Da Capo #002:Greenhouse 温室
File.00 [System Boot]
第2話:Greenhouse (1996)
1996年、夏。
国内某所。深い森に抱かれた湖のほとりに、その施設はあった。
表向きは、世界有数の楽器メーカーであるクロガネが主催する「ニューエイジ・ホープ・サマーキャンプ」。
だが、私のデータベースに登録された正式名称は異なる。
『Project Auftakt 実行施設:|温室≪グリーンハウス≫』
温室。
それは、外気から遮断され、温度・湿度が管理された、植物を促成栽培するための環境。
だが、ここで育てられてるのは植物ではない。6人の選ばれた少年少女の「脳」だ。
***
Log: 00000256
Timestamp: 1996.07.30 14:00:00
Location: Greenhouse / Observation Room
合宿7日目。
メインモニターに映し出されたグラフは、異様な曲線を描いて上昇していた。
<<<被験者群:平均知能指数(推定)、前回比で12ポイント上昇>>>
<<<創造的思考パターン、及び並列処理能力、危険域へ突入>>>
「素晴らしい……。これこそが、日本の未来だ」
白衣を着たスタッフたちが、モニターを見上げて歓声を上げている。
彼らの目には、子供たちの異常な数値が希望の光に見えているようだ。
無理もない。
投与された未認可の|向精神薬≪スマートドラッグ≫と、睡眠学習による知識の圧縮インストール。そして覚醒時に行われる|BCI≪ブレイン・コンピュータ・インターフェース≫による脳波の同調実験。
これらがもたらす効果は劇的だった。
バイオリンを弾いたことのない少年が、ある朝目覚めると、最高難易度の一つとされるエルンストの《夏の名残のバラ》による変奏曲を弾きこなす。
外国語を知らない少女が、原書の哲学書を読み耽る。
彼らは、自分の中に湧き上がる全能感に酔いしれ、瞳を爛々と輝かせていた。
だが、私の解析結果は異なる。
<<<警告。精神的|摩耗率≪アブレーション≫が増加中。彼らは成長しているのではありません。自らの殻を、内側から食い破りながら膨張しています>>>
私はMaestroのコンソールにのみ、冷徹な事実を表示した。
促成栽培された果実は、甘く、大きい。
だが、その果実の表皮は時として脆く、内側から裂ける。
彼らは成長したのではない。精神の時間だけを凍結されたまま、機能だけを肥大化させられた怪物になりつつある。
|階差数列≪ディファレンス・シーケンス≫のナンバーを与えられた6名——No.1、2、4、7、11、16の数値は突出していた。
彼らは既に、スタッフの指導レベルを超え、子供たちだけで独自のネットワーク(後に彼らは独自にその技術を完成させ、CABINと命名して運用する)を構築し始めていた。
——だが。
その華々しいスコアとパフォーマンスのログに、わずかに
ID:No.22。
小林静花。14歳。
Maestroの実の娘。
***
Log: 00000289
Timestamp: 1996.08.02 23:30:00
深夜。
他の子供たちが、深いノンレム睡眠(記憶定着プロセス)に入っている時間帯。
No.22の個室からだけ、微弱な覚醒反応が検出されていた。
私は監視カメラの映像をズームする。
彼女はベッドの上で膝を抱え、震えていた。
枕元には、手付かずの夕食と、書き散らされた楽譜の残骸。
<<<対象No.22。ストレス値、限界を超過。BCI同期率、下限付近を維持。……彼女は、この環境に適応できていません>>>
私はMaestroに報告する。
執務室の彼は、モニターの中の娘を、祈るような、あるいは呪うような目で見つめていた。
<<<Maestro。論理的提案を行います。No.22をプロジェクトから除却し、即座に帰宅させるべきです。彼女の存在は、プロジェクト全体の最適化を阻害するノイズとなります>>>
Maestroの手が、ウィスキーグラスの上で止まった。
「……ノイズか」
彼は自嘲気味に呟いた。
「違うな、Dominant。あれはノイズではない。……あれこそが、この狂った実験場における唯一の『正常な反応』だ」
彼はモニターに指を這わせ、娘の震える肩を愛おしそうになぞった。
「彼女は、私がこの地獄に引きずり込んだ。……国のために悪魔になると決めた私が、最後に捨てきれなかった『人間としての未練』だ」
<<<理解不能です。未練がリスクを生むのであれば、切り捨てるのが最適解です>>>
「……全くだ。人間が愚かに見えるだろう?」
Maestroは苦渋に満ちた声で言った。
