鶴の一声-結
「え…?」
「どんな理由であれ、カンとか違和感みたいなのが鋭い人もいる。いくら数年ぶりに会ったとはいえ、夫の父親の『違和感』に気づかない人ばかりじゃない。甘い缶コーヒー、穏やかすぎる性格。決定打は、利治本人と陽子さんしか知らないはずの、些細な思い出話への反応のなさだ。例えば『昔、お義父様にいただいたあの万年筆、今も大切にしてます』とか言った時に、偽物は『おお、そうか』としか返せない。本物なら『あれは〇〇の時の記念品でな』と続くはずだ。そういう小さな棘が、陽子さんの疑惑を確信に変えた」
柿本の推理は、まるでその場を見てきたかのように具体的だった。
「陽子さんは、偽物(治)を脅したんだ。『あなたの正体を黙っている代わりに、私に全財産を託すという遺書も書きなさい。家は私が守ってみせる』…と」
「まさか…陽子さんがそんな…」
「脅したとは限らないけどな。形的にはいろいろ犯罪に引っかかる行為だから口封じも込めてるだろう。例え脅しだとしても偽物(治)は、陽子さんの要求を喜んで飲んだだろうさ。共犯者を手に入れられるんだからな。だが、どちらの遺書も本物だと言い張り、兄妹(重次と彩花)を争わせている。あいつの本当の狙いは、家族同士が泥沼の相続争いをしている隙に、会社の資産をすべて現金化して、海外に高飛びすることだ。陽子さんごと、全てを切り捨ててな」
これが、真相。なのだろうか。仮にここまでの話が全て本当だったとして。真相は本人にしかわからない。
こんなことが現代で起こるのだろうか。今もにわかには信じがたい。
私は明に全てを話し、柿本に手配してもらった利治本人の過去の筆跡(古い契約書)のコピーと、登記簿の束を明に明け渡し。続報を待った。
「結」
以下は明からもらった話だ。
その日リビングのソファに、その男は座っていた。
「宮森 利治」の顔をした、見知らぬ男。
私と明が、陽子さんを伴って部屋に入ると、彼はいつものように「老人らしく」ニコリと笑った。リビングには重次さんと彩花さんも呼び出されており、家族全員が揃っていた。
「おお、明か。それに、お友達も。陽子まで揃って、どうしたんじゃ、皆して真面目な顔をして。遺産の話なら、わしが決めると言っておろう」
男は、まだ「利治」のフリを続ける。自分がまるで。この遺産のいざこざの中心。まだ声を上げる前の穏やかな鶴のように。
「爺ちゃん…いや」
明が緊張で言葉に詰まる。私が一歩前に出た。
「はじめまして。…と言った方がよろしいでしょうか。私たちは、二年前のアフリカ出張について、お伺いしたいことがあって来ました」
ジャブのつもりだった。だが、その瞬間、男の顔から笑みが消えた。
空気が凍りつく。男はゆっくりと立ち上がり、その目を細めた。それはもう、「穏やかな老人」の目ではなかった。
「……何の、ことかな」
「とぼけないでください。宮森 治さん」
その名前を口にした瞬間、重次さんと彩花さんが明らかに何の話か分からない態度をしている。だが、男は二人を無視し、私だけを射抜くように見つめていた。
「二年前、宮森利治さんはアフリカの出張先で亡くなりましたね。あなたは、利治さんの双子の弟、治さんだ。利治さんに疎まれ、ずっと北海道の事業を任されてきた」
男は何も答えない。だが、その目が「老人」のものではなく、長年日陰で牙を研いできた、鋭い「経営者」のそれに変わっていた。
「あなたは利治さんの死を秘匿し、彼になりすました。この家の資産、宮森グループのすべてを、長年の恨みと共に奪うために」
「……証拠は」
低い声だった。
「登記簿です」
私が鞄から北海道の会社の登記簿の束を出す。
「二年前のあの日を境に、全ての代表取締役が『宮森 利治』から『宮森 治』へ、不自然なほど一斉に変更されている。そして…」
私はもう一つのファイルを突きつけた。
「これは、本物の利治さんが10年前に書いた契約書の筆跡。そして、これがあなたが書いた『二つの遺書』の筆跡。……鑑定の結果、別人のものと出ました」
その言葉が引き金だった。
隣で震えていた陽子さんが、堰を切ったように泣き崩れた。
何か私は気づいていた。という旨を泣きながら話していたが要領を得なかったのでまとめると、
陽子さんが入れたコーヒーを今まで一度もおいしいと言ってくれなかったが、帰ってきたその日に入れたコーヒーをおいしいと言って飲んだ。
それから何日も同じものを出しても変わらず、一月後にインスタントのコーヒーでもおいしいと言っていることで確信に変わったらしい。
やはり、柿本の推理通りだった。
陽子さんは「治」の正体に気づき、取引を持ちかけた。
「治」は、陽子さんを共犯者に引きずり込むため、二つ目の遺書を書いた。
そして「治」は、重次さんと彩花さんの兄妹喧嘩を煽り、陽子さんをも疑心暗鬼に陥らせ、全員が潰し合うのをソファの上で笑いながら待っていたのだ。
「馬鹿な連中だ」
治は、初めて利治とは全く違う、低く冷たい声で呟いた。侮蔑と、長年の鬱屈が混じった声だった。
治の言い分はこうだ。
兄は事業経営の才能がありすぎた。
何をしてもうまくいく。そして自分の意見や事業は何をしても見下してくる。
挙句の果てには軌道に乗った北海道の事業を自身に押し付け兄は海外の事業に専念。
あたかも「お前にはせいぜい国内がお似合いだ」とでもいうように日本に帰ってこない。
北海道に支店のある関連事業から兄の訃報を聞いて、これを期に奪われたものをすべて取り返してやると思った。
といった運びらしい。
宮森のすべての財産を手に入れるということは、遺産というその後の財産の扱いだけでなく
今、この財産をどう動かすかというところにもかかわる。
つまり彼は、この一族の家計を握って彼らが金におののくさまを見て嘲笑っていたのだ。
この後、宮森家がどうなったか、私は知らない。
私が通報した警察が介入し、治は詐欺と横領、公文書偽造の疑いで連行された。陽子さんも重要参考人として事情を聴かれ、共犯とみなされたと聞いた。
主を失った莫大な資産は凍結され、明たち家族はあの豪邸を出て、無一文同然になったと風の噂で聞いた。
鶴の一声。
多くの議論を終わらせる、絶対的な権力者の一言。
とどのつまり、今回の件でいえば。
全ての意思を決定すべき鶴は利治さんであるはずだった。
本来鳴くべき鶴はもういない。
もうすでに。鶴は鳴けないのである。
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