来世でまたあえるかな

ことりいしの

第1話

 埃っぽい部屋に置かれた寝台。ヨルはきまってその上によじ登り、うたを歌っていた。選曲はそのときによってばらばらで、どこかで聴いたような賛美歌だったり、よくわからない言語のマーチだったり、部屋の隅に放置された無線ラジオが気まぐれに吐き出す流行りの音楽だったりした。朝も昼も、夜も。彼女は飽きることなく、うたを歌い続けた。

 あるとき、「なんでそんなにうたを歌ってるの?」と問うた。するとヨルは、いっとう美しい笑顔を浮かべて答えた。


「人を殺す代わりに、うたを歌っているの!」


 と。


 今日もヨルはうたを歌っている。ひどく透き通った声で紡がれるうたは、わたしの知らないうただった。なんとなく楽しんで聴いていると、ぶつんと音楽が途切れた。

 どうしたんだろう、とヨルの方を見ると、彼女はやっぱりいっとう美しい笑顔を浮かべて言った。


「ボク、明日、〈出荷〉されるんだって」


 まるで他人事のように言うヨルの言葉に、呆然とした。驚きすぎると人は頭が真っ白になると聞いたことがあったのだが、それはどうやら間違いだったらしい。

 人は驚きすぎると情報を飲み込めない、これがきっと正しい。真っ白どころか、情報が完結しいないのだ。現に、わたしの頭の中では「ボク、明日、〈出荷〉されるんだって」というヨルの言葉がぐるぐると廻っているだけだった。


「なんで……」

「なんで? 〈出荷〉されるのに理由なんか要らないよ。アサだって知ってるでしょ? ボクらはここに連れてこられたときから、〈出荷〉されるために生きてるんだから。時が来たってだけだよ」


 それはそうだけど、とわたしは口籠ってしまった。こんな急に言われるとは思わなかったのだ。今まで、〈出荷〉された同胞がいなかったわけではない。むしろ、わたしもヨルもたくさんの同胞を見送ってきた。ついでに言うなら、この時点で〈出荷〉されていないのはわたしとヨルだけだ。いつかわたしだって〈出荷〉されるんだろう。

 でも、


「ヨルは……わたしと同じときに行くんだと思ってたんだもん」

「……ボクはアサのお姉ちゃんだからね。ボクの方がアサよりも先に行くのは当たり前でしょ」


 ああ、やっぱりヨルはそうやって言うんだね。

 わたしはその言葉を、頑張って飲み込んだ。飲み込んだ言葉は、ひどく苦い味がした。飲んだことはないが、きっと大人がやたらと好んで飲むコーヒーとかいう嗜好品もこんな味がするんだろうな、とぼんやり考えていた。


「だから、ばいばいだね。アサ」


 わたしは「……そうだね」と小さく返しながら、この台詞を聞くのはもう二回目だなと思った。ヨルは再び寝台の上で、うたを歌っていた。それはわたしも知っている、子守唄だった。


✻✻✻✻


 21世紀初頭、世界は大規模のパンデミックに襲われた。人々はどこかの国のどこかの地域から零れ出たウイルスに畏怖し、逃げまどい、隠れながら生きたという。それはまごうことなく未曾有のパンデミックであり、のちに「史上最悪の大災害」と呼ばれた。そのウイルスと人間との争いは十数年にも渡り、各国におけるワクチンや治療薬開発に使われたのは途方もない額の金であった。葬儀場や墓地は常に飽和状態。多くの損害と死者を出し、ようやくウイルスを放逐したとき、世界は焼け野原であったらしい。

 その後、ウイルスとの生存競争に勝った人間たちは健康至上主義を掲げるようになった。喫煙や飲酒を法的に罰し、ときに胃腸へ負担をかける香辛料やカフェインを禁ずることもあった。来たる次のパンデミックでこれまた未知のウイルスを迎撃するため、自らの免疫細胞を鍛えようとする目的があったのかもしれない。だが結局、人々が成した政策はそれだけに留まらなかった。そもそもパンデミックを引き起こした原因は、人間の内部にあったわけではない、と誰かが気づいてしまったからだろう。

