4.水槽の魚
※ ※ ※
夕飯は、唐揚げだった。父と母と奏羽と、ぽつりぽつりと会話をしながら夕飯を終えて、自分の部屋へと戻ってくる。制服を脱ぎ捨てて、白い半袖のシンプルなワンピース一枚。部屋の中にいる分には、ぺらっぺらで何からも身を護ってくれなさそうな服でも構わなかった。コンビニに行くとか、どこかへ出るのならばもう少し考えるけれど。
部屋に置かれた水槽の中、スマートな流線形の体をした金魚が、吹き流しのような尾をくねらせて泳いでいる。いちにいさんし、と数えて、五匹いることを確認する。エアーポンプがぽこぽこと泡を吐き出しているのを見ているだけで、少し気分が落ちついてきた。
赤い金魚が二匹。白い体に赤い模様のものが二匹、白い体に頭が赤くて黒い斑点のあるものが一匹。毎年夏まつりのたびに金魚を一匹連れ帰ってくるものだから、毎年この水槽の中には金魚が増えていく。「よく死なないな」と感慨も何もなく言い放った一穂には、金魚の餌をパッケージごと投げつけた。
生殺与奪顕を自分が握っている生き物が、室内にいる。エアーポンプのコンセントを抜いてしまえば、金魚たちは酸欠になって水面に上がってくるだろう。ぱくぱくと口を開けて、必死で生きようとするのだろう。生物というのは、目の前の『生』にしがみつくから。
息をしろ。酸素を回せ。たとえそれがどれだけ億劫だとしても。
ずるりと体を引きずるようにして、金魚の水槽の前からベッドへと体を動かした。頭を使いすぎたというのと、情報が多すぎたというのと、原因はきっとその二つ。ぐるぐると動き続ける思考がわずらわしくて、そのままベッドの上に体を投げ出した。
面倒だ。億劫だ。何もかもすべてが煩わしい。
「『薔薇園の淑女』のカード、報道部への手紙、盗難事件」
朝七時に学校へ行って、『薔薇園の淑女』に会った。報道部に届く手紙の内容を予見していたかのような内容は、果たしてどのような思惑によるものだろう。
彼女は手紙の内容を知っていたのか。誰が何のために、あんな手紙を山添の白衣に入れたのか。そもそも山添は、それに気付いていなかったのだろうか。
「鈴東亜梨須、痴漢騒動、動画」
報道部への手紙に記された名前は、以前痴漢騒動で犯人をぼこぼこにしたという。ぼこぼこにした、というのは山添の表現だが、それはどの程度のものだったのだろう。
被害にあったのは銀嶺鏡学園の生徒で間違いない。では、加害者は。鈴東亜梨須は加害者に立ち向かい、過剰とも言えるような行動を起こした。彼女にとってそれは正義感からの行動だったのかもしれないが、果たしてそれは喜ばしいことだったのか。
「イーゴの、炎上」
事の発端は、やはりこれだ。蒼雪から頼まれて一穂がイーゴのアカウントに上げた、どこぞの歯科医院の院長の日記。
ごろりとベッドの上で転がれば、真っ白い天井が見える。クリーム色の壁紙との境目にある茶色の線を、指で一の字を書くようになぞってみる。空気をそうして動かしてみたところで、目に見えないものがどう動いたのかが分かるはずもない。
室内の家具が淡い色合いで統一されているのは、奏羽の趣味ではない。ただ母が買いそろえるままに入れられた家具は落ち着いた色合いではあるものの、奏羽にとっては淡くてふわふわとしすぎていて、どこかそぐわないのだ。
「一穂のせいだ。みんなみんな、一穂のせいでこんな面倒なことになったんだ」
「俺がどうかしたか?」
寝返りを打って枕に顔をうずめるようにして、くぐもった声で一穂への文句を口にする。聞こえるはずのなかった返答に再びごろりと転がれば、いつの間に部屋に入ったのか、一穂が上から奏羽を見下ろしていた。
一応これでも、高校一年生。十六歳なのだが。幼馴染といっても異性が勝手に部屋に入りこんで良いものか――なんてことは、一穂に対して思っても今更だ。
「ノックくらいしてよっていつも言ってるじゃん」
「したした。お前が返事しなかったし、今日は閉店かと思って」
「そう思うなら入ってこないでよ」
起き上がりもせずに一穂に文句を述べても、彼は右から左に聞き流した。ぱたりと足を動かせば、ワンピースの裾がめくれ上がって太腿に布の端の感触がする。
「足、見えてる」
「良いよ別に、一穂だもん」
小学生の頃に、学校から帰る途中で夕立に降られた。二人してびしょ濡れになった結果、まとめて風呂に入れられたのは一度や二度ではない。雨蔦重の家にある風呂か、染井の家にある風呂かは違っても、二人一緒に風呂に入ったことに変わりはない。
