2.正義に酔いしれる

 この告発は、冤罪です。

 白い皿の上にあったカードに書かれた文字が、奏羽の脳裏を流れていく。報道部に届いた匿名の手紙は、罪の告発。けれどこれが『薔薇園の淑女』が与えたカードの通りに冤罪なのだとしたら、誰かが鈴東亜梨須を陥れようとしているということになる。

 銀嶺鏡学園は、女生徒ばかり。女子校なのだからそれは当然として、けれど、決してそこは『平和』ではないと誰もが知っている。人間というものは集まれば面倒なことになって、けれど孤独に生きられるわけでもない、欠陥の多い生き物だ。

 冬の鳥、光を探せ。冬を越える地を探せ。それがどこにもないのだとしても。


「なら先生は、これは鈴東さんを陥れるための冤罪だと?」

「さあ?」


 よれた白衣から、消毒液の強いにおいがする。それから、柔軟剤か何かだろう人工的な花の香り。薔薇温室のむせかえるような薔薇のにおいではなくて、もっと洗剤だと分かるようなにおいだった。

 これは、他人に不快感を与えないためのものか。けれどすべては偽りで、これに忌避感を抱く人もいるだろう。鼻の良い人間であれば、気持ち悪さすら覚えるのかもしれない。


「正義感の強い人間が罪を犯さないわけじゃないしなあ」


 何をもって、正義と呼ぶか。

 誰かを苦しめた人間を、殴ったとする。あるいは、排除したとする。それは果たして正義に基づいた行動か。他に方法がなかったと叫ぶ人に罪はないのか。


「正義って、欺瞞で、独善だろ? それは決して善じゃない」

「そうですね」

「僕は個人的には、正義ってものは世の中で大層罪深い考え方だと思ってるよ」


 正義の反対は、悪ではないのだという。正義と正義はぶつかり合うもので、それらすべてを肯定することもできない。

 その言葉を振りかざすことは危険な行為なのだと、山添に咎められているように思えてしまった。それはイーゴの炎上が、正義感を振りかざしたように思えたからかもしれない。

 一穂がイーゴのアカウントで流したものは、過去の罪の告白だった。たったひとつ、百字にも満たないその投稿は、ある種の正義感に酔う人々を刺激した。

 ならばこの鈴東亜梨須を告発する手紙も、誰かが酔いしれた正義という麻薬によるものか。自分には正義があると、だから人を裁いて良いのだと、そんな傲慢を抱えた誰かが山添のポケットに忍ばせたのだろうか。


「正義」


 イーゴは、そういうものじゃない。そんなことのために、あるアカウントじゃない。

 だからといって、奏羽は腹を立てるくらいしかできなかった。一穂がイーゴのアカウントを使った理由は理解ができていて――もっと我を忘れて怒り狂えばすっきりしたのか。こういう時に、頭の一部が冷えているというか、自分自身を俯瞰して眺めているような、そんな傍観者じみた自分の理性が嫌になる。

 何もかも、面倒なのに。息を吸って吐いている、それだけでも重労働なのに。


「僕には無縁のものですね」


 奏羽は、正義なんてものを持ち合わせていない。あるのはただ、自分の平穏を守るという欲求だけだ。それから、姉の役に立ちたいというそれくらいだ。

 この冤罪と思われる件とて、正義感があれば『何とかしてやろう』とでも思うだろう。けれど生憎、奏羽の中にそんなものが生まれてくる気配もない。顔を合わせたことがあるとしても、所詮は顔と名前の一致しない相手。一穂が相手だったとすれば少しくらい手伝うかもしれないが、そうでもない相手に何をしろと言うのだろう。

 ただ、今回はそっぽを向き続けるわけにもいかなくなってしまった。すべては今朝与えられた白いカードのせい。「Buon appetito召し上がれ」だなんて、本当にくだらない。あの『薔薇園の淑女』とかいう存在も、何もかもすべて芝居がかったような出来事も。


「そうか?」

「僕は所詮、面倒事を避けたいだけですので」


 勤勉な面倒くさがりは、後の面倒を避けたいだけだ。誰かのために何かをしようとか、そんな高尚なものもない。だから目の前にあるものが何も奏羽を脅かすことがないのならば、率先して何かをするということもない。

 今回の『薔薇園の淑女』のことだって、退学というものとセットで噂される存在でなければ無視をしたって良かった。けれどそうではないから、奏羽は彼女が渡してきたカードを筆箱に入れたし、今もこうして鈴東亜梨須のことを考えている。


「ところで先生」

「何かな」

「消毒液と柔軟剤と……あと何ですか、化粧品ですかねこれ。臭いです」

「あ、やっぱ分かる? 授業の時は誰も言わなかったから良いかなーって思ってたんだけどさあ、駄目かー。いや今朝演劇部の朝練に顔出してね? そこで男装する子の化粧見てたんだけど、香水引っくり返しちゃったんだよね。臭い消せないかなって白衣にアルコールかけてみたんだけど」


