scene:006
轟くような振動が近づいたと思うと、窓が赤く照らされる。賑やかな笑声と共に、パブの扉がギィ、と軋んだ。
「フェリクス! 何しっぽり飲んでんだ」
派手な髪色に染めた男が顔を出し、その奥にも更に一人。フェリクスの遊び仲間だろう。その顔を見ると気安い素振りで手を挙げて、フェリクスはグラスの底を煽った。
「――エヴァンは行かんの?」
尻にへこみをつけたオープンカーには、酒精を帯びた若者たちがジョッキの縁から溢れる泡のように乗り込んでいる。運転手と席を代わろうとしているフェリクスに問われて、エヴァンはコートの襟を首に寄せた。
「行くと思うか?」
「わぁってるよ。はいはい、真面目! じゃあな、また職場で」
仲間に袖を引かれて滑り落ちるように車に乗り、フェリクスはアクセルペダルを踏み込んだ。夜を響かせ、石畳をかち割りそうに走り去る車の向こうには、煙る空を照らす騒がしい光が漏れている。
エヴァンはひとり、街灯の並ぶ歩道に踵を巡らせた。
***
連れ立ってキャバレーに乗り込んで、際どい衣装で踊る女たちを眺めながら、けたたましい音楽の中で杯を重ね、口説いた女を宿に連れ込む――同じ年頃の青年たちが好むような夜の都会の作法が、残念ながらエヴァンは得意ではなかった。
気に入りの書店を梯子して見つけた専門書を片手に、隠れ家めいた場所で心静かにコーヒーを味わう。そんな過ごし方が、彼にとって酒の酩酊や奔放なセックスより価値のあることだった。
女に興味がなさすぎるなんて言われることがあるけれど、そんなことはないと自分では思う。
だって現に、金曜夜の"カフェ・クロリス"に通っている。あの女性店員の笑顔のために。
「居心地がいいから」、そう澄まし顔で嘯いてみたところで、この習慣は客観的に見れば、どう考えても女性目当ての行動なのだ。
そう思い至ると、倫理にもとる行ないをしている気分になる。彼女はコーヒーを給仕しているだけで、男の接待をしているわけではないのに。
エヴァンは書棚の前で立ち尽くした。整然と並ぶ標題が、紙とインクの匂いを静かに漂わせている。
薬の作用機序。重篤な副作用の報告例。目についた論文集を手に取り、めくってみる。興味を惹かれる内容であることは分かるのに、文字に意味が乗ってこない。
寝る前に茶を淹れて布団でゆっくり読もうと思い、会計を済ませて扉を引き開けた。
書店を出ると、霜曇りの空はいよいよ墨を流したような闇だった。その手の届かないような、底の見えない深さが、あのカフェの彼女の瞳に似ている。
微風と共に吹き降りてくる冷気に、エヴァンは身震いして、マフラーを首に掻き寄せた。
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