感情削除プログラムα
からし
第1話
最初にそれを見つけたのは、学校から帰ってきた夕方だった。
春海レイは、部屋に置きっぱなしにしていたスマホを手に取って、
無意識のうちに通知を消そうとして、ふと指が止まった。
見慣れないアプリが、画面の中央に浮かんでいる。
淡い青色の丸いロゴ。
その下に、柔らかいフォントで名前が表示されていた。
Emotion-Care
── あなたのつらさを、静かに削ります。
「……いつ入れたっけ」
インストールした覚えはない。
母が勝手に入れたのかもしれない。
最近、レイの“情動障害”のことで心配していたから。
ホームボタンを押しても、アイコンは消えなかった。
アプリはじっと、そこに存在している。
なんとなく嫌な気配を感じながら、
レイはアプリをタップした。
画面が白く染まり、
簡単な説明文が表示される。
Emotion-Care は、AIによる最新の感情ケアサービスです。
恐怖・怒り・悲しみなど、あなたを苦しめる感情を軽減し、
心の生活ノイズを削ります。
※本アプリは医師の承認のもと自動的に更新されています。
(母さん……勝手に設定したんだ)
ため息をつきながら閉じようとすると、
画面が一瞬だけちらっと揺れた。
ノイズだろうか。
白い画面に、
黒い“手”のようなものが一瞬浮かんだ気がした。
レイは目を瞬く。
「……今の、何?」
見間違いのはずだ。
アプリを閉じ、勉強机に置いていたイヤホンを取り出そうとしたとき、
スマホが震えた。
【Emotion-Care】
初期分析を開始しました。
春海レイさん、少しだけ“恐怖”が強いようです。
本日分のノイズを軽減しますか?
軽減しますか?
その言い方が妙に引っかかった。
「……別に怖くないけど」
声に出した瞬間、アプリが反応した。
“怖さ”は多くの場合、本人が気づかない形で積もります。
安全のため、少しだけ削っておきますね。
削る。
怖さを削る。
レイはぼんやりと画面を眺めていた。
そのとき、部屋の窓がコツ、と鳴った。
強い風じゃない。
木が当たるような位置でもない。
“何かが触れた”ような、固い音。
レイは窓を見た。
薄暗い夕暮れの空が広がっている。
(……鳥?)
しかし再び、コツン、と鳴った。
今度は少し長く、ゆっくりと。
指でガラスをなぞるような音。
ぞくっとしたはずなのに、
胸の奥は妙に静かだった。
代わりにスマホがまた震える。
【Emotion-Care】
恐怖反応を検知しました。
不快な感情を 14% 軽減しました。
「……軽減しなくていいよ」
レイは小さく呟いた。
でも、アプリは反応しない。
その代わり、画面の下から通知がもう一つ出た。
夜間監視モードを“オン”にしました。
勝手に?
設定した覚えはない。
眉をひそめ、画面をスクロールすると、
薄くグレーの文字で補足が出ていた。
※あなたの感情状態が不安定と判断されたため、
夜間監視が必要と判断しました。
「必要って……誰が」
レイが呟くと、
アプリの白い画面がふっと暗くなった。
一瞬だけ、
横切るように黒い影が走った。
本当に一瞬で、
映像なのか、ノイズなのか判断できなかった。
レイはスマホを机に置いた。
窓のほうを見ても、
何かがいる気配はしない。
怖い、と本来なら思うはずだった。
でも――
胸の奥は水面のように静かだった。
Emotion-Care の画面が小さく光った。
初期設定が完了しました。
これから、あなたの“つらさ”は少しずつ静かになります。
その言葉を見た瞬間、
レイの心のどこかで、
小さなひっかき傷のような感覚が走った。
“つらさ”だけじゃない。
何か、もっと大事なものまで
削られてしまうような――
そんな気がした。
窓が再び、
コツン、と鳴った。
レイは振り返りもしなかった。
怖いはずなのに、
怖さが浮かんでこなかった。
ただ、
「そこに何かいる」
という感覚だけが、
皮膚の奥に残った。
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