 山添は演劇部の副顧問であるので、何ら疑わしいところはない。銀嶺鏡学園は女子校であるので、男の役をする必要があれば誰かが男装をするのは必須になる。

 そういえば前に、王子様役がどうとかでスカウトされたことがあった。そんな面倒なことをしたいはずもなくて、奏羽は丁重にお断りしたけれど。


「臭いです」

「そんな何回も言われるとさすがに僕も傷付くんだけど? はあ、ひっかぶるなら百合の香りの方が良かったんだけどなあ。アイリスたんもリコリスたんも公式で百合の匂いがするってなってて、あ、いや百合の匂いって言ってもそういう意味じゃなくてね」

「そういう意味がどういう意味か知りませんが、僕は今先生のあまりのブレなさに感心だけしてます」


 何でも良いが、思考が反復横跳びでアニメに戻っていくのは最早仕方がないのか。机の上に山と積まれた菓子の山は、奏羽も山添も手を伸ばさないせいで減らないまま。手紙を引っ張り出した時に崩れたままの山は、水に流されたまま放置された山肌にも似ている。


「鈴東亜梨須の件に戻って良いですか」

「良いよ!」


 山添の許可など本当は要らないが、つい聞いた。そして返ってきたあまりにも軽い許可の言葉に、こめかみの辺りが痛みを訴えている気がする。


「さっきも言ってましたが、先生は鈴東さんをご存知なんですよね?」

「そりゃ僕、先生だから。授業に入ってるクラスの生徒なら、全員顔と名前は一致するに決まってるだろ?」

「正義感が強いということは、学級委員みたいな感じですか」

「いいや? あれだよ、派手な女子。髪の毛巻いて、がっつり化粧して、一番可愛いと思えるスカートの丈を模索する、みたいな?」


 そんな風に区分けするものでもないが、銀嶺鏡学園に通っている生徒を大きく括れば三つのグループに分類できる。派手な生徒と、ひっそりと静かにしている生徒と、そしてその中間にいる大多数。偏見かもしれないが、つまり鈴東亜梨須は教室で寄り集まって大きな笑い声を上げている集団の一員、ということだ。

 派手で、正義感が強い。おおよそどんな雰囲気かは想像がついた。その二つは相反するものではないが、違和感がないわけではない。

 ただそれなら、校則違反も見逃さずにおけばいいのに。山添の言葉をすべて信じるのであれば、おそらく鈴東亜梨須が模索しているスカート丈というのは、校則違反だ。そもそも派手すぎる化粧も校則違反なのだが、その辺りはどうなのだろう。


「それで正義感が強い?」

「友達がひどい目にあったらきっちり報復するみたいなね」

「くだらない正義感ですね」

「うわあ、ばっさり。ほら、あれだよ。この前痴漢騒動があったでしょ、城内じょうない線で」 


 山添の言う痴漢騒動は、覚えがあった。銀嶺鏡学園の生徒も多く利用する、宮杜市の栄えている地域をぐるりと一周する地下鉄城内線。通勤通学の人でごった返す地下鉄の中で起きた騒ぎだ。

 被害者は銀嶺鏡学園の生徒だった。その加害者が捕まったというそれだけならば、騒動になんてなりはしない。いや加害者は捕まったのだが、そこに付随するものが問題だった。


「ありましたね。犯人を銀嶺鏡の生徒がぼこぼこにして、土下座させて、その動画が流出して大騒ぎになった」

「うん。鈴東亜梨須は、あれの主犯ね。あ、ぼこぼこにした方だから。動画は違うよ」


 それは、ある種の暴走した正義ではないのだろうか。イーゴの炎上と同じ、欺瞞と自己満足でしかない、正義に酔った行為ではないのか。それでも鈴東亜梨須は、それが正しいことと信じて行ったのか。


「……そうですか」


 絶対に、気が合わない。そして、これが冤罪だとしても助けてやろうとは思えない。だって絶対、関われば後から面倒なことになる。

 貴女にこの謎、解けるかしら。今更ながらに『薔薇園の淑女』の言葉に腹が立ってくる。そう思うのならば自分で動けば良いのだし、脅迫するように奏羽を使う手間もない。


「ともかく、盗みなんてするような子じゃないんだよ。むしろ、窃盗犯を物理でぼこぼこにしそうなくらいだし」


 だからこそ、鈴東亜梨須は狙われたのか。ならばこれは、やはり冤罪か。この告発は、偽りか。そんなことをして誰が得をするのかも分からないけれど。

 そうだとすれば――誰からの恨みか。どうにも、話を聞くだけでも恨みを買っていそうではある。

 事実ならば、鈴東亜梨須が盗みを働いたそこに彼女なりの正義があるのかもしれない。それは明らかに酔いしれるように暴走した正義だろう。

 虚偽ならば、鈴東亜梨須を恨んで陥れようとした誰かがいるのだろう。それを報道部に送ってきた意味が奏羽にはとんと分からないが。

 山添のせいで室内に充満する何とも不快に入り混じったにおいにくらくらする。ひとつひとつならば気にもしないものなのに、重なって不協和音にも似たものになったにおいが、本当に奏羽には不快だった。

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