離。ほんの数センチ。
この瞬間、世界の全部がどうでもよくなった。
家で待っているはずだった、無関心な背中も。
明日の授業も。将来の進路も。周りの目も。
──君さえいればいい。
本気で、そう思った。
「綾瀬」
「なに」
「もしさ」
詩乃は、夜空を一瞬だけ見上げてから、俺の目をじっと見つめた。
「もし、私が明日、どこかにいなくなっちゃったら、どうする?」
軽い冗談みたいに聞こえるけれど、その瞳の底は本気だった。
試されているとかじゃない。
ただ、知りたいんだろう。
自分がどれくらい、この人の世界にとって大きいのかを。
俺は、少しだけ息を吸って、それから、ひとつだけ浮かんだ答えをそのまま出した。
「……笑って、死ねると思う」
自分の声が、思っていたよりもずっと穏やかだった。
「君がいない世界で生きてくより、君がいる世界で終われたほうが、たぶん幸せだから」
言ってから、ああ、俺はもう完全におかしいんだな、ってどこかで冷静に理解した。
でも、その狂気は、驚くほど静かで優しかった。
詩乃は一瞬、目を見開いて、それからふっと笑った。
涙はこぼれなかった。
ただ、目尻が少し熱くなったような顔で。
「……そういうとこ、ほんとに好き」
彼女は囁くように言って、俺の胸元に額を押し付けた。
「壊れちゃうくらい、好き」
胸の中で、小さく震える声が、夜風よりも鮮明に聞こえる。
抱きしめる腕に、自然と力がこもった。
世界は、やっぱり二つにしか分けられない。
君がいる世界と、君がいない世界。
そして俺は、迷わず前者を選ぶんだろう。
たとえ、その選択がどれだけ壊れていても。
──君が死ぬなら、僕は笑って死ねる。
それは、決して口には出さなかった“本音”として、
胸の奥で、ひっそりと形になった。
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