 人々は考えた。

 では、必要なのはなにか、と。

 医療技術? ──否。それも確かに必要だが、ウイルスに侵された患者を医療で助けるというのは、ただの終わりの見えないマラソンレースでしかない。

 先端の科学技術? ──否。どんなに科学技術が発展しようとも、ウイルスに対抗できないのは、「史上最悪の大災害」で証明済みだ。


 そしてあるとき、誰かが気づいてしまった。

 必要なのは、箱庭だと。


 パンデミックなどという事態を引き起こす目に見えないウイルスをそもそも発生させない環境を作り、その中に人が住めば良いのだ、と。ついでに目に見えない人間に害するものすべてを排斥する箱庭を作ってしまおう、と。

 それほどまでに、人々が目に見えないものを怖がっていたということだろう。とはいえ、目に見えないものだけが恐ろしいのかと言われれば、そうでもない気がする。目に見えないものがひどく恐ろしく感じるのは、目に見えないがゆえに想像力でそのイメージを補おうとするからであって、つまるところ人間は自分たちの想像力に恐れをなしたのである。健康至上主義とは、なんてことはない、ただ目に見えない何かを怖がらないようにするため、目には見えない恐ろしいものすべてを排除する、ただそれだけの考えであった。

 目には見えない恐ろしいものと一口に言っても、それは無数に存在する。例えば、パンデミックを引き起こしたウイルス、前世紀から有害だと言われていた放射線、などなど。それらから人間を切り離すように、世界各地の科学者と政治家が手を組み、ひとつの理想郷を組み立てた。

 それこそが、「世界」。

 健康至上主義の極致であり、そして様々な国の上級国民しか居住を許されていない人工都市であった。

 わたしたちは、その「世界」なる人工都市に〈出荷〉される。いや、正しくはそこに住まうご老人たちに奉仕するために、〈出荷〉される。これまで〈出荷〉された同胞たちもそうだったし、明日〈出荷〉されるヨルもそうだろうし、きっとそのうち〈出荷〉されるわたしもそうだ。

 だって「世界」にいる選民たちは、皆一様に、見えない恐ろしいものから逃げたくて、あそこに住んでいるのだから。


✻✻✻✻


「ねえ、ヨル」


 わたしが思考の淵に腰掛け、その深淵を覗かんとしている間も、ヨルは変わらずに寝台の上でうたを歌っていた。もう何曲目だろうか。少なくとも十はいっている気がする。彼女が本当に人を殺す代わりにうたを歌っているのだとしたら、今夜のうちに何人の人が殺されていたんだろうかと、指折り数えてしまう。


「なあに?」

「……〈出荷〉されると、わたしたちはどうなるのかな?」

「喰べられるんだよ」


 アサだって知ってるでしょ、という言葉に頷くしかなかった。どうなるか、なんてとうの昔に理解したことだったはずだ。

 わたしたちは喰べられるために生きている。

 それは「世界」に住む人たちが目には見えない恐ろしいものを忌避し始めたときから、あるいはわたしたちという存在が世間に知られてから、わたしたちにとっては決められた運命として鎮座しているのだから。

 それでも、


「それでも、ヨルが誰かのものになるなんて、考えたくなかったんだよ」

「……相変わらず、かわいいこと言うね、アサは」


 きっとだからアサは〈出荷〉が最後なんだね、と言って、ヨルが笑った。

 わたしたちが〈出荷〉される順番は、別に性格などの内面的要素に依るわけではない。むしろ生育状況や健康状態といった、身体的要素によって決まる。だからヨルが言ったことは、ほんの少し的外れだった。それでもわたしが訂正することはない。訂正したって、わたしが最後に〈出荷〉されるという事実に変わりはないのだから。


「じゃあ、ボクが他の人のになっちゃう前に、アサのものにしていいよ」


 それは砂糖よりも、蜂蜜よりも甘い言葉だった。ヨルがたまに口ずさむ、どんな流行りのラヴ・ソングよりも、わたしの心臓をどきどきさせる作用があった。そのどきどきに身を任せ、わたしはヨルの寝台へとのぼり、そして彼女の唇へとキスを落とした。チュ、という少々大袈裟なリップ音を鳴らしてから唇を離せば、嬉しそうに顔を綻ばせるヨルの姿が目に入った。


