第十九話 初めて未来に触れる日

午後四時。

 キャンパスの空気は夕方の静けさに変わっていた。


 雨宮は保健室で少し休んだあと、

 帰宅のために玄関ホールにいた。


「じゃあ……行きますね」


 弱い笑みを浮かべる雨宮。

 だが、その笑みの裏には、確かな恐怖が潜んでいた。


 ――俺も透子も、それを感じ取っていた。


「雨宮」


 俺は思わず呼び止めた。


「気をつけて帰ってくれ。

 特に、家の近くの“T字路”。

 右側から来る車に注意して」


 雨宮はこくりと頷く。


「分かっています。

 ……未来を変えられるかどうか……私も、試してみたい」


 彼女は深呼吸をし、一歩踏み出した。


 自動ドアが開き、雨宮の姿が夕陽に溶けていく。


 その背中を見送りながら、胸の奥がざわついていた。


(俺が見た未来――

 あのT字路で、自転車と車が衝突する瞬間。

 あれが“絶対”なのか、

 警告すれば“変わる”のか……)


 予知を得て初めて、

 “他人の命”が試される。


 怖くないはずがなかった。


■透子の判断


 玄関ホールに残った俺に、透子が声をかけた。


「……見に行くんでしょ?」


 俺は驚いて彼女を見る。


「な、なんで分かるんだよ」


「顔に書いてある。

 “放っておけない”って」


 透子はため息をついて肩をすくめた。


「まあ……私も気になるけどね。

 未来が変わるのかどうかなんて、普通考えないし」


 そう言って、スマホを取り出した。


「雨宮さんの家の付近まで、歩いたら三十分。

 急げば二十分で行ける」


「……透子、ついてくる気か?」


「当然。

 あなた一人に任せたら、不安で死にそうだから」


 返す言葉がなかった。


(本当に……透子は頼りになる)


「じゃ、行こっか。

 “未来の実証実験”ってやつだね」


 透子が玄関へ歩き出す。

 俺はその背中を追った。


■T字路へ


 夕暮れの街を、俺たちは早足で進んだ。


 電柱の影が長く伸び、

 車のライトがぽつりぽつりと灯り始める。

 住宅街の匂い。学校帰りの子どもたちの声。


 普通の景色。

 だが――胸の鼓動は落ち着かない。


「……なあ、透子」


「ん?」


「もし雨宮が無事に帰ったら……

 本当に未来は変えられるってことになる」


「そうだね」


「逆に……」


 言葉を続けられなかった。

 透子は小さく息を吐いた。


「怖いけど……見届けるしかないよ」


 ただ歩く。

 しかし足取りは重い。


 そして――目的のT字路が視界に入った。


■予知の光景との“照合”


 街灯の下、雨宮が自転車でゆっくり近づいてくる。

 家へ向かっているらしい。


(ここだ……この場所だ)


 俺が見た未来の映像が脳裏で重なる。


 雨宮の位置――一致。

  車道の向こう側――一致。

 右側から来る白い車――


(……来てない)


 俺は思わず息をのんだ。


「……車、来てないね」


 透子も小声でささやく。


「もしかして、本当に――」


 だが。


 その瞬間。


 遠くで、微かなエンジン音がした。


(来た……!)


 予知で見た“白いコンパクトカー”。


 角の向こうから速度を落とさず近づいてくる。


「雨宮!止まれ!!」


 俺は全力で叫んだ。

 透子も叫んだ。


「雨宮さん、右っ!!」


 雨宮はハッと顔を上げ、右へ視線を向ける。


 ――そして。


 ギリギリのところで、自転車のブレーキ音が響いた。


 白い車が前を横切り――

 雨宮の数十センチ先で通り過ぎていく。


 危機は、回避された。


■未来は確かに変わった


 雨宮は震える手でハンドルを握りながら、

 ゆっくり俺たちの方へ歩いてきた。


「……助かりました……本当に。

 今の……あれが……」


「そう。

 俺が見た“未来の事故”そのものだった」


 雨宮の膝がガクッと崩れ、透子が支える。


「予知……本物……なんですね」


 雨宮の声はかすれていたが、

 その目には確かな実感が宿っていた。


 事故は起きなかった。

 未来は、変わったのだ。


(……本当に、変えられる)


 胸の奥がじんと熱くなる。


 ただの実験ではない。

 誰かの命が救われた。


 100円で買った力。

 だがその価値は――

 俺が思っていた以上に重かった。

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