第九話:観測逆転 ― 心を読む者

1 深層域の暗闇


 遥斗は歩道橋の手すりに手を添え、息を荒くしていた。


 視界は揺れ、足元の感触すら曖昧で、

 本来あるべき“未来視の気配”は完全に消えている。


(……完全に封じられた……

 もう一秒先すら見えねぇ……)


 未来の可能性も、危険も、選択も——

 何も読めない。


 深層域の空気は喉奥を刺すように冷たく、

 ただ立っているだけで意識が削られていく。


 紗雪はその中心で、静かに遥斗を見つめていた。


「……ねぇ遥斗くん。

 もうわかったよね? あなたはもう、未来を見れない」


「……ああ。完全に……消されたよ」


 そして、紗雪の声は冷たいほどに優しい。


「だったら、ここで引き返して。

 これ以上は、本当に戻れなくなる」


 その瞳には、強い決意と同時に——

 かすかな“怯え”が混じっていた。


(……それだ)


 遥斗は、自分の胸に走った微かなひらめきを手放さなかった。


2 “揺らぎ”という情報


 未来視は死んだ。

 それでも、紗雪の表情は見える。


(紗雪の能力は、未来の確率を書き換える……

 でも、お前の“今の心”は操作できねぇ)


 紗雪のまつげが、ほんの一瞬だけ震える。

 彼女が嘘をつく時の癖。


(ビビってる……)


 深層域を張ったまま、紗雪は必死に平静を保とうとしている。

 だが、その心は完全に冷静じゃない。


「紗雪。

 言わせてもらうけど……お前、今めちゃくちゃ焦ってるだろ」


「……何を?」


「俺が未来視を失っても“前に進む”って気づいちまったから」


「っ……」


 紗雪の瞳が揺れる。


 それだけで、遥斗にはわかる。


(図星か)


3 心理の読み合い


「紗雪、お前の能力はたしかにすげぇよ。

 世界を歪ませて、未来を狂わせて……俺の選択肢を奪う」


 遥斗はゆっくりと一歩踏み出す。


 未来視なし。

 だが“紗雪の今”は読める。


「でもな、ひとつだけ致命的な弱点がある」


「……弱点なんて、わたしには——」


「お前、すぐに“視線”に出るんだよ」


 紗雪の呼吸が止まった。


「危ない未来を隠すとき……一瞬だけ俺から視線が逸れる。

 深層域でも、それだけは誤魔化せない」


「……遥斗くん、やめて」


「お前は今何を見てる?

 俺じゃない。

 “俺がどんな行動を取るか”を必死に予想してる」


 紗雪の肩が震えた。


(未来が歪むと紗雪は焦る。

 俺が予測不可能だと、心の奥が揺れる。

 それが、深層域の安定を崩す……)


 だからこそ、遥斗は紗雪の弱点を突き続ける。


「未来を封じても、俺の“心理”までは封じられない。

 そして……

 紗雪、お前の心理は“丸見え”なんだよ」


「……そんな……」


4 紗雪の心を“観測”する


 未来ではなく、

 紗雪の心の動きを読む。


 それが遥斗の新しい武器だった。


「紗雪、お前……俺が父さんを殺す未来を見るのが怖いんだろ」


「っ……!?」


 紗雪の足が半歩、後ろに引いた。

 それは彼女が動揺した時の、無意識の後退。


(そうだ……そういう時、紗雪は必ず“下がる”。

 なら、次の動きは……)


「紗雪、俺は前に進むぞ」


「来ないで……!」


 紗雪が手を伸ばし、深層域の歪みを強めようとする。

 しかし——


 その手の震えは、遥斗にはよく見えた。


(強がってる……

 深層域の負荷で、お前も限界が近い……)


「紗雪。

 お前の力じゃ、もう俺は止められない」


「やめて……お願い……!」


 紗雪の叫びは、

 “未来の危険”への恐怖ではなく——

 遥斗を失うことへの恐怖に聞こえた。


 そしてその揺れは、深層域そのものを不安定化させる。


 空気が荒れ、幻影が歪み、周囲の世界がひび割れ始めた。


 紗雪は唇を噛む。


「……どうして……

 どうして未来視もないのに、

 わたしの動きを読めるの……?」


 遥斗はまっすぐに答える。


「簡単だよ。

 紗雪をずっと見てきたからだ」


「……え?」


「未来視より、お前の癖のほうがずっと正確だ。

 深層域なんかより……お前の震えてる手のほうが、よっぽど意味がある」


「……遥斗くん……」


 紗雪の瞳に涙が滲む。


 未来を読む力が消えても——

 紗雪の心だけは、ずっと見えていた。


「紗雪。

 俺は未来じゃなく、

 お前の“いま”を観測して進む。」


 その瞬間、深層域は——

 大きく、限界を迎えるように揺れた。

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