「やっぱり、アサはかわいいね」


 だが、ヨルはわたしからの行為に満足していたわけではなかったらしい。今度はヨルからわたしにキスを落としたかと思うと、わたしの首に腕を巻きつけ、深いキスをした。

 わたしの知らない、深い深いキス。

 そして唇にだけではなく、頬や鼻や目の上にも。最後の仕上げと言わんばかりに、もう一度深いキスをされた後、「これでアサがボクのものになればいいのに……」というヨルの声が聞こえたが、わたしは聞かなかったことにした。代わりに、わたしからも深いキスをした。ヨルがわたしにしてくれたのよりも、ずっとずっと下手くそだったけど、わたしだってヨルと同じ気持ちなのだ。


「……これで、ヨルがわたしのものになればいいのに」


 ヨルよりもはっきりした声で告げてみたが、やっぱり彼女も聞こえないふりをした。だって、わたしはヨルのものにはなれないし、ヨルはわたしのものにできない。ここにある事実はたったひとつ、明日、ヨルが〈出荷〉されるということだけなのだから。彼女もそれがわかっているのだろう。

 ヨルは再びうたを歌い始めた。

 わたしが知らないその曲は、愛し合ったふたりが心中するという内容だった。過激だが、美しい、恒久的な愛を歌ううた。


「わたしがヨルを喰べられたら、ヨルは永遠にわたしのものになるのにね」

 

 歌い終えたヨルに告げれば、


「ボクがアサを喰べられたら、アサは永遠にボクのものになるのにね」


 とまったく同じ言葉で返された。

 それがなんだかおかしくて、くすくすと笑えば、ヨルもつられたように笑い出した。ふたりでひとしきり笑うと、ヨルはまた歌い始めた。


「ねえ、ヨル」

「なあに?」

「なんで今日はそんなにうたを歌うの?」


 ヨルはいつもうたを歌っている。だけど、今日はいつもの比ではなかった。少なくとも夜は寝ていた。もうあと三時間も経てば夜が明けるというのに、ヨルは歌うのをやめる気配すら見せない。寝ようとする気概さえ見せない。そんなことは初めてだった。


「……ねえ、アサ知ってる?」

「なにを?」

「芸術って欲動からできるんだって。生きたいとか、死にたいとかっていう、強い欲動から」


 たまにヨルは難しいことを言う。わたしは知らないという意味をこめて、首を横に振った。


「前にアサ、ボクにきいたよね。なんでうたを歌うのかって」

「うん。……人を殺す代わりだって、ヨルは答えてくれた」

「そう。よく憶えてたね」


 あんなに衝撃的な言葉を忘れられる人がいるんだろうかと頭を捻る。ヨルだったら忘れられるんだろうか。わたしは忘れられなかったが。

 わたしたちが似ているようで少し違うのは、だいぶ前から知っていた。もしかしたら、わたしたちの違いは、情動や精神に依るところが大きいのかもしれない。


「でもねそれだけじゃないんだ。ボクは生きてるっていうことを確認するために、うたを歌ってたんだ。それまでは、生きてるってことを確認するために……人を殺してた。でもここに来てから、それは悪いことだったんだって知ったから」


 その泣きそうな様子に、幼き日のヨルの顔が重なる。今にも泣いてしまいそうなのに、瞳から雫が零れることはない。ヨルは泣くのが下手くそなのだ。それは昔からで、今も変わらない。


「……そっか」

「明日か明後日か、もっと先か。ボクはきっと歌えなくなる。……だから、とりあえず今日だけは生きてることを確認したかったんだ。あれだけ人を殺しておいて、そんなことを言うなんてダメなことかもしれないけど……」

「それは……! だってあれは、ヨルのせいじゃないのに!」

「理由がどうであっても、あの人たちをボクが殺したことに変わりはないんだ。……ボクは悪人なんだ」

「ヨルは悪人なんかじゃない! 本当に悪いのはわたしたちを騙した大人だ!」


 ヨルの言葉にかぶせるようにして言う。努めて声を出したのだが、思ったよりも大きい声が出てしまったらしい。喉が焼けたように熱かった。

 わたしの大声に驚いたように目を見開いていたヨルは、くすりと小さく笑ってから「それでも、だよ」と言った。

 

