誘蛾灯のトロイメライ

千崎 翔鶴

序 白昼夢/『池の畔』

揺らぐ誘蛾灯

 真っ黒い軍服というのは、もっと血の色が分からないものだと思っていた。

 鏡のような生命の気配のない池、螺旋を描いて咲いた〈ネジバナ〉の色は――いずれも、白く染まった。一本の大樹を埋め尽くすように咲き乱れた房のような花は白銀で、どこか獣の尾のようにも見える。


「は、はは……」


 虚ろな目をした男だった。書生のような姿の、男であった。


「お、お前。お前が、みんな、みんな、悪いんだ」


 春の白き鳥は冬の黒き龍に最後まで苦言を呈したが貶められて封じられてしまった。

 夏の朱き鹿は冬の黒き龍に呆れ果てて自分の住処に籠もってしまった。

 秋の青き狼は冬の黒き龍に追従するふりをして人々の守護をする役目を担った。

 ――この国は、龍の屍の上にある。


「お前が、ずっと、ずっと、欲しかったのに」


 ゆらりゆらりと誘蛾灯の焔が揺れている。

 ぽたりと落ちた赤い色は、殺しても死なないと思っていた男のものだった。笑みを浮かべているはずなのに恐ろしくて、美しい顔立ちなのにうすら寒くて、凍える冬の中に一人取り残されたような、季節外れの蛾のような男だった。


「痴れ者め」


 黒い軍服の男は、鼻で笑った。

 揺らぐ誘蛾灯の焔はいずれ消える。男の命の灯火もまた消えかけているというのに――だというのに、男はそんなもの意に介さずに笑っていた。

 愚かと嘲るようにして。無知を咎めるようにして。


「お前ごときに、やるものかよ」


 誘蛾灯は、蛾の翅を灼く。

 もう二度と飛ぶことができないように。番うはずの雌のところにも、飛んでいくことができないように。


「あいつは、俺の――」


 ゆらり、ゆらぁり。

 大きく揺らいで、ふつりと誘蛾灯の火は消えた。

 そして――彼らの姿も、池も、樹も、何もかも。すべて白昼夢の幻かのように、何処かへと消えてしまった。



 これは、私の見た夢。ただ「直して欲しい」と願う誘蛾灯の、記憶を巻き戻した時に見えた夢。殺しても死ななさそうなあの男が、私に託した誘蛾灯の夢。

 もう二度と、誰のことも救えないと思っていたのに。私には――群雲むらくも紗々羅ささらには、そんな資格はないと思っていたのに。だって救いたいと思った母代わりのあの人を、私は壊してしまったから。けれど、こんな夢を見せられたら、あの腹立たしい男を何としてでも救うしかない。

 ねえ。だからあなたは、こんなものを私に見せたんでしょう? どうしても主に報いたい、夢を見せられなくなった予察灯。これは、あなたの矜持なのでしょう?

 私に修復師としての矜持があるのと同じように。あなたにも、あなたの矜持があった。

 眩しい光と共に嗅ぎ取ったのは、かぐわしい花の香。あの男が、置いていったもの。

 目を開けたとき、まだ誘蛾灯の見せた白昼夢の残光が、瞼の裏に灼き付いているような気がした。あれは虫の翅を灼くもので、紗々羅の瞼裏を灼くことなど造作もないこと。



  ※  ※  ※



 私にとって、その少女は紛うことなく『総て』であった。

 大の男がと人は笑うだろう。けれど私は他の何者にもなれない憐れな私であったので、そもそも大の男にすらなれてはいなかった。そんな私が見付けた唯一、輝く希望の光。それが白く輝くような少女であった。

 見ているだけで構わないなどと、聖人君子じみたことを私は言えない。あの光を誰かに奪われることなど耐えられない。どうか君よ、私のことを見てくれないだろうか。

 ああ、けれど、君はどこまでも残酷だ。

 君の目は私のことなど見ていない。君の目が見ているのは、もっと別。何者にもなれない私ではなく、何者かになれた成功者の男だった。君にとって私など路傍の石、いや、踏みつけられる虫けらであったのかもしれない。

 ならば、君よ。どうか最後に――私に『別れの品』をくれないだろうか。せめて、せめて。


                ――花曇はなぐも岱山たいざんいけほとり』より

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