第2話 声の代わりに
翌日の放課後、堤防には誰もいなかった。
潮の香りは昨日より少しだけ強い。
遥斗はカメラを膝に置き、海を見ながらため息をついた。
(……来ない、か)
初めて会った相手に「また来てもいいですか」なんて書き置いていく子だ。
期待した自分がちょっとおかしいのかもしれない。
夕陽は昨日と同じ色をしているのに、
風だけが妙に冷たく感じた。
そのとき——
背後で小さな足音がした。
振り向くと、白いワンピースがこつん、と堤防に影を落とした。
汐見澪だった。
昨日より、少し息を切らしている。
けれど、その顔は嬉しそうに笑っていた。
「……来たんだ」
澪はこくりと頷き、手に持っていたノートを開いた。
「ごめんなさい。授業が長引いてしまって。」
「ああ、大丈夫。俺も今来たとこ。」
嘘だった。
一時間近く待っていた。
でも、それを言うつもりはなかった。
澪はノートの端を両手で押さえて、少しだけ照れたように書き足した。
「昨日、楽しかったので。」
字がふわっと揺れて見えた。
風の仕業なのか、照れのせいなのかはわからない。
「今日は歌……じゃなくて、話すことある?」
軽く冗談のつもりで言ったら、
澪は少し驚いた表情を浮かべて、喉に手を当てた。
そしてゆっくり、ノートに書いた。
「声が出るように、練習してるんです。」
その一文を読んだ瞬間、
胸の奥に、小さく鋭いものが刺さった気がした。
「そんな無理しなくていいだろ。喉……痛むんじゃないの?」
澪は、ちいさく、ちいさく首を振った。
「痛いけど……出したい声があるので。」
その言葉には、誰にも言えない願いのような重さが宿っていた。
喉に触れる指先が震えているのが、風越しにもわかった。
「……そっか。じゃあ、俺も聞ける日が来るの、楽しみにしてる。」
澪は少しだけ目を伏せて、
ノートに短く書いた。
「はい。」
たぶん、照れてる。
その様子が可愛い、なんて言ったら多分怒られるので胸にしまう。
しばらく二人で海を眺めていた。
波の音が、まるで会話みたいに寄せて返す。
ふと澪が、思い出したようにノートを開いた。
「昨日の写真、見てみたいです。」
「あ、撮ってたの覚えてたんだ。」
澪は“覚えてる”の部分に反応して、首を少しかしげた。
細かいニュアンスが伝わったのかどうかはわからない。
遥斗はカメラを渡す。
澪は両手で大事そうに受け取り、画面を覗き込んだ。
夕陽の海。 風になびくワンピース。
光をすくった髪。
写真の中の澪は、
言葉がなくても物語を語っていた。
しばらくして、澪はノートにこう書いた。
「……わたし、こんな顔してたんですね。」
「嫌だった?」
澪は首を振って、もう一度画面を見つめた。
そして、ためらいがちに一言を書いた。
「嬉しそう、って思いました。」
その瞬間、遥斗は気づく。
(この子は……自分の表情すら、よくわからないんだ)
声と一緒に、
自分が表したい感情も、
伝えたい想いも、
みんな少しずつ遠くへ逃げていってしまうのかもしれない。
胸が、きゅっと締まる。
「澪の“嬉しい”ってやつ、もっと見てみたいな。」
澪は驚いた。
そして、少しだけ頬を染めた。
ノート。
「また……来ても、いいですか?」
「だから言ったろ。何回でも来ていい。」
澪は笑った。
昨日より、少しだけ明るく。
帰る前、澪はもう一度ノートを開いた。
「声が出るようになったら、最初に伝えたいことがあります。」
「伝えたいこと?」
澪は答えず、ただノートを閉じた。
その瞳は、どこか切なく揺れていた。
風が吹き、
白いワンピースが夕暮れの色を受け止める。
その背中がゆっくり歩き出したとき、
遥斗は思った。
(この子……なにを抱えてるんだろ)
けれど、聞けなかった。
風の音だけが、静かに二人の距離をなぞっていた。
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