「ボクは山ほど人を殺した、それだけがボクに残っている事実だよ」

「……それならわたしも同罪だよ。わたしだって、あそこで人を殺した」

「そう、ボクらは罪人なんだ。……だから〈出荷〉されるという罰を与えられたんだ」


 でもそれは建前の理由にすぎない。

 本音がきちんとある。


 「世界」に住む、目には見えない恐ろしいものを怖がる人間が、かつて殺人を犯した女の子を欲するのは、そんなことが理由ではない。罰なら罰らしく、牢獄にでも入れて、強制労働でもさせておけばよかった話なのだから。それにもかかわらず、大人たちはあそこからわざわざわたしたちを連れて来て、育て、わずかながらの教養を施し、そして〈出荷〉するという道を選んだ。それはひとえに、わたしたちの身体が益をもたらす代物だったからだ。


「……ボクは、喰べられるならアサが良かったなぁ」


 わたしたちが「世界」に行って奉仕するのはただひとつ。

 喰べられることだ。

 それは決して比喩ではない。

 文字通り、喰べられるのだ。

 具体的には、心臓を。


「わたしだって、そうだよ」


 わたしが呟くと、それを聞き取ったらしいヨルが再びわたしの唇にキスを落とした。今度は深いキスではなく、触れる程度の優しいキスだった。


✻✻✻✻


 わたしたちは、ここではない、ずっと遠くの国で生まれた。とてもちいさな国だった。お世辞にも裕福とはいえなかったが、綺麗な花が咲くのが自慢の、美しい国だった。みんな、そこそこ幸せに生きていた。

 ミルクを飲んで、とうもろこしのパンを齧り、野菜たっぷりのスープを飲んで、たまに砂糖菓子や蜂蜜を舐めるような生活を送っていた。

 そんなゆったりとした生活を送っていたある日、突然、どこか遠い国で戦争が起こったというニュースが流れた。戦火が弾けたのがどこの国なのか、もう憶えてすらいない。ただその戦争は徐々に規模を拡大し、台風かトルネードかと見紛うような勢いを伴って、地球をぐるりと一周も二周もした。もちろん、わたしたちの住む国へも影響を及ぼした。鉄の不足、入国出国制限、食料の価格高騰などなど、その影響は多岐に渡った。

 その中で一番大きかった影響は、徴兵だった。

 大きな国から郵便屋さんがたくさんやってきて、若い男にたくさんの召集令状を配っていった。遠い昔に存在した東の国では、召集令状は赤紙と呼ばれていたらしい。きっと紙が赤だったからだろう。わたしたちの国でそれは、黒紙と呼ばれていた。その理由は、黒かったから。ただそれだけだった。

 いつもはたくさんの小麦粉やワインを運んでくる貨物列車、それに召集令状を携えた男たちは乗り込み、そして「必ず帰ってくるからな」と口々に言ってから大国へと旅立った。


 彼らが帰ってきたかどうか、わたしたちは知らない。

 彼らが帰ってくるよりも前に、わたしたちも召集されたからだ。


 やっぱりたくさんの郵便屋さんが大国からやってきて、わたしやヨル、ほかにも多くの子どもたちに召集令状を配っていった。

 召集令状を受け取った者は、ほぼ問答無用で戦場へと駆り出される。子どもであったとしても。わたしとヨルと、他にも多くの子どもたちが、これまた貨物列車に乗せられ、がたんごとんと揺られ、大国へと連れて行かれた。

 土埃が舞う、草木も生えないような荒野。祖国とは似ても似つかないほど、醜い場所だった。わたしたちはそこで上官だと名乗る男性から自動小銃を渡された。


「君たちには、お人形を壊してもらいたいんだ」


 小銃の使い方を一通り教えると、上官はにこやかな笑みを携えて言った。


「お人形?」


 誰かが零した疑問符のついた言葉。誰が発したものだったのか、はたまたみんなの言葉だったのか、わからない。ただ、そこにいた子どもたちみんなが、上官の放った言葉を理解できていなかった。


