日本軍の戦車師団
曇空 鈍縒
日本軍の戦車師団
◇日本軍戦車の沿革
現在、日本軍の戦車について良い噂を聞くことは、あまりありません。
それらの噂には、旧式で他国の戦車に遅れを取っていた、装甲が小銃で貫通された、対戦車戦に弱かった、そもそも数が揃わなかったなどがあります。
そして、その噂の多くが、概ね事実です。
日本軍は欧米に対して技術で遅れを取っており、太平洋戦争の開戦直前まではなんとか欧米水準に追いついていたものの、戦時下の急激な技術進歩に追随することはできませんでした。
それは航空機や船舶の分野でも言えることですが、特に欧米での進歩が目覚ましかった戦車は一瞬にして旧式化してしまいました。
第二次世界大戦とは戦車の運用思想が大きく変化した戦争であり、その急激な変化に日本陸軍はついていけなかったのです。
そんな日本軍ですが、戦車という兵器には、かなり早い段階から注目していました。
まず1918年にマークⅣ、ホイペットA型、ルノーFT等の、第一次世界大戦で開発されたばかりの戦車を輸入し、1927年には57ミリ砲などを搭載した最初の国産戦車が開発され、2年後の1929年には、本格的な国産戦車である89式中戦車の開発に成功します。
この89式中戦車は当時の欧米戦車の水準を十分に満たしており、日本軍の戦車製造能力はこの時点で世界水準と同等にあったと言えるでしょう。
そこから日本軍は1935年に軽量で俊敏な95式軽戦車ハ号、そして1937年に89式中戦車の後継である97式中戦車チハを開発します。
そして1939年、ノモンハン事件が勃発します。
ここで日本軍の戦車部隊は初めて戦車同士の戦闘を経験することとなりました。
日本軍の戦車部隊は大きな戦果を上げたものの、ソ連の対戦車砲等による攻撃を受けたため、その損害も大きなものでした。
最終的に虎の子の戦車戦力を喪失することを恐れた軍上層部の判断で戦車部隊は撤退し、ノモンハン事件は日本の負けという形で終結します。(ただソ連軍の装甲兵器は大半が速射砲などで撃破されており、対戦車戦闘で日本軍の戦車部隊が果たした役割はそれほど大きくありません)
この時点での日本軍の戦車は、決して欧米に対して遅れてはいませんでした。
そこから主に日中戦争において、日本軍の戦車部隊(主に連隊単位で運用されていた)はそれなりの活躍をします。
日本軍の戦車が対戦車戦で弱かったのは事実ですが、対歩兵戦では非常に強く、軽量なため悪路の走破も可能で、輸送もしやすく、数々の戦果を上げました。
またアジア・太平洋戦争開戦直後、南方のマレー半島において日本軍が行った電撃戦でも、戦車部隊は重要な役割を果たしました。
その後、日本が徐々に押されるようになってくると、日本軍の戦車部隊はその多くがユーラシア大陸から太平洋へと移動し、点在する島々で、主に連隊単位でアメリカ軍を迎え撃ちました。
この頃になると、戦車を更新しなかった(というよりできなかった)日本軍の機甲戦力は、相対的に大きく低下してしまいました。
欧州の戦場において戦車は目覚ましい進歩を遂げており、特に装甲と火力が急上昇しています。20〜50ミリ程度だった戦車砲の口径も、75〜88ミリの貫通力を重視したものを積み込む戦車が現れ、それに合わせて装甲も強化されました。
たった数年間で急激に上昇した戦車の能力に追随する能力など日本軍は有しておらず、またそもそも、貴重なリソースを過剰に戦車に割く必要性も日本軍は感じていませんでした。
日本軍にとって、戦車とはあくまでも歩兵と戦う兵器だったのです。
日本軍戦車の最後の戦いは、ソ連の対日参戦後、占守島において日本軍の戦車第11連隊が上陸してくるソ連軍歩兵部隊を迎え撃ったというものです。
十を超える戦車師団を編成して大活躍させたドイツ国防軍や、大量のT-34、M4戦車を運用したソ連軍、アメリカ軍とは異なり、日本軍の戦車は主に連隊単位で運用され、決戦戦力というよりは歩兵の掃討など地味な役割を担い続けました。
ですがそんな日本軍にも、百両以上の戦車を有する師団規模の戦車部隊というものは存在しました。
今回は、そんな日本軍の戦車師団について紹介しようと思います。
◇日本軍戦車師団の概要
