鍵物語PROJECT 静かに涙が落ちる場所

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音のない告白の行方はここへ

第1話 歌えなくなった少女

 放課後の海は、いつもより静かだった。

 潮のにおいがゆっくり流れてきて、堤防の上に落ちていく光を、少し冷たく染めていく。


 藤宮遥斗は、カメラを構えながらシャッターを押す指を止めた。

 レンズの向こうに、見慣れない影が立っていたからだ。


 白いワンピースの少女だった。


 風が吹くたびに、その服の裾が小さく揺れて、 まるで海と話しているみたいだった。


 彼女は、誰かを探すように海を見つめていた。

 けれど、その横顔には、どこか諦めの色が混じっている。


 思わず声をかける。


「……そこ、足元、滑りやすいよ」


 少女は驚いたように振り向いた。

 けれど、すぐにふわりと笑って、小さく首を傾げた。


 何か言いたげだった。

 けれど、言葉は出てこなかった。


「あ……ごめん、驚かせた?」


 少女は慌ててポケットから小さなノートを取り出した。

 ページをめくり、さらさらとペンを走らせる。


 差し出されたノートには、こう書かれていた。


「大丈夫です。ありがとう。」


 文字がすごく綺麗だった。

 書いた人の性格そのままみたいに、落ち着いていて優しい。


「喋らないんだ?」


 少女は少しだけ視線を落として、

 ノートの下に短く書き足した。


「声が出ません。」


 その一文だけで、胸の奥が小さくつままれた気がした。


 彼女はまたペンを走らせて、次の言葉を描く。


「海、きれいですね。」


「うん、ここ、夕方がいいよ。光が柔らかいから。」


 少女は空を見上げた。

 沈みかけた陽が、彼女の頬に淡い金色を落としていた。


 その目は、何かを探すようで、

 何かを思い出そうとするようで、

 でも、どこにも辿り着けないような、そんな沈黙を抱えている。


「よく来るの?」


 ノート。


「昔は、歌っていました。」


「歌……?」


 少女はゆっくりと自分の喉を指差す。

 そして、少し寂しそうに笑った。


「今は、歌えません。」


 言葉じゃなくて、表情だけで伝わってくる“痛み”があった。


 遥斗はなんて返していいかわからなくなって、 とりあえずカメラを胸の前に下げた。


「……そっか。でも、また聞いてみたいな。君の歌。」


 言った瞬間、少女の目が少し揺れた。

 驚きとも、嬉しさともつかない何か。


 彼女はノートを閉じると、

 両手で胸の前に抱え込むようにして、 そっと頭を下げた。


 それは、声の代わりに伝える“ありがとう”の仕草だった。


 風が吹いた。


 白いワンピースの裾が跳ね、

 少女の髪が夕陽をすくいあげた。


 その光景が美しすぎて、

 遥斗はシャッターを切るのを忘れてしまった。


 少女は帰る前に、もう一度ノートを開いて見せてくれた。


「また、来てもいいですか?」


「もちろん。」


 少女は嬉しそうに目を細めて、

 静かな足取りで堤防の先へ歩いていった。


 潮騒が遠くで響いていた。

 世界がゆっくりと淡く沈んでいく中で、

 遥斗は、胸に沈む“小さな違和感”を振り払えなかった。


 声が出ない少女。

 穏やかな笑顔。

 そして、歌えなくなった喉。


 それなのに、彼女が残していった最後の文字だけが――

 やけに鮮やかに焼きついていた。


「また。」


 たったその一言が、なぜか温かかった。

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