だから、今更だ。どちらかに彼氏なり彼女なりができればこの曖昧なようで明白な幼馴染という関係性にも変化が生まれるのかもしれないが、今のところ奏羽にその予定はない。一穂の方がどうなのかは知らないが、互いに女子校と男子校に通っているのだ。共学校と比べればそういう間柄になる誰かと出会う確率は低いだろう。
「億劫そうだな」
「全部一穂のせい。一穂のせいで面倒なことになったんだから、責任取ってよね」
「そうか、俺のせいか」
枕を抱えて、今度は仰向けになる。昔はぬいぐるみを抱えていたのに、いつしかそういうものはウォークインクローゼットの向こうに片付けてしまった。ベッドの枕元に鎮座しているのは、小さなラブラドールレトリバーのぬいぐるみひとつだけ。去年の奏羽の誕生日に、一穂がラッピングもしないままに渡してきたものだ。
どうせゴミになるだけだろ、だって。確かにその通りなのだけれど、情緒もへったくれもない、十五歳の誕生日プレゼントだった。
「嬉しそうな顔しないでよ」
「してたか?」
「してたよ。まあ別に、いつも通りの顔だけど。一穂、だいたいいつも笑ってるし」
目を閉じれば、何も見えない暗闇に沈める。すぐ近くに一穂の気配はあるが、彼の気配があったところで日常が壊れるわけでもない。
一穂がいるのは、当たり前だ。気配が隣にあるのはいつものことで、今更気にするようなものでもない。
「疲れたのか」
「そうだよ」
抱きしめた枕に、ぎゅっと力を込める。柔らかい枕なのは、奏羽の趣味だ。
「息するのもめんどくさい。生きるのってめんどくさい」
けれど、呼吸は勝手には止まらない。意識して命令をしなくても、人間は呼吸をするし、臓器を動かすためのエネルギーを生み出し続ける。息をするのも億劫なのに、呼吸が勝手に止まるようなことはない。
「お前が息の仕方を忘れたら、俺がきちんと教えてやるさ」
「そこまでして私を生かしてどうするの」
「お前がいないとつまんないし。生まれてからずっと一緒にいるんだから、今更お前がいない生活なんて俺には想像つかないな」
どうやって呼吸の仕方なんて教えるつもりなのだろう。人工呼吸でもしてくれるのか。想像するとちょっとどうかと思う絵面だが、きっと一穂はいつも通りの笑顔のままで奏羽に人工呼吸をして酸素を与えることだろう。
目を開けて、金魚の水槽を見る。ぽこぽこと泡を吐き出し続けるエアーポンプが、一穂の姿と重なる気がした。「今年も夏祭り行くか」と聞かれて、「うん」とだけ短く口にする。
「調べて欲しいことがあるの。銀嶺鏡の生徒が痴漢被害にあって、その加害者を銀嶺鏡の生徒がぼこぼこにした事件。動画がSNSで拡散されてるはず」
「そういやあったな、そんなの。他は?」
「……フリマサイトに、銀嶺鏡のものって出てるかな。新品じゃないやつ」
痴漢騒動、盗難の頻発。前者は実際に発生したことで、後者は本当に発生しているか分からないものだ。誰かが盗んだとして、盗んだものはどうしているだろう。自分の手元に持っているのか、捨てているのか、売っているのか。
フリマサイトに出品があるかは分からない。あればいいなと、それくらいだ。けれどあったところで、それが本当に盗品かは不明瞭だろう。卒業生が使用済みを売っている可能性だってあるのだから。
「お前、何か盗られた?」
「私は何も」
「ふうん。なら良い」
一体何を確認したかったのか。奏羽は盗られたものは何もない。もしもあったのなら、盗難事件の信憑性は増しただろうに。
「あ、動画見付けてもイーゴのアカウントで拡散したりしないでよ」
「誰がそんなことするか。確認だけだろ。俺の個人的な方でも拡散なんてしない。他人のプライバシーを侵害する趣味はないね」
「他人の日記を拡散させて炎上させたくせに」
「あれは蒼雪からの依頼だからな」
ごろりと転がれば、ワンピースの裾がまためくれて足にひやりとしたシーツが触れる。気にせずにそのままでいれば、一穂のため息の音がした。
「おい、まためくれてる。足」
「気にするようなものじゃないでしょ」
それきり、一穂は静かになった。何をしているのかと見てみれば、彼はベッドにもたれるようにして床に座り、スマートフォンを操作している。隠すつもりもないらしい画面の中には、イーゴではない別のアカウントが見える。
「俺も偏見があったな」
「何が」
「痴漢の加害者っていうから、おっさんかと思ってた」
「違うの?」
「違う。これ」
向けられた画面の中。見覚えのある制服。
ベージュのジャケットに深緑のチェックのスラックス。ネクタイの色は、深い紫。それは中学受験では馴染みがない、けれど高校受験であれば最も受験生が多い私立の学校のものだ。
「――
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