日本軍は、合計で四個の戦車師団を保有していました。
1942年6月に、臨時編成されていた第1、第2戦車団を元に編成された戦車第1師団、戦車第2師団(関東軍隷下)。同年の12月に駐蒙の騎兵集団を改変して設立された戦車第3師団(駐蒙軍隷下)、そして1944年7月に本土決戦に備え教導隊や学校の人材を引き抜いて設立された戦車第4師団(第36軍隷下)です。
まず第1〜第3戦車師団については、設立時点で二個戦車旅団(それぞれ二個連隊編成)と一個機動歩兵(機械化歩兵)連隊、一個砲兵連隊、その他諸部隊を有していました。
ちなみに同時期のドイツ軍の戦車師団には、一個装甲旅団(二個連隊編成)あるいは一個装甲連隊が配備されており、またソ連軍においては三個戦車連隊編成となっています。
ただ、その後、日本軍の戦車師団は隷下の戦車連隊を太平洋戦線に転用されて、終戦時には戦車師団隷下の戦車連隊は四個から三個に減ってしまいました。
次に戦車第4師団は極めて特殊な編成になっており、三個戦車連隊の他には高射隊や通信隊などの支援部隊を除き部隊を有していません。隷下に歩兵がない戦車部隊というのは、非常に稀です(規模も六千人弱と、一万人以上の兵員を抱える通常の師団と比べかなり少ないです)。
これは、戦車第4師団が、九十九里浜に上陸してきた米軍の機甲師団と関東平野で戦車戦を繰り広げるために設立された部隊であるからでしょう。
終戦時、関東に駐屯していた第36軍は関東軍から引き抜いた戦車第一師団と、戦車第四師団の二個戦車師団を有しており、もし本土決戦が行われていたら、史上最大級の戦車戦が繰り広げられていたと言われています。
第1と第4の戦車師団は、そのまま関東平野で終戦を迎えました。
ちなみに終戦時、戦車第3師団は日本軍が戦術的勝利を挙げた老河口作戦に参加し、その後北平付近の警備を行っていました。
また、戦車第2師団は、一個連隊(戦車第11連隊)が占守島の守備に引き抜かれた状態でルソン島の戦いへと派遣され、そこで壊滅しました。
太平洋戦線では滅多に起こらなかった戦車戦ですが、ルソン島の戦いにおいては現地に日本軍の戦車師団があったために多くの戦車戦が発生したそうです。
全体を通して見ると、日本軍の戦車師団はそこそこの戦果を上げているものの、あまり大活躍はしていないように思います。
その理由には、本土決戦のために戦車戦力が温存されていたというものと、日本軍の戦車が対戦車戦ではなく対歩兵戦を重視して開発されていたというものの、二つがあります。
日本陸軍の主な敵である中国軍は戦車をほとんど運用していませんでした。つまり日本陸軍が戦場として想定していた中国戦線では、戦車が敵戦車に遭遇すること自体が稀だったのです。
また、たとえ遭遇したとしても、戦車の対応は対戦車砲の仕事であって戦車の仕事ではないというのが、日本軍の考え方です。
そのために、戦車による大規模戦闘というものがほとんど発生せず、結果として日本軍の戦車は活躍の機会をあまり与えられなかったのでしょう。
また、太平洋の島々においては、そもそも戦車を海上輸送することが難しいため、米軍も日本軍も大規模に戦車を運用する機会があまりありませんでした。
ただ、戦時中に開発が進められていた三式〜五式中戦車にかけては、欧米に合わせて対戦車戦闘を意識した設計になっています。
ですが、三式を除けば終戦時点では試作品しか作られていません。戦時下の日本には、そもそも戦車を更新する余裕がなかったのです。
また部隊配備まで漕ぎ着けた三式の方も、戦車師団にまとまった数が配備されるのではなく、各戦車連隊に分散配置されており、その数自体が非常に少なく、しかも本土決戦に備えて温存されたため、実戦を経験することはありませんでした。
ただ、たとえ三式中戦車が大量配備され、日本陸軍が強力な機甲戦力を保有したとしても、東南アジアや中国の悪路で、兵站能力の乏しい日本軍が重量のある三式中戦車を運用する能力はなく、その意味もありません。
性能にこだわりすぎず、小型軽量な95式、97式戦車を主力とした日本軍の判断は正しいと、私は考えています。
◇日本軍戦車師団の編制
