scene:005
休日だというのに、エヴァンは同僚のフェリクスに街角で腕を捕えられた。
「飲み付き合えって!」と、強引に引き摺られて、黒く煤けたパブの扉を潜る。
琥珀色の液体が、ずらりと棚に並んだ分厚い瓶の中で輝く。ビールの泡と共にグラスを掲げて笑う声が、店内の空気を弾いた。
低い天井を漂う煙草と酒のにおい。
奥の席でギターを爪弾く男が、腕の中の曲線をどこか愛しげに抱えている。
エヴァンはそれほど酒が好きというわけではない。付き合いで嗜む程度で、酔うためのものというより間をもたせるための道具だ。それがわかっていて誘うのだから、フェリクスも人が悪い。
立ち飲みの小卓に肘を乗せ、軽めのエールをちびちびと口にするエヴァンに、フェリクスはくだらない世間話の延長のように言った。
「そういやお前、昨夜はどうだったん? 夜カフェデート」
エヴァンは眉を寄せた。
「だからデートじゃないって」
グラスを傾けると、唇の先で苦い泡が揺れた。
フェリクスは肩を軽く震って、笑みを喉に噛み締めた。グラスを持ち上げると、木製の卓の面に黒く艶めく水の輪が残る。
「男がプライベートで足繁く通う先なんて、女しかないだろ。誤魔化すなって。可愛い店員さんでもいる?」
その言葉に、胸がわずかに熱を帯びる。パブの低いランプの灯りが、不意にあの小さなカフェを満たす柔らかな光に重なった。
――いや、これはアルコールのせいだ。
誤魔化すように口に含んだエールが、泡と苦味を舌に残して喉を灼いた。その奥に浮かぶ彼女の微笑みや白い指先の印象が、胸の鼓動を少しだけ急かす。
「その子、名前は?」
フェリクスが何気ない調子で続けた。
物思いに耽りはじめていたエヴァンの手の下で、グラスのかいた汗が雫を結ぶ。
「まだ……訊いてない……」
エールの水面に声が籠る。
フェリクスのグラスが小卓をごんと叩いた。
「いや訊けよ!!」
彼の声がギターの音色より高く天井に響く。跳ねるように肩を竦めたエヴァンの背をフェリクスの手が容赦なく叩いてくる。
「進むも進まないも、そっからだろ!」
「向こうは仕事中だぞ。コーヒー飲んで帰るだけの客に個人的なこと訊かれたって困るだろ……」
だいいち、それで引かれてしまうのは辛い。せっかく彼女のそばで心地良いひとときを過ごせているのに、無闇に近づいて壊したくなかった。
グラスの内側が溜め息で、ふっと曇る。それを見て、フェリクスは眉尻を下げた。優しいというか臆病というか、と呟いて、グラスを掲げる。
「訊けって。嫌なら向こうだって断ってくるよ。可愛い女性店員が男に声をかけられることなんて、珍しくないんだから。名乗るの躊躇されたら、そこで大人しく客の距離に戻ればいいだけだろ」
窓ガラスを駆けた車の前照灯が、彼の肩を滑る。しゅう、とカウンターの奥で泡の立つ音が、エヴァンの目に映る景色を霞ませた。
人々の笑い声が、どこか遠い。
「今のままじゃ、ただの名無しの常連だぞ、お前」
冗談めいたそんな一言に、エヴァンは言葉を詰まらせる。
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