一 常春に、冬来る
廻る映写機
じじ、と、音が聞こえた気がした。まるで、蛾の翅を灼くような音だった。
ところどころ白く光が飛ぶような景色を、だらりと腕を垂れ提げて椅子に座ったままに見ている。ぼんやりと靄のかかる頭の中、夢の二文字が浮かんでは消えた。
かしゃり。
まばたきをひとつ。それだけでまるで映写機で写した映像のように画面が切り替わる。咲き誇る白い花、揺らぐ尾のような銀の花。ここに眠った鳥の尾であると伝わる、藤にも似た太い房のように垂れ下がる銀色は、命の息吹のない池のおもてと同じ色をしている。
――
言葉を紡いだはずなのに、それは音にはならなかった。
男は、眉を顰めて首を横に振るだけだった。理由も何も口にすることはなく。音のない映像は男の姿からまた白い花にゆっくりと移動し、そして今度は素早く男の姿を映す。近付いた男の顔は徐々にぼんやりとしたものに変わっていき、焦点が合わなくなる。彼は夢でも見ているような顔になり、口をはくはくと動かして何かを喚いているようだった。
音は、やはりない。
名前を呼んで、けれど何を言えば良いのだろう。夢の中にいるような男には最早何も伝わらないことは、紗々羅にも分かっていた。
かしゃり。
再び、まばたきをする。
また映像が切り替わる。今度は良く知る、店の軒先。入口のところでふたつの誘蛾灯の燈火に誘われるように、ふらふらと憐れな蛾が飛んできた。
蛾は、その翅を灼かれて無惨にも落ちた。黒い煤だけが立ち昇る。誘蛾灯の燈火に惹かれなければ、翅を灼かれることもなかっただろうに。
蛾の翅が翻る。影が消え――誘蛾灯の燈火の輝きだけがちらついた。
かしゃり。
今度は、池の畔。頭を抱えて何かを叫んでいる男を、蛾の翅を纏った男が冷たい目で見ていた。
風に真っ白な花弁が攫われて、視界の端で翻った。ただ暗いばかりだった映像の中、柔らかな光が反射し、池を淡い銀色に染めていく。
何の生き物の息遣いもない、ただただ冷たいばかりの池の畔。蛾の男が向けている視線は池の冷たさにも似ていた。
それまでほとんど動きのなかった蛾の翅が、一瞬、激しく震えた。鱗粉が撒き散らされるかのように、色が飛ぶ。燃え上がった誘蛾灯の燈火が眩しくて思わず目を閉じれば、深く影の中に沈んでいく。
かしゃん。
水面が小さく、けれど激しくさざめいた。開いた視界の端、静寂を打ち破られた池が銀色を反射させている。
もう一度、誘蛾灯の燈火が燃え上がる。
翅を赤く染めて、蛾が落ちる――赤く染まった蛾の翅は、再び静寂の訪れた濃密な闇に溶けていった。
かしゃん。
もう、そこには何もない。ただただ暗いばかりの闇の中、視界の端で輝く白が踊る。誰かの息遣いのようにゆらゆらと揺れる白が、大きくたわむ。耳元で揺さぶるように、白が囁くようなかすかな音を立てている。けれどそれは触れる寸前に、逃げるように闇へと溶けて消えてしまった。
それを追うように、弾かれるように、急き立てられるように、闇を駆けた。
かしゃん。
激しく映像が切り替わり、頭がくらくらする。
鳥が眠っている。龍と袂を分かち、この地に眠り、もう二度と目覚めない鳥が。その銀色の尾だけを、地上に残して。
水面の銀色、鳥の銀色。その銀色を追いかける。もう一度、その失われた声を、と。
忘れたいのよ、忘れさせてよ。憐れな女の演技をした、甘い声が耳に流れてくる。聞きたいのはその声ではないのに、もう二度と聞こえない、聞きたくもない声が静寂を侵食してきて、思わずそこにうずくまった。
聞きたい声は、これではないのだ。あの銀色の、もっとやさしくて、もっとやわらかい、人の死を嘆くあの声が、聞きたいのに。
分かっている。もう銀色の声は聞こえない。白い花すらも、触れることを厭うようにして消えていく。
これは、拒絶だ。死を厭うからこそ、死を招いたものを拒絶する。
忘れたいの、忘れさせてよ。だから忘れさせてあげたじゃない。憐れな女の演技に、騙されてあげたじゃない。でも、そのせいで。
常春の地に、拒絶の冷たい雪が吹雪いた。
そうして、紗々羅の繰り返し見る夢の終わり。
白は一瞬だけ輝いて闇に溶け、ひたすらに濃密な闇と静寂が漂う中。焼け焦げた赤い蛾の翅だけが、手の上に仄かにあたたかさを残していった。
虚しい。
苦しい。
恋しい。
さよなら――うるう。私の友達。私に力を与えた、常春の鳥。
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