ここからは、日本軍の戦車師団の編制(終戦時点での主な戦車師団)について紹介しようと思います。
細かい人数については師団によって異なりますが、全体的な編制と規模は、戦車第四師団を除き共通しています。
まず、師団隷下に三個が編制されている戦車連隊は、それぞれ1071名の兵員と40〜60両程度の戦車、装甲車を保有しており、師団全体で173両ほどの戦車を有していました(歩兵連隊や師団司令部に配備されているものを除く)。
また、師団隷下に一個が編制されている歩兵連隊(機動歩兵第◯連隊)には、3029人と自動車87両、軽戦車・装甲車232両があります。
その他、師団隷下の砲兵連隊(機関砲第◯連隊あるいは機動砲兵第◯連隊と記述されている)、速射砲隊、工兵隊、防空隊、整備隊、輜重隊にも自動車や装甲車がそれぞれ数十両配備されており、兵器の定数だけ見れば、師団の全てが機械化されているように見えます。
ただこの数字はあくまでも定数、つまり予定されている配備数であり、日本軍の生産能力的に、実際にこの数が配備されていた可能性は低いでしょう。実際には、一部兵器は馬車等で代用されていたか、あるいは、そもそもなかったと思われます。
また師団司令部要員は201名(通常100名前後)と多く、戦車あるいは装甲車が35両と乗用車15両、トラック16両が配備されています。
師団司令部の機甲戦力は、おそらく司令部直轄の偵察部隊等が保有していると思われますが、司令部の詳細な編成が不明なので、詳しくは分かりませんでした。
ちなみに戦車第4師団を除き、戦車師団はそれぞれ12000名ほどの兵力を有していました。この数は、当時の標準的な歩兵師団と同程度か、少し少ないくらいです。
以上が日本軍の戦車師団についてです。
楽しんでいただけたとしたら幸いです。
◇参考文献
https://www.mod.go.jp/gsdf/nae/7d/tk_history.html
『戦車博物館』
陸上自衛隊第7師団ホームページ(2025年12月2日利用)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
『ノモンハン事件』
Wikipedia 2025年12月2日閲覧
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%88%A6%E8%BB%8A%E7%AC%AC2%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)&wprov=rarw1
『戦車第2師団(日本軍)』
Wikipedia 2025年12月2日閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%88%A6%E8%BB%8A%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
『第1戦車団(日本軍)』
Wikipedia 2025年12月2日閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
『ルソン島の戦い』
Wikipedia 2025年12月2日閲覧
「戦車第1師団(拓)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121146400、戦車第1及至第4師団 編制装備表 昭和17年6月~20年8月(防衛省防衛研究所)
「戦車第4師団(鋼)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121146700、戦車第1及至第4師団 編制装備表 昭和17年6月~20年8月(防衛省防衛研究所)
https://www.jacar.go.jp/glossary/term/0100-0040-0080-0010-0010-0010-0050-0030.html
『戦車第3師団(瀧)』
アジ歴グロッサリー
日本軍の戦車師団 曇空 鈍縒 @sora2021
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