「ああ、そうだとも。私たちが戦っているのは、人間の形をしたお人形なんだ。だから、壊してほしいんだ。もう二度と動かないくらい、きちんとね」


 子どもというのは、良くも悪くも純粋だ。やれと言われた命令には従う。多くの子どもがそうであるように、わたしもヨルも、そして他の子たちもそうだった。みんな、自動小銃を持って荒野を駆け回り、上官が言っていた「お人形」を壊して回った。

 それが大きな間違いだったと知るのは、わたしたちがここに連れて来られてからだ。


「君たちには罪を償ってもらわないといけない。だから君たちはこれから〈出荷〉されるんだ。人を山ほど殺した罪だ。その身を以って償ってもらうよ」


 ここが何処なのか、そう言ったのが誰なのか、わたしたちはよく知らない。ただ、わたしたちが身を捧げていた国は戦争で敗け、わたしたちは戦犯として捕囚されたのだということだけを教え込まれた。


「その手で、その銃で何人の人間を殺した? その人には愛する妻も、子ども、親も居たのに。君たちはいったいそういう人たちをどれほど苦しめた?」


 毎日毎日、わたしたちの前にはかわるがわる軍人が来て、「お前たちが殺した家族の写真だ」とわざわざ見せにきたり、「お前たちが殺した軍人が書いた手紙だ」と朗読しに来たりした。その度にわたしたちは、「ごめんなさい」と謝り、時には軍人が履いているブーツを舐め、土下座をした。だが、ある日、その軍人にある少女が噛み付いた。確か、あれはミドリだった。


「……アタシたちは上官の命令に従って、お人形を壊しただけよ」


 すると待ってましたと言わんばかりに軍人は顔を輝かせ、ミドリの頭を踏みつけてから声を荒げた。


「黙れ! 醜い人間の出来損ないが!! ゾンビなんじゃないのか! 気持ち悪いお前たちの言うことなんて信用できるか! お前らの上官だという奴は、『お前たちにはあれが人間だということは告げていたが、自分たちのように生き返ると思い込んでいた。何度訂正しても、何度忠告しても、その認識が変わらなかった』と証言したぞ!」

「そんなこと……! アタシたちは命令に従っていただけよ! それにアタシたちはみんな人間よ!」

「人間は普通、銃で撃たれたら死ぬんだ。……それがお前らはどうだ? 死なないじゃないか。気持ち悪い」


 その軍人は唾をミドリの頭に吐き捨て、それから側に控えていたふたりの、おそらく後輩と見られる軍人に「おい、コイツは〈出荷〉だ」と指示してから、その場を後にした。そして部屋から連れ出されたミドリは、二度と帰ってくることがなかった。

 同胞たちの中で初めて〈出荷〉が完了した瞬間だった。

 それからというものの、わたしたちは初めて世の中のことを、わたしたちのことを知った。


 人間は殺したら死ぬということ。

 わたしたちは「死なない」種だということ。いや、正確には老衰などの寿命以外では死なない種だということ。


「──そういう君たちのその寿命が欲しいんだよ。ああ、いや、君たちの身体がと言った方が正しいかな。とりあえず、欲しいんだ。世のお爺さま方はね。だから、君たちは奉仕するんだ。その身体をお爺さま方に喰べてもらえるように差し出すんだよ」


 これが〈出荷〉だ。


 わかったかな、という理解を確認する問いには、「わからない」ということを答える選択肢が残されているはずがなかった。


✻✻✻✻


「ねえ、アサ」

「なあに?」


 ヨルから呼ばれるのは珍しいなと思いながらも、ヨルに倣って返した。


「なんで、「世界」に住む人たちは、ボクたちを喰べたがるんだろうね」

「怖いんだよ」

「………こわい?」

「うん。みんな、死ぬのが怖いんだよ。ウイルスが目に見えないように、死も目に見えない。それに死んだらもう二度とこの世には戻ってこられないんだ。……だからみんな怖がってるんだ。多分、一番恐れてるんだよ、死を。だからわたしたちみたいな、死なない種族を喰べて、それで怖い未来を遠ざけようとしてるんだ」


