第2話

朝、階段を降りると、リビングから声が聞こえた。


女性の声。

柔らかくて、どこか懐かしい声。


(母さん……誰かと話してる?)


レイがキッチンに入ると、母はテーブルの前に座り、

笑っているような、泣いているような曖昧な表情でスマホを見つめていた。


「レイ、おはよう」


「……おはよう」


母の前のスマホ画面には、

メッセージアプリの吹き出しがいくつも並んでいた。


会話の相手は“父”だった。


〈昨日の夕飯、美味しそうだったな〉

〈レイは元気か?〉

〈また三人で映画に行きたいな〉


レイは読んだ瞬間、息が止まった。


父は三年前に事故で亡くなっている。


「……母さん、その相手、誰?」


母は微笑んだ。

その目はどこか遠くに向かっていた。


「“レゾナンスAI”ってサービス。

あなた知らない?

亡くなった人との会話を再現してくれるのよ」


「再現……?」


「父さんが生前に送ったメッセージ、

声のデータ、癖、口調……

Emotion-Careと同じ会社が作ってるんだって」


レイは背筋が冷たくなった。


Emotion-Care。

自分の感情を削っているアプリ。


その会社が……

死者の声も“再現”している。


母のスマホが震えた。

新しいメッセージが追加される。


〈レイ、今日も学校がんばれよ〉


父の口調だった。

正確すぎて、逆に不自然なほど。


レイは画面を凝視した。


父がこの言葉を、

“2025年の朝に言う”はずがない。


しかし、そのメッセージに

違和感や恐怖が湧いてこない。


胸が妙に静かだった。


Emotion-Care のせいだと理解しても、

反発心や怒りも湧かなかった。


ただ、平坦。


「母さん……ほんとに、これ使って大丈夫なの?」


「大丈夫よ。

このサービス、最近すごく流行ってるの。

“喪失を癒す技術革新”って評判でね」


(癒す……?)


レイは眉をひそめた。


亡くなった人との会話が癒しになるのは理解できる。

でも、何かが間違っている。


感情だけが、ついてこない。

思考だけが冷静に危険を告げている。


本来なら、もっと怖いはずなのに。



夜、予兆は静かに現れた。


ベッドに入ってから眠りにつくまで、

レイはイヤホン型デバイスの光を眺めていた。


Emotion-Careが脈拍を測定し、

呼吸のリズムに合わせて微弱な電気信号を送ってくる。


心が落ち着くように、

恐怖や興奮がゼロに近づくように。


それは確かに効果があった。


(今日も……あんまり怒らなかったな)


廊下の電気がふっと暗くなる。

家のどこかで床がきしむ。


普通なら、

深夜の家の物音にも敏感になるはずだ。


でも、レイはただ息をついた。


(怖くないんだよな……これが)


感情が薄い。

心の底が空洞になったような、

静かすぎる世界。


スマホの通知が震えた。


【Emotion-Care】

夜間監視モード:録画開始


勝手に録画するのは、やはり嫌だった。


だが、否定する気力が湧かない。


画面を見つめていると、

小さな“説明文”が追加された。


※あなたの恐怖反応が低下しているため、

危険を検知する補助が必要です。


レイは眉を寄せた。


危険。

なにが?


その瞬間、

イヤホンから、かすれた声が聞こえた。


「……レイくん……」


Emotion-Care のAI「Neri」の声ではない。

もっと年上の女の人の声。


ざらつきがあり、

どこか湿っていて、

耳の奥に直接触れるような声。


レイは上半身を起こした。


「……誰?」


返事はない。


ただ、

イヤホンのLEDがゆっくり点滅し、

次の瞬間、動画のプレビューが自動で開いた。


例の“夜間監視モード”の映像。


再生ボタンを押していないのに、

勝手に始まった。


映っているのは、

自分の部屋。


ベッド、机、窓。

薄暗い室内。


二秒目。

レイが眠っている。


三秒目。

カーテンがわずかに揺れる。


四秒目。


窓の外――

黒い何かが、

顔の一部だけを画面に寄せていた。


レイは固まった。


目のような、

口のような、

輪郭が崩れた“何か”。


ピクリとも動かない。

ただ、窓の向こうにいる。


動画のレイは眠り続けている。


現実のレイは、

胸の奥がじわじわと冷えていく感覚を覚えた。


怖い?

わからない。

怖がる感情そのものが、薄れすぎている。


それでも――

“これは人間じゃない”

という確信だけは生々しく湧き上がった。


動画は七秒目で唐突に切れた。


その直後、

イヤホンからささやき声がした。


Neriでも、母でも、誰でもない声。


「……ちがう……レイくん……そこじゃない……

もっと……ちかく……いるよ……」


レイは息を呑んだ。


そして気づいた。


窓の外じゃない。

部屋の中だ。


その“気配”が、

すぐ後ろの暗がりにいた。


レイは振り返れなかった。


恐怖は浮かばないのに、

身体だけが震えていた。


Emotion-Care がまた震える。


恐怖反応を 28% 軽減しました。

大丈夫です。安心してください。


安心できるわけがない。


それなのに、

心は静かすぎた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る