家族暖乱
旭
第1話 路地裏の朝
1980年代。
まだバブルの気配が濃くなる少し前、東京の下町には人情と昭和の香りがしっかり残っていた。
山下家は、古い木造の二階建て。
路地裏に面した家の前では、朝から近所のおじさんが植木に水をやり、
魚屋のトラックが軽快なクラクションを鳴らしながら通り抜ける。
父・山下誠一(42)。町工場で働く熟練の職人。
母・山下澄江(40)。パートをしながら家を支えるしっかり者。
姉・美咲(14)。中学2年生で、やや思春期の入り口。
弟・陽介(10)。ゲームと駄菓子と秘密基地が大好きな小学5年生。
四人の暮らしは、狭いけれど温かなものだった。
「ほら二人とも、起きないと遅刻するわよ!」
澄江の声が家に響く。
二階の部屋で、布団をかぶっている陽介は唸り声を上げる。
「……あと五分だけぇぇ」
「五分じゃ済まないでしょ!」
隣では美咲が静かに制服のスカートを整えていた。
が、階段を降りる途中でぼそっと文句を言う。
「なんで私ばっかり怒られんのよ……。寝ないようにテレビ見てた陽介が悪いのに」
陽介がすかさず叫び返す。
「姉ちゃんだって漫画読んでただろ!」
「ちょっと、二人ともケンカしない!」
澄江の鋭い声が飛ぶと、家は急に大人しくなった。
茶碗を並べていると、誠一が新聞を畳んで言った。
「今日から新しい機械が入るんだよ。うまく使いこなせるといいんだがな」
「お父さんなら大丈夫でしょ」
美咲が珍しく素直な声で言う。
「おお、そう言ってくれるのは嬉しいな」
誠一は照れくさそうに頭をかいた。
澄江は味噌汁をよそいながら、夫の背中を見つめる。
バブルに浮かれはじめた都心とは違い、下町の町工場はどこも厳しさを抱えていた。
けれど、誠一は黙って仕事に向き合う男だった。
「無理しないでね。機械が新しくなったって、人間は変わらないんだから」
「はは、そりゃそうだ」
学校へ向かう路地は、今日もにぎやかだ。
パン屋の前では甘い香り、酒屋の店先では常連が朝から冗談を飛ばし合っている。
「姉ちゃん、今日さ、帰りに秘密基地行こうぜ」
「暑いからいやよ。あんたこそ宿題やりなさいよ」
「宿題なんて八月の最後にやればいいんだよ!」
「……それ、去年も言って泣いてたじゃない」
陽介はむくれて歩いた。
けれど不思議と、姉の歩幅に合わせてしまう。
そんな光景を見ながら、店先の豆腐屋のおばちゃんが笑う。
「今日も仲良しねぇ、山下の姉弟は」
「あの人、どこ見て言ってんだよ……」
美咲は小声で呟くが、どこか悪い気はしなかった。
その日の夕方。
工場から帰った誠一が、珍しく買い物袋を手に帰ってきた。
「どうしたの? そんなの買うなんて」
澄江が首をかしげると、誠一は袋の口を開いた。
「新しいラジカセだよ。工場の若いのが教えてくれたんだ。今はこういうのが流行りらしくてな」
「えっ、ラジカセ!? うちにもついに!?」
陽介が飛びつく。
テレビはあっても、ラジカセはまだなかった山下家。
音楽が手軽に楽しめる機械は、子どもたちにとって小さな夢のようなものだ。
「すげー……これで聖子ちゃん聞けるじゃん!」
「陽介、あんたは聖子ちゃんよりドラえもんの歌でしょ」
「違う! 最近はチェッカーズだよ!」
わいわい騒ぐ子どもたちを見て、誠一も嬉しそうに笑った。
夕食後、ラジカセから軽快なポップスが流れ、
台所では澄江が洗い物をしながら小さく鼻歌を歌っていた。
美咲は雑誌を読み、陽介はラジカセの前に正座し、
誠一はラジオニュースに耳を傾けている。
まるでバラバラのようで、でもひとつの空気でつながっている。
そんな下町の家族の夜。
澄江はふと手を止めて、家族を振り返った。
――時代が変わっても、こうして4人が一緒にいられたらいい。
ラジカセからの音が、いつもより少し温かく聞こえた。
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