 あの人口都市は、目に見えない恐ろしいものすべてを排斥した、理想郷である。ウイルスも、放射線も、天気によっては紫外線も、というのは噂で聞いたことがあるが、本当にそんな設備があるのかもしれない。「世界」の外に住んでいるわたしたちに、真偽を確かめる術はないが。

 そんな理想郷にも、取り除けない、目に見えない恐ろしいものはまだ蔓延っている。そのひとつが「死」であり、それを取り除けるかもしれないのがわたしたちだ。あそこに住んでいるような人たちが、そんな希望の光めいたものを見逃すはずがない。

 だからわたしたちは〈出荷〉される。

 あの理想郷からひとつでも多くの恐ろしいものを取り除くために。


「……そっか。ボクにとって、目に見えなくて、一番恐ろしいものは死じゃなかったから、考えたこともなかったな」

「わたしたちは、死なないから。だから、あんまり実感がわかないのかもしれない」


 わたしもヨルも、戦場で撃たれたことがある。斬られたこともある。ヨルなんて、わたしの前に出て、「お姉ちゃんだから、アサよりも先に撃たれないとね」というよくわからない理論を引っ提げて、撃たれた。

 それでもわたしたちは死ななかった。

 そういう種だから。

 あのときは、人間はそういうものだと思っていたが。わたしたちが特別だったのだ。


 でもヨルが「目に見えないものの中で一番怖いものは死じゃない」と言うのは、それだけの理由ではないらしい。


「まあ、それもあるけど」

 

 そう言ってから、ヨルはふんふんと鼻唄を歌った。ワンプレースでは何の曲かわからない。でも彼女はひどく楽しそうだった。もうワンフレーズ、とついでに歌ってから彼女は口を開く。ワンフレーズ追加されても、やっぱり曲はわからない。


「ボクは、一番怖いのは愛だと思ってるから」

「……あい?」

「そう、愛。友愛、親愛、家族愛、恋愛。いろんな愛のかたちがあるけど、そのどれもが目に見えない。それに怖いんだよ」

「……なんで? 愛って綺麗なものでしょ?」


 ヨルは「ノンノン」と人差し指を振った。


「愛は、歪んだ感情だよ。それがどんなかたちであってもね」


 そう言ってから、ヨルはいっとう美しい笑みを浮かべた。そしてわたしの首へと腕を伸ばし、巻きつけてから深いキスをした。さっきのよりも、もっともっと深いキスだった。酸欠になるのではないかと思うほど長い時間、口を塞がれる。それからヨルは仕上げと言わんばかりに、首筋に吸い付いた。


「ねえ、アサ。お願いだよ」

「……ヨル?」

「アサは誰のものにもならないで。誰にも喰べられないで」


 そう言われた瞬間、視界の端で何かがきらりと煌めくのが見えた。

 ナイフだ。

 理解するのは一瞬だった。数年とはいえ、一時は戦場に身を置いていたのだから、当たり前だろう。

 

 だけど、


「ヨル? わたしたちは、殺されたって死なないよ?」


 そんなことはヨルだって知っているはずだ。

 だからわたしたちは〈出荷〉されるのだから。


「うん、知ってる。……でもね、アサ。ボクはこうしたら良いってことは知ってるんだ」


 ヨルがさっき吸い付いたわたしの首筋にナイフをぴたりと当てる。それはひんやりとした冷たかった。ヨルはにこりと笑いながら、ナイフを滑らせる。するとあたりには鉄っぽいにおいが充満した。


 血だ。

 そんなことは考えずともわかった。


「アサ、ボクは、国にいたときからずっと、アサがいれば他はどうでも良かったんだ」


 貧血のせいで薄れゆく意識の中、ヨルが呟いた言葉がわたしの鼓膜を揺らした。それが果たしてどんな意味を持っていて、どんな未来を示唆するのかは、血も酸素も足りないわたしの頭では考えられるわけがなかった。


「──アサ、永遠に愛してる」



 



 



 

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