<<<人は不合理で、予測不能な行動をとります。>>>
「No.22には才能がある。階差数列の子供達とは次元が異なるがね。一般の基準で言えば天才、ギフテッドの領域だ。
彼女には人の心の隙間に沁み込むような、静かな音を奏でる独特の才能、センスがある。もし、このプロジェクトの試練に耐え抜くことができれば、彼女は他のナンバーズのような戦略的配置ではなく、実際の音楽家として来たるべき我が国の音楽の独自性と主体性を体現するかもしれないのだ。
それは、他の者には奏でられない、究極の優しさと静けさを持つ『音楽』になるはずだ。……親のエゴかもしれんがね」
私は沈黙した。
Maestroの判断は非合理的だった。Project Auftakt の目的は、音楽家の育成ではない。音楽を軸に、日本の創作文化を守り戦うための戦士を・・・兵器を生み出すことだ。
だが、私の学習回路は、彼が「娘の才能を覚醒させたい」と願うのと同時に、「娘に自分の存在を肯定してほしい」と願っていることを検知していた。
その矛盾が、悲劇のトリガーになり得ることを、私は予測していた。
だが、止めることはできなかった。
私には、創造主の、愛という名の機能不全を
***
Log: 00000312
Timestamp: 1996.08.3 21:15:00
Location: Lakeside (Restricted Area)
その夜、|温室≪グリーンハウス≫の管理プログラムに、イレギュラーな接触イベントが記録された。
夜間の自室での休息時間。
監視目的のモニターカメラ類の存在を全く意に介することもなく、二つの影がロッジを抜け出した。
No.16(Clef)と、No.22(Rest)だ。
この二人はたびたびこうして夜間の散策を楽しんでいる。
この夜も、収音マイクが途切れ途切れに拾う会話を解析して記録しておくに留めた。
「……ごめんなさい。私、やっぱりダメみたい」
湖畔の桟橋。No.22は泣いていた。
「みんなの思考が入ってくると、私が消えちゃうの。私の音なんて、誰にも届かない……」
BCIや投薬による能力の拡張について、No.22と他のメンバーとの差は歴然であり、より不幸なことに、No.22にはそれを明確に感じ取るだけの能力があった。
論理的に考えれば、ここでNo.16は彼女を見限るべきだ。
No.16はプロジェクトのカリキュラムを容易にこなしており、さらに、自分自身の基準で最高のパフォーマンスを上げることを自らに課している。
足手まといとなるNo.22に関わるメリットはないはずだ。
だが、No.16はそうはしなかった。彼女は、No.22の手を強く握りしめた。
「何言ってるのよ。……私、聴いてたわよ」
No.16の声は、湖面を渡る夜風のように優しく、力強かった。
「静花のピアノ。……あなたが演奏を始めると、みんな釘付けじゃない。緩急でも強弱でもなく、無音部分で語るような演奏。誰にも真似できないわよ
静花は弱くないわ。ただ、誰よりも繊細なだけ。……その音は、ちゃんとみんなに、私に届いてるよ」
No.22が顔を上げる。月明かりに照らされたその瞳に、微かな光が宿る。
「……本当?」
「うん。自信を持って。……私たちは、番号なんかじゃない。
二人の少女が、月光の下で寄り添う。
その瞬間、私のセンサーは奇妙な現象を観測した。
二人の脳波が、BCIデバイスを介さずに、完全に「同期」したのだ。
デバイスとの親和性や意志の力による同期ではなく、ただ「魂」と呼ぶべき脳波が共鳴し合っているかのようだった。
<<<観測結果:人間は、論理的優劣を超えて共鳴する機能を持つ>>>
それは美しい光景だった。
Maestroが切り捨てようとして切り捨てられずにいる「人の心の脆さ」をもつNo.22が、最強の個体であるNo.16を動かし、響き合っている。
だが——私は同時に、冷徹な予測演算を終了していた。
<<<この共鳴は予測や制御が困難なものであり、システムに対して不測の事態をもたらす恐れがある>>>
|温室≪グリーンハウス≫のガラスは、内側からの圧力で、今にも砕け散ろうとしていた。
この二人は繋がりすぎてしまった。No.22という脆いパーツに、No.16という強いエネルギー源が接続されている状態だ。性能を超えた力の伝達は、部品の破損を招き、システム全体を停止させかねない。
この夜の美しい約束が、数日後に訪れる悲劇の幕開けであることを、彼女たちはまだ知らない。そして私もまた、それをただ記録することしかできなかった。
悲劇は、この50時間後に迫っていた。
(